第十三章 向暮楊風(五)
七月二十四日、左大臣藤原冬嗣は長良、良房をはじめ、多くの子供たちに囲まれ、苦しむことなく穏やかにその眼を閉じた。享年五十二歳。ひぐらしの声がうるさいほどに聞こえてくる中で行われた葬儀には、大勢の弔問客が駆けつけた。
神野の姿は、そこにはなかった。その代わりに、少し遅れて三守が姿を現した。
「―――三守、来たのか」
安世は僅かに頬を緩める。
「院が参列なさらないなら、わたしも冷然院に残るつもりだったのですが」
三守は眼を伏せた。
「院が、行けと仰せられて―――」
「そうか」
「冬嗣どのが、亡くなるなど……―――」
棺の方を見やり、言葉を詰まらせる。
「君は、何日か前に会ったそうだね」
「ええ」
三守は、掌に視線を落とした。
「後を頼む―――と、言って下さいました」
「そう」
「以前も、そうでした。冬嗣どのに、共に院をお援けしようと言って頂いて、わたしがどんなに嬉しかったか……―――」
その頃のことを思い出したのか、三守の眼に、涙が滲む。安世はその肩に、そっと掌を置いた。
「冬嗣も、嬉しかったと思うよ。君が院に仕えるのを見ていて一番嬉しかったのは、多分、冬嗣だったと思う」
三守は中納言を辞すとき、別邸の処分や使用人の再就職のことなどで、安世や冬嗣に相談をもちかけている。冬嗣は安世に向かって、
「三守だなあ―――」
と言って笑った。暗闇から突然陽光の下へ連れ出されたかのように、眩し気に眼を細めて。
三守が冬嗣に憧れたように、冬嗣もまた、どこかで三守に憧れていたのだ。あるいは、こう表現するべきなのかもしれない。三守の姿は、冬嗣にはどこか眩しかったのだ。―――神野にとって、おそらくそうであるように。
そしてその全てが、安世の眼に、あまりにも眩しい。
冷然院からは、その日、澄んだ琴の音が静かに聞こえていたのである。




