第十二章 五月闇(十五)
翌年初夏四月の末―――
冷然院において、正子は無事に男子を出産した。恒貞親王である。
「まあ、正子」
明るい笑い声を嘉智子は立てた。
「そんな恐々抱いていては、おっことしてしまうわ。乳母におまかせなさい」
「大丈夫よ」
きかん気の強い正子はそう言い張って、生まれてまだ数日、首も座らぬ我が子を腕に抱いている。平静を装っているが、内心はかなりおどおどしているのが傍目にも良く判る。隣で乳母もはらはらした顔をしていた。
「嘉智子」
もうひとり、どうにも落ち着かないのが三十九歳にして祖父となった神野である。そっと、嘉智子の袖を引き、耳打ちする。
「よいのか、止めなくて」
「何をです?」
「………」
何をだろうか。
強いて言うなら、正子に赤子を抱かせておくのが何よりも心配なのであるが………
ただでさえ十五歳という年にしては幼い正子が、生まれたばかりの赤子を抱いている図、というのは、実に実に危なっかしい。ほとんど、ままごと遊びの延長である。
神野の耳に、嘉智子は囁き返す。
「お子を見るのなど、珍しいことでもございませんでしょう?」
「そう言うが―――」
神野は渋い顔をした。
確かに、既に三十人近い子供をもうけている神野にとって、子供そのものはそれほど珍しいものでもない。だが、基本的に懐妊後まもなく、妻は内裏を出て実家へ戻り、出産に至るまでそこで過ごす。生まれて間もない子供を見る機会はなかった。
それに、そもそも十五歳という年齢の妻など、神野は持ったことがない。女官から妻になった、というケースが多いため、その年齢は全体に高めである。
正子の抱き方のあまりの頼りなさを見かねて、つい自ら赤子を手に抱き取ったりもしてしまう。嘉智子は、
「まあ、お祖父さまは、いつから、そのように子煩悩になられまして?」
と言っては、ころころと笑っている。そのあたりは女親の強さというものなのだろう。
正子が宮中の承香殿へ戻ってまもなく、神野は一度そのもとへ足を運んだ。恒貞のことよりも、むしろ大伴と正子との関係が気懸かりだったからである。
そして、実際に恒貞を挟んで二人が共にいるところを眼にした神野は、
「これは、もう心配はいらぬようだな」
と、ようやく少し安堵した。
先妻である高志は、恒世親王の他には男子に恵まれず、三人の内親王を残してこの世を去っている。四人の子を持ったにしては、大伴はどうも子供を相手にするとぎこちない。まして正子はなおさらで、この夫婦は恒貞親王を挟んでそろっておろおろしていた。だが、ともかくも正子との間に不思議な連体感のようなものすら感じられるような雰囲気である。早い時期の懐妊は、かえってこの夫婦のためにはよかったのかもしれない。
恒貞が急に泣き出したので、乳母が授乳のために恒貞を抱いて奥へ下がり、正子は、
「まあ、恒貞、お腹が空いたの?」
などと横で言いながら、うろうろとそれについていった。大伴はそれを見送り、神野に向かって頭を掻く。
「申し訳ございません、その、騒々しくしておりまして」
神野は笑った。
「いや、それを見にきたのだから」
「はあ」
室内には、方々から贈られた祝いの品が並べられている。その中に、見事な螺鈿の細工が施された黒漆塗りの箱を見とめて、神野はそれを手に取った。
「これは?」
問うと、
「恒世が、正子が宮中へ戻ってきたらお渡しして欲しいと申しまして。祝いの品です」
と、大伴は言った。
夜を思わせる黒地に、夜光貝が真珠色の輝きを放っている。それが水晶を中心に花びらの形をなし、そしてその花の回りで、つがいの鳥が楽しげにさえずっていた。さらに箱を開くと、中は色とりどりの鮮やかな錦で内張りがなされている。
「―――実に、見事だな」
「ええ、正子もとても気に入ったようです」
大伴の口元には、微笑があった。神野は箱を床に置く。そこへ、正子が戻ってきた。恒貞を抱いたまま急いで駆け寄ろうとするので、慌てたように大伴は立ち上がり、自ら正子に歩み寄る。
「重そうだね。危ないよ、抱いたまま走っては」
「ええ、ちょっと手が痺れてしまったわ」
その手から、大伴は恒貞を抱きとる。まだどこかぎこちなく、ままごとめいた夫婦ではあっても、とにかく落ち着くところに落ち着きつつあると、確かに感じられる。
愛しあっている―――などと、もちろん思いはしない。親子ほどに年齢の隔たった二人―――まだ幼い正子にとっては、甘えさせてくれる庇護者なら誰でもいいのかもしれないし、大伴にしても、養女をもらったような気分で、夫としての責任を果たそうとしているだけなのかもしれない。もともと、大伴と高志もしっくりいっていたとはとても言えないのである。
だが、皇族として生まれた以上、夫婦といっても愛や恋といった要素が希薄になるのは仕方ない。共に生きてくれるならそれで十分だ―――と、神野は思っている。
「主上、よろしいか」
壊れ物を抱くようにぎこちなく赤子を抱いている大伴の手から、神野はそれを抱きとった。少し小さめだが、元気はいい。抱く腕が変わっても、たっぷりと乳を飲んだ赤子は、ぐっすりと眠ったまま起きる気配はない。
昨年八月、正良の元服と同時に冬嗣の娘順子がその下に嫁いだ。懐妊には、まだしばらく間があるだろう。
さすがに、まだ後の流れる方向は見えてこない。
赤子を抱く神野を、大伴は不思議なものを見るように眺めている。
今上帝と太上帝から注がれる視線に何も気づかぬまま、祖父の腕に抱かれて、赤子はただ眠り続けていた。




