第十二章 五月闇(二)
しとしとと静かな雨が夜闇に降りそそぐ。
都は、梅雨の季節を迎えている。
深い闇である。丑の刻(午前二時)を少し回っていた。
その闇に紛れるようにして、屋敷の東門の扉が開き、男がひとり、そっと出てきた。手には松明を持っている。
身分卑しからぬ風である。周囲を見回し、足早に立ち去ろうとした。―――が、一瞬ぎくりとしたように背後を見やる。誰かが、真っ直ぐに男の方へ駆けてきていた。男は慌てたように逃げ出した。だが、相手の方が早い。すぐに追いつかれた。ぐい、と肩を掴む。男は息を呑み、振り返った。パシャン、と松明が落ち、まったくの闇になる。
駆けてきたのは、六尺(約一八二センチ)は優に越えているだろうという大男である。顔は見えない。
「怪しい奴だな」
男が言った。青年の声である。
「何者だ。この屋敷に、一体何の用がある」
男は逃れようとしたが、青年は腕をきつく掴んで離さない。その背後から、またぱしゃぱしゃと濡れた地面を蹴る音がして、今度は松明を手に掲げた男がひとり、駆け寄ってきた。
「おい」
その男が言った。不意に、逃れようとしていた男の動きが止まる。
「君はまったく血の気が多いな。そんな、初めから喧嘩ごしで」
今度はもう少し年のいった声である。青年は不満そうに訴えた。
「しかし、この男、逃げようとしたんですよ」
「君にそんな勢いで来られたら、わたしだって逃げるよ」
柔らかな声で二人目の男は言って、男の顔を見ようと松明を少し差し出す。腕を掴まれている男は観念したように、むしろ静かに顔を上げて二人の男に向き直った。顔を見た二人が息を飲んだのと、男が口を開いたのとは、ほぼ同時である。
「良峰どの」
「つ―――!」
叫びかけた青年の口を、空いた方の手で慌てて男―――安世は押さえた。
場所は、他ならぬ正子内親王の邸の前である。
帝の長男、中務卿恒世親王がそこに立っていた。
☆
場所を移し、安世の邸で三人は向きあっていた。
安世、恒世親王、そして三人目は、昨年文章生になった小野篁である。
「………申し訳ない、着替えの服まで貸して頂いて」
白湯を飲みながら、穏やかな声で恒世は言った。ずぶ濡れの服を、三人は着替えたところである。
「一体、どういうことなんですか、これは!」
対照的な激しい口調で詰問したのは、篁である。安世は渋い顔で篁を、次いで恒世を見た。
「まさかあなたが、このような大胆な真似をなさるとは……」
正子は、梅雨に入ってすぐに病と称して別邸に宿下がりをしている。彼女がいるその邸から、闇に紛れて恒世は出てきたのである。
何があったのか、よほど情勢に疎いものでなければすぐに見当はつく。安世はもちろん、どちらかというと色事には疎い方の篁も、正子の入内の経緯ぐらいはなんとなく耳にしている。
「………わたし自身、驚いているんですよ」
恒世は苦笑する。白湯を一口飲み、呟くように言った。
「諦めたつもりでした。いや―――もうずっと以前から、諦めていたつもりでした。………でも、正子どのが………淋しく暮らしておられると聞かされて………。父も―――」
一瞬言葉を切り、器の中の湯の液面に目を注ぐ。
「どうしてよいか判らない様子で―――」
ガッ、と、恒世の頬が鳴った。ごろりと、器が床を転がり、湯が染みを作る。
「何て勝手な連中だっ!」
「篁!」
二発目を振り下ろしかけた篁の腕を、安世は掴む。
「止しなさい!」
「何故止めるんです! 正子さまの入内が決まるときには、二人そろって何もせずに手をこまねいていて―――おまけに今更、どうしていいか判らない!? 主上も主上なら、あなたもあなたです、親王! 呆れて物も言えない! 帝とその御長男の所業ですか、これが! 大体、このような縁組をなさった院も院―――」
今度は篁の頬が鳴る番だった。ただし、軽くはたいたという程度である。だが、篁には意外だったらしい。まず茫然と、ついで射るような眼で安世を見る。安世が篁に手を上げたのはこれが初めてだった。




