第十二章 五月闇(十四)
どれほどの時間、そうしていただろうか。
安世の頭上に、静かな声が降った。
「良峰」
安世は顔を上げる。大伴の顔は、涙でひどく濡れていた。
「良峰。果たしてこのわたしに、正子を支えることなど出来るのだろうかな」
「主上をおいて、他にはおりません」
きっぱりと、安世は答える。その眸を、大伴は静かに見返した。
「正直なところ、わたしには、判らない。だが、正子は、わたしの妻だ。正子も、産まれてくる子も、わたしは愛しいと思う。だから、そばにおれと―――おそらく、そう言ってやればよいのだな」
訥々とした口調である。だが赤く泣き腫らした眼に静かな決意を宿して、大伴は言った。
「やってみよう。わたしに出来ることがあるとそなたが言うならな。このようなわたしにでも、誰かのためになることができるというなら―――」
どこか自分自身に言い聞かせるような口調だった。その両の眸は安世を透かして、どことも知れぬ遠くへと一筋に向けられていた。
安世の身体から、不意に力が抜ける。大伴を掴んでいた手がずるりと滑り落ち、床に両手をつく形になった。そのまま平伏する。祈りを捧げるかのように、安世はじっと大伴の前にひれ伏していた。
☆
妻戸が開く。戸の外に、膝を抱えてうずくまっている者がいた。安世は戸をくぐり、ぱたんと閉める。それから、
「―――篁?」
と、まず名を呼んだ。
「おい、起きているか? 寝てはいないだろうな」
話している最中に誰かが来ると困る。今のところ事情を知っている部外者は篁と神野ぐらいなので、やむなく―――まさか神野に頼む訳にもいかず―――本来は清涼殿に入ることを許されていない篁に、安世は入口の見張りを頼んでいたのである。なのに、それが寝ていたのでは困る。
ええ、とくぐもった声が応じ、安世はほっとした。
「御苦労だったな。誰も来なかったか?」
「良峰どの―――」
声が震えている。安世は狼狽した。
「おい? 何だ何だ、泣いているのか? どうした?」
一拍あって、突然篁はすくと立ち上がる。勢いよく上がってきた頭に危うく顎をぶつけそうになり、安世は慌てて身を引いた。その手を、篁は強い力で握りしめる。
「おっ………おい、痛い―――」
「感動しました、良峰どの」
興奮した声で、篁は言った。
「本当にすごい方だ。すごい。―――ああ、こんなときに、己れのことばの貧しさを思い知らされますよ、でも、本当にすごい」
「ちょっ……ちょっと待ちなさい。わたしは早く宿直の部屋に戻って、他の者たちを呼び戻さないと。何どきかな」
「じき子丑(午前一時)です。ああ―――でもすごい。このまま戻っても、気持ちが昂ぶってとても今夜は眠れそうにない。是非あなたと一晩夜明けまでじっくりと話をしたい」
「わたしは宿直だと言っているだろう」
「いいではないですか、ひとりぐらい欠けたって」
「何てことを言うんだ。ああもう、明日行くからとにかく帰りなさい。君がこんなところにいるのがもし見つかったりしたら面倒だ」
未練ありげな篁を言いくるめてどうにか追い返し、安世は深く息を吐き出した。
全く、嵐のような男だ。
別段不快であったというわけではない。もっとも、少し残っていた激情の名残が、それに倍する興奮を受けてどこかに吹きさらわれてしまったのは事実である。
そして激情の代わりに、安世の内に残ったのは、冬の朝まだきに熾された燠火のような、ほんのりと暖かい疲労だった。
安世は宿直の人々を呼びに行くために清涼殿を出た。その口元にふと笑みが浮かぶ。
頭上には、下弦の月が煌々と白い光を放っていた。




