第十一章 遊糸繚乱(十一)
上弦の月が、西の空に懸かっている。
正子が嫁ぎ、後は譲位を待つのみとなった静かな夜―――
神野の願いを容れて、安世は清涼殿で和琴を弾いた。
神野はただ黙って聞いている。周囲には誰もいなかった。
豊饒な音である。ゆるやかで、それでいてなお軽やかなその調べは、彼の舞に似ていた。
四半刻(三十分)も弾いただろうか。
二人は西廂に出て、月を眺めながら盃を交わした。
「この清涼殿でそなたと酒を呑むのも、これが最後かな―――」
ふと、神野は呟く。内裏は基本的に帝の生活空間であり、譲位して上皇となれば、普通はどこかの院に移ることになる。神野は、嘉智子と共に大内裏の南東に隣接する冷然院に遷る予定で、今、その準備を進めているところだ。
「どういうお気持ちです?」
安世の問い掛けに、神野は微笑した。
「決まっている。清々しているよ」
盃を口に運ぶ。
「冬嗣は、位をおりてもどれだけ意味があるか判らないぞ、と脅しおったが」
「ま、それも一理ありますね」
「だろうかなあ……」
ひょいと肩を竦め、神野はくいと酒を喉に流し込んだ。望月を映したような白磁の盃に注いでいた視線を、ふと空へ移す。
「よい月だ」
言われて安世も、空を仰ぐ。
「ああ……確かに」
そして、あたかもその矢の行方を追うかのように、神野の眸はひどく遠くを見つめていた。
「まるで、空に向かって矢を射かけるようだな」
そうですね、と安世は微笑する。
神野の横顔を見つめながら、因果な方だな―――と安代は思う。
神野自身の望みは、あくまでも楽や書、詩作といった芸術の世界で心静かに生きることである。そしてその方面において、神野の才は群を抜いていた。
だがそれと同時に、己れのなすべきことを見定めたときに神野が見せる果断さは、時に周囲の目に冷酷とさえ映る。まったく雰囲気が異なるにも関わらず、緒嗣などは神野に桓武帝の気質を感じるとまで言っていたという。必要と感じれば、私情を完璧なまでに切り捨ててしまう―――その判断力と行動力は、彼の意志とは関わりなく、政務を臣下に委ねようと、更には恐らく位を退こうと、彼を朝廷の実質的な長たらしめることになる。
そして、安世には判る。
文化人としての神野と、執政者としての神野とが見せるその卓越した才。それが共に、己れを消し去り、世界の在り様を、そして己れのなすべきことを感じ取る、彼の研ぎ澄まされた感覚をその源泉としているということを。
一枚の落葉、一滴の雨の雫にさえ波紋を広げる澄みきった湖面の様な、痛々しいほどの繊細さ―――それが、神野のもつ力なのである。




