第十二章 五月闇(一)
磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへりみむ
冷然院から少し離れたところで、密かに別の出来事が進行していた。
時間は、少し戻る。
正子内親王は、大伴が東宮御所から内裏へ―――仁寿殿へ移ったのと同時に、承香殿に入った。
「正子さま。主上から御衣裳が届いておりますよ」
梅雨入り前の爽やかな空気が部屋に流れ込んでいたが、その表情は冴えなかった。ぼんやりと後庭を眺めている。伊那が差し出した薄桃色の背子に眼もやらず、
「片付けておいて」
と言った。
伊那は表情を曇らせる。
「正子さま」
「………」
いつもどこか機嫌を伺うような大伴の顔を、正子は思い浮かべた。きつく眉根を寄せる。
確かに、大伴は優しいのかもしれない。恒世親王や安世と共に皆で話をしていたときには、それなりに好感を持つことも出来た。
だが、大伴は神野の命で成す術もなく正子を娶ったものの、息子を憚ってか、あるいは妻の幼さが怖いのか、未だに蓐を共にすることも出来ないでいる。それでいて、やはり疎略に扱っていると思われるのを恐れて足繁く正子を訪ない、何かと贈り物をしたりするのである。
経緯はどうあれ、正子は今は大伴の妻だ。そう生きてゆくしかない。なのに、当の夫の態度が煮えきらぬままなのである。
苛立ちは募るばかりだった。
「………もう、いや………!」
脇息に、正子は顔を伏せる。
両の眼から、涙があふれた。
この頃、泣いてばかりいる。
「正子さま」
伊那は衣裳を置き、急いで正子に歩み寄った。小さく震える背に、優しく手を回す。涙に濡れた眼を、正子は上げた。
「もう、いや………!ここは嫌よ、伊那。こんなところで生きていくぐらいなら、死んだ方がましだわ」
伊那の眼にも涙が滲む。
「お可哀想に―――」
正子がまだ幼い頃からその侍女となり、むしろ実の母である嘉智子よりも長い時間、彼女の傍にいた伊那であった。正子の恒世親王への淡い想いも知っている。それを不意に断ち切られ、政治的な計算のみで二十四も年の離れた夫に嫁がされた正子が、伊那には哀れでならない。
「どうか少しだけお待ち下さいね。今、別邸を用意して頂くように、主上にお願いしておりますから」
冷然院に宿下がりしても、今の正子の気が晴れるはずもない。そう思い、伊那は大伴に別邸を都のどこかに用意してくれるよう願い出たところである。正子は訴えかけるように言った。
「恒世さまはどうして来て下さらないの」
伊那は返答に窮した。恒世と正子の仲がよかったことは周知の事実である。そうそう訪れる訳にもいかない。恒世はもちろん親王として後宮に一室を持っているが、この頃は母高志内親王の持ちものであった二条の別邸で過ごすことが多くなっていた。現在は中務卿になっている。
「親王さまは、お仕事が忙しくていらっしゃるんですよ」
「嘘よ!」
正子は首を振った。伊那の膝に身を投げ、激しく泣きじゃくる。
「恒世さまも、主上も、父さまも母さまも、誰もわたしのことなんかもうどうでもいいのよ……!」
「正子さま」
伊那は語調を強めた。身体を屈め、正子の肩に掌を乗せる。
「どうか―――少しだけお待ち下さい」
伊那は静かな、だが自分に命令を下すかのような、どこか決然とした口調で言った。正子は答えず、ただ泣いている。
「どうか、少しだけ―――」
背を撫でる腕に、伊那は少しだけ力を込めた。




