第十一章 遊糸繚乱(十二)
「安世」
しばらく続いた沈黙を破って、不意に、神野が言った。安世は現実に引き戻された。
「はい?」
「そなた、有智子を知っているか」
「祭の際に拝見したことはありますが、言葉を交わしたことはないですね」
有智子内親王は神野の長女で、紫野で斎院を務めている。
「……当たり前だな」
何しろ、斎院なのだから―――と神野は笑って、
「二月に斎院を訪れたときの作だ」
と、一枚の紙を差し出した。明るい方に向き直り、安世はそれを読んだ。
寂々たる幽庄 水樹の裏
仙輿一たび降る 一池塘
林に栖む孤鳥は春の沢を識り
澗に隠るる寒花は日の光を見る
泉声近く報じて初雷は響き
山色高く晴れて 暮雨行る
此より更めて知る 恩顧の渥きを
生涯何を以て穹蒼に答えん
人里離れたひっそりした斎院に、帝の輿が現れる。するとこの地の万物は突然春を迎えたかのように鮮やかに甦ってゆくのだ。帝の恵みの深さに、今あらためて気づかされる。何を以てすればそれに答えることが出来ようか―――
安世はその余韻を味わうように、少し黙った。ほう、と吐息を洩らし、神野にその紙を返す。
「これを、斎院が?」
「うまいものだろう。いや、これも親の欲目かな」
神野は微笑する。
「とんでもない。いや、実に素晴らしい―――」
「やはり、静かな生活が詩藻を花開かせるのかもしれんな。わたしも、見習いたいものだが」
呟いて、盃を口に運ぶ。端正な横顔の上に、室内の明かりがゆらゆらと影をつくる。しばらく、沈黙があった。安世が瓶子を差し出すと、神野は残っていた酒を干す。空になった白い盃に、安世は乳白色の液体を注ぎ入れた。
「―――だが、幼くして斎院となったのは、やはり、少し可哀想だったのだろうな」
ぽつりと、神野は言った。
「淋しい思いもしたであろうに、怨み言ひとつ聞いたことがない」
盃に視線を落としたまま、ひとりごとのように続ける。
「子供というのは、不思議なものだな。母親が同じであれ、違っておれ、生まれる子供はひとりひとり違う。大人びていたり、子供らしかったり、気が強かったり弱かったり、才があったりなかったり―――」
その言葉には、微かに翳りがあった。神野の胸にあったのは、ひょっとすると有智子ではなく、正子の姿であったかもしれない。有智子よりも、正子は精神的にずっと幼い。いや、幼いと言っては気の毒かもしれない。まだ十四歳―――むしろ、年相応なのである。
この度の正子内親王に関する一件を、安世は勢力争いの問題としてのみ眺めてはいない。そこに、安世は政治的な配慮と同時に神野の親心を感じていた。その未来が既に閉ざされている恒世親王―――まだ幼い娘が、その昏い運命の中に巻き込まれることを、神野は避けようとしたのだろう―――
そんなことを考えながらも、安世は強いて朗らかな口調で言った。
「皆それぞれで、御覧になっていても楽しいでしょう?」
神野は苦笑する。
「皮肉を言っているつもりか」
「とんでもない。感心しているんですよ」
「余計皮肉に聞こえるな。―――それにしても、そなた―――何故妻を娶らぬ」
「―――」
突然攻勢に転じられて、安世はおっ、と言葉に詰まった。神野は微笑している。
「話は幾多あろうに」
安世の方が、今度は苦笑した。
「―――まあ、諦めたのか近頃ずいぶん減りましたが」
「元気か、宗貞は」
「ええ」
宗貞は、安世のひとり息子で、八歳になる。母親は名もない琴職人の娘で、正妻とするには身分が低すぎた。しかも、宗貞を産んでまもなく亡くなっている。正妻というものを、つまり安世は持ったことがないのである。通う相手がいないわけでもないが、それでも中納言で四十近い年になってなおひとり身―――というのは、いささか特異だ。
「女は、嫌いか」
「別に、そういうわけではありませんが」
安世は肩を竦める。ああ、と呟いて、神野は苦笑した。
「―――何だか、昔のわたしを見るようだな。―――どうも、失言だった」
基本的にひとが言いたがらないことについては追及しない。―――その流儀は昔と変わらず、あっさりと神野は引く。だが、安世は話を打ち切らなかった。
「いえ」
笑って、
「そう思えば、何故なんでしょうね」
と言った。しばらく口元に手をやり、考えを巡らすように視線を床に向けていたが、やがてひとりごとのようにぽつりと言う。
「もしかすると―――わたしは、怖いのかもしれません。「血筋」というものが……」




