表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
62/79

第十三章 向暮楊風(四)

 人払いを、神野は命じた。

 外からはしとしとと雨の音が聞こえてくる。庭には樹々が茂り、濃い緑が雫に濡れて光っていた。主人に似て、落ち着いた趣がある。

「ここへ来るのも、久しぶりだな」

 ぽつりと、神野は呟いた。

「相変わらず、よい庭だ。……気持ちが落ち着く」

 冬嗣は淡く頬笑む。

「最近は長良がこまごまと手をかけてくれております。わたしはそういったことではどうも不調法で」

「よいことだ。―――寒くはないか」

「いえ」

 二人は黙った。

「三守は、元気にやっておりますか」

「ああ、あれは相変わらずだな。くるくると、よく働く―――」

 神野は言って、ふと思いついたように付け加える。

「そなた、篁を知っておるか」

「ええ。岑守どのの御子息でしょう」

「あの猪が、先日三守の娘の婿になったな」

「ほほう……。今、御子息は何を?」

「確か―――弾正少忠の筈だが。三守のやつ、何を考えておるやら」

「いい青年らしいではありませんか。文武に優れ、気性も真っ直ぐで」

「しかし、真っ直ぐすぎるのも多少問題はありそうだ」

「似た者同士というところですか。娘には、父親に似た男がよいとも言います」

「似ているか。……そうだな」

 ぽつりぽつりと、世間話を続ける。

「また漢詩集を編ませているそうですね」

「この度は、安世に任せておるが。仕上がるのは、来年になろうな」

「安世どのは、元気になさっておいでですか」

「このところ働きすぎだとぼやいておった」

 冬嗣が出仕出来なくなった今、安世は緒嗣に次いで、台閣で二番目に位置する重臣になっている。しかも左近大将と東宮大夫の兼任だ。帝が引きこもっている今、確かに忙しい日々だろう。『肩書きばかり大層になって』とぼやきながらも、一応せっせと働いている。

「院は、如何お過ごしですか」

「このところ、また少し使者が煩いな。おちおち詩も作れぬ」

 とりとめもない話だった。

 時折、ふと黙り込む。そうすると、樹々の上に落ちる雨の音が耳に聞こえてくる。まるで梅雨時のような、静かな雨だった。そうしてしばらくすると、またどちらともなく口を開き、他愛のない日常の話を続ける。

 どこか、別世界にいるようだった。二人の心には、だが、明らかに恒世親王のことがある。しかしどちらも口に出そうとはしなかった。

 事件後まもなく、床につきがちな大伴を、神野は見舞っている。

 大伴の表情は、少しいつもと違っていた。やつれた顔にあるのは、いつものどこかおどおどした、怯えるような眼ではなかった。血が(こご)ったような眼が、深い闇の奥からうかがうように、じっと神野を見つめていた。そして、ほとんど口をきかない。

 無理もない……

 心のどこかで仕方ないと諦めながら、それでいてずしりと疲れたような、そんな気分になった。

 ひとり、またひとりと、血縁者も、友も、この世を去ってゆく。淋しさというにはどこか虚ろな、癒しがたい疲労が神野の上に重くのしかかっていた。

「院……?」

 しばらく続いた沈黙を、冬嗣が静かに破った。神野はふと我に返る。

「ああ……すまぬ」

「御気分でもお悪いのですか?」

「―――」

 神野は冬嗣を見、苦笑した。

「病人にその様なことを言われているようでは、世話はないな」

「はは、確かに、そうですね」

 柔らかな声で冬嗣は言う。神野も共に、少し笑った。また少し、沈黙がある。ふいに、神野が口を開いた。

「長かったな……」

 苦く、そして柔らかな口調だった。

「随分長い間、共に闘ってきたものだ」

 冬嗣は神野を見る。神野の顔には、表情がなかった。冬嗣の口元に、幽かな笑みが浮かぶ。

「そうですね……。長い闘いでした」

「もしも、死後の世界というものがあるのなら―――おそらくわたしは、そなたと同じところへ行くのだろうと思うよ」

「―――院……」

 ちら、と、冬嗣の眸を、喜びとも悲しみともつかぬ、不思議な彩が過ぎった。

 生きんがための闘いの中で、どれほどの人を傷つけ、葬り去ってきたことだろう。幾多の人々の血に塗れながら、それでもこうして、生きてきた。そして神野の傍には、いついかなるときも、決然と剣をふるう冬嗣がいた。

 高志の死さえ―――

 この盟友から、眼を逸してはならぬ。敗者たちの嘆きの前に、神野は共に立ちつくす。その闘いは、同時に神野の闘いでもあったのだ。

 他に道が、あったのかどうかは判らない。もう少し違う出会い方をしたかったような気もした。帝位や、家の繁栄や、そのようなものと関わりない友として―――

 だが、わたしたちは共に闘った。

 そして月も星もない、時間すらない、死者たちの怨嗟の声が谺する無明の闇の中へ、やがて入ってゆくのだ。同じ闇の中へ―――ひとりひとりで。

「院」

 冬嗣は、じっと神野を見た。

「あなたにお仕え出来たことが、わたしの生涯で最大の僥倖でございました……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ