第十二章 五月闇(十三)
そしてその夜―――
安世はほとんど無理やりに、大伴を清涼殿内の私室に引き込んだ。
「ぶ……無礼なっ」
安世の剣幕に圧され、大伴はどもりながら言う。先日のごとく丁寧に出られればまだ落ち着いて話も出来るが、今日の安世のあまりの強引さに、大伴は平静を失っていた。
「蔵人はどうした。他の宿直の者たちは」
「わたしが命じて全員下がらせました」
「な………何だと?」
大伴は眼をむいた。
「だっ………誰の許しを得て、そのようなことを」
「お咎めはわたしひとりが頂戴いたします。謹慎でも、免職でも、左遷でも、お気の済むよう、存分になさってください」
安世がきっぱりと言うと、大伴は苛立った様子で手を打ち振る。
「何が存分にだ。院の寵をかさに着て―――どうせわたしには出来ぬと、高をくくっておるのだろうっ」
「主上」
安世は大伴の肩に手を置こうとしたが、ぱしりと払われた。安世は軽く息をつく。
「院のことは、どうぞ一度お忘れ下さい。先日にも申し上げましたが、わたしは院の代理人でもなんでもありません。臣下の身でこのようなことを申し上げるのはいささか恐れ多いことでございますが、主上とも、わたしは同じ桓武帝を父とする兄弟ではありませんか」
「―――」
「それもひとつのえにしと思し召して、どうかわたしの話を聞いて下さい」
大伴は伺うように安世を見た。突然にそのようなことを言い出した安世の真意を計りかねている様子である。だが、ともかくも一旦話を聞く余裕が出来たところで、安世は真っ直ぐに大伴を見つめる。
そして次の瞬間、その口から堰を切ったように言葉があふれ出た。
「このままでは、皆が不幸になるばかりです。わたしはそのようなものを見たくはない。わたしの母は、桓武帝に嫁いだとき、既にひとの妻で、内麿どのとの間に二人の子まで成していました。わたしが十四のときに亡くなってしまいましたが、いつも淋しそうな表情をしていたことを覚えております」
「良峰………?」
熱を帯びた口調である。その勢いに、大伴は引き込まれた。
「父上と内麿どの、どこまでが結びつきを強めるための計算で、どこまでが父上の母に対する愛情だったのか、わたしには判りません。そのようなことを問う機会もありませんでした。ですが、ともかくも十になるかならぬかの子を二人残して母は入内し、わたしを産みました。父上はわたしを愛してくれました。母に対しても、寵愛は確かにさほどではなくても、とにかく大切にして下さいました」
「―――」
「いいですか」
大伴の眼を真っ直ぐに見つめて、安世は言った。
「愛でなくてもいい。どんな想いでもいい。とにかく、正子さまと一緒に生きて下さい。まだ幼いままに他人の思惑に翻弄されることになったあの方に、どうかそう言って差し上げて下さい。お二人は、何としても一緒に生きてゆかれる他はない。事が露見するようなことがあれば、恒世親王のお命とて危ないのです」
「良峰………」
いつの間にか本題に切り込まれていた。大伴の眼が僅かに怯む。安世は続けた。
「正子さまがお可哀想なのは、初めての恋が叶わなかったということではない。居場所がないからなのです。共に生きるひとがいないからなのです。己れの情熱で恋を貫き、死さえも覚悟して突き進むというのであれば、それもひとつの生き方かもしれない。しかし、よるべのない辛さに負けて、一時の慰めに縋って人目を避けながら傷を舐めるような、そのようなことをさせてはなりません。どうか、そのようなことをあの二人にさせないで下さい」
「………わたしに………」
安世の視線に耐えられなくなったかのように、大伴は眼を逸した。
「わたしに、想いあっている者同士を引き裂けと言うのか、そなたは」
力なく首を振る。
「出来ぬ。わたしには、そのようなむごいことは」
「主上!」
安世は大伴の腕を掴んだ。今度は振り払われはしなかった。びくりとして、大伴は怯えた眼で安世を見る。その視線を真っ向から受け止め、安世は烈しい口調で言った。抑えることの出来ない、叩きつけるような激情がそのうちにあった。
「あの二人は、とうに引き裂かれているではありませんか。引き裂きたくないと仰るなら、何故、結婚を承諾なされました? もう元に戻れはしません。あなたは今や、行動しないことで、引き裂かれて元に戻る術もないあの二人を、更に深く傷つけておられるに過ぎないのですよ」
「良峰………!」
大伴は頭を抱える。耳を塞ぎ、眼をきつく閉じた。一番聞きたくない、考えたくないことだった。その眼から涙がどっと溢れ、幾筋もの流れとなって頬を滴り落ちる。
「黙れ………! 止めてくれ、聞きとうない! ―――言うな!」
切れ切れに叫び、首を振りながら、ずるずると大伴は床に座り込んだ。
「言うな………!」
「主上」
「わたしに何が出来た………! わたしは父上とは違う、院とは違う、わたしには何の力もないのだ、何が出来たというのだ………!」
「主上!」
安世は大伴の前に跪き、その肩に手を駆け、強い力でぐいと揺さぶった。
「出来た出来なかったではない。するのです。引き裂かれた二人が元には戻れない、その事を直視して、正子さまと二人で生きていく御決意をなさってください。今は、あまりにもひどすぎる。誰ひとり動くことが出来ぬままに時間だけがいたずらに過ぎてゆく―――。今、踏み出すことが出来るのは、主上以外にはいないのです。あなたにしか出来ないことなのです」
「………」
「お願い申し上げます。主上―――どうか」
安世は大伴の肩を掴んだまま、頭を下げる。
「どうか、御決意を………!」
もはや言葉にはならなかった。説得ではない。嘆願だった。
息苦しささえ覚えて、安世はきつく眼を閉じていた。己れの内にこれほどに激しいものがあったことを、彼自身も今の今まで気づいていなかったのである。




