第十三章 向暮楊風(四)
人払いを、神野は命じた。
外からはしとしとと雨の音が聞こえてくる。庭には樹々が茂り、濃い緑が雫に濡れて光っていた。主人に似て、落ち着いた趣がある。
「ここへ来るのも、久しぶりだな」
ぽつりと、神野は呟いた。
「相変わらず、よい庭だ。……気持ちが落ち着く」
冬嗣は淡く頬笑む。
「最近は長良がこまごまと手をかけてくれております。わたしはそういったことではどうも不調法で」
「よいことだ。―――寒くはないか」
「いえ」
二人は黙った。
「三守は、元気にやっておりますか」
「ああ、あれは相変わらずだな。くるくると、よく働く―――」
神野は言って、ふと思いついたように付け加える。
「そなた、篁を知っておるか」
「ええ。岑守どのの御子息でしょう」
「あの猪が、先日三守の娘の婿になったな」
「ほほう……。今、御子息は何を?」
「確か―――弾正少忠の筈だが。三守のやつ、何を考えておるやら」
「いい青年らしいではありませんか。文武に優れ、気性も真っ直ぐで」
「しかし、真っ直ぐすぎるのも多少問題はありそうだ」
「似た者同士というところですか。娘には、父親に似た男がよいとも言います」
「似ているか。……そうだな」
ぽつりぽつりと、世間話を続ける。
「また漢詩集を編ませているそうですね」
「この度は、安世に任せておるが。仕上がるのは、来年になろうな」
「安世どのは、元気になさっておいでですか」
「このところ働きすぎだとぼやいておった」
冬嗣が出仕出来なくなった今、安世は緒嗣に次いで、台閣で二番目に位置する重臣になっている。しかも左近大将と東宮大夫の兼任だ。帝が引きこもっている今、確かに忙しい日々だろう。『肩書きばかり大層になって』とぼやきながらも、一応せっせと働いている。
「院は、如何お過ごしですか」
「このところ、また少し使者が煩いな。おちおち詩も作れぬ」
とりとめもない話だった。
時折、ふと黙り込む。そうすると、樹々の上に落ちる雨の音が耳に聞こえてくる。まるで梅雨時のような、静かな雨だった。そうしてしばらくすると、またどちらともなく口を開き、他愛のない日常の話を続ける。
どこか、別世界にいるようだった。二人の心には、だが、明らかに恒世親王のことがある。しかしどちらも口に出そうとはしなかった。
事件後まもなく、床につきがちな大伴を、神野は見舞っている。
大伴の表情は、少しいつもと違っていた。やつれた顔にあるのは、いつものどこかおどおどした、怯えるような眼ではなかった。血が凝ったような眼が、深い闇の奥からうかがうように、じっと神野を見つめていた。そして、ほとんど口をきかない。
無理もない……
心のどこかで仕方ないと諦めながら、それでいてずしりと疲れたような、そんな気分になった。
ひとり、またひとりと、血縁者も、友も、この世を去ってゆく。淋しさというにはどこか虚ろな、癒しがたい疲労が神野の上に重くのしかかっていた。
「院……?」
しばらく続いた沈黙を、冬嗣が静かに破った。神野はふと我に返る。
「ああ……すまぬ」
「御気分でもお悪いのですか?」
「―――」
神野は冬嗣を見、苦笑した。
「病人にその様なことを言われているようでは、世話はないな」
「はは、確かに、そうですね」
柔らかな声で冬嗣は言う。神野も共に、少し笑った。また少し、沈黙がある。ふいに、神野が口を開いた。
「長かったな……」
苦く、そして柔らかな口調だった。
「随分長い間、共に闘ってきたものだ」
冬嗣は神野を見る。神野の顔には、表情がなかった。冬嗣の口元に、幽かな笑みが浮かぶ。
「そうですね……。長い闘いでした」
「もしも、死後の世界というものがあるのなら―――おそらくわたしは、そなたと同じところへ行くのだろうと思うよ」
「―――院……」
ちら、と、冬嗣の眸を、喜びとも悲しみともつかぬ、不思議な彩が過ぎった。
生きんがための闘いの中で、どれほどの人を傷つけ、葬り去ってきたことだろう。幾多の人々の血に塗れながら、それでもこうして、生きてきた。そして神野の傍には、いついかなるときも、決然と剣をふるう冬嗣がいた。
高志の死さえ―――
この盟友から、眼を逸してはならぬ。敗者たちの嘆きの前に、神野は共に立ちつくす。その闘いは、同時に神野の闘いでもあったのだ。
他に道が、あったのかどうかは判らない。もう少し違う出会い方をしたかったような気もした。帝位や、家の繁栄や、そのようなものと関わりない友として―――
だが、わたしたちは共に闘った。
そして月も星もない、時間すらない、死者たちの怨嗟の声が谺する無明の闇の中へ、やがて入ってゆくのだ。同じ闇の中へ―――ひとりひとりで。
「院」
冬嗣は、じっと神野を見た。
「あなたにお仕え出来たことが、わたしの生涯で最大の僥倖でございました……」




