第十一章 遊糸繚乱(十)
「大嫌い!」
正子は、泣いた。真っ赤に泣き腫らした眼で、神野と嘉智子を睨み付ける。
「みんなみんな、わたしの気持ちなんか判らないんだわ……!」
大嫌い、酷い、死ぬ、と、思いつく限りの言葉で罵り、叫んでも、二人の親の意志はまるで一枚の巨大な壁のように彼女の前に立ちはだかり、微動だにする気配はなかった。
私室に篭り、彼女はまた泣いた。御所へ戻ってきたばかりの侍女伊那の膝に身を投げて泣き続けた。苦しくて苦しくて、胸が裂けてしまいそうだった。
「正子さま……」
伊那はなす術もなく、ただ正子の背を撫で続ける。それを感じながら、正子は恒世親王の優しい声を心に思い描いた。淡雪のようにはかなく、短い恋だった。だが、まさか、その想う相手の父親の下に嫁ぐことになるなど、どうすれば予想できたろう。
「みんな、酷い……!」
☆
それに比べ、東宮御所は、その主人にも似て―――少なくとも表面上では静かだった。
「良峰どの」
恒世親王は安世と向きあっていた。
先刻、父大伴から、正子入内の件を聞かされたばかりである。清涼殿を退出して戻ってきた大伴は、恒世にそのことを告げた後、私室に篭ってしまった。日頃の正子と恒世の仲のよさを知っているだけに、息子の顔を見ていられなかったのだろう。
恒世親王の表情は、むしろ平静だった。安世に声をかけたものの、しばらく口を閉ざしている。ややあって、その唇から、ほろ苦い言葉がこぼれた。
「正子どのに、本当に可哀想なことをしてしまったよ」
「恒世さま……」
安世は眉を顰める。安世の方が、むしろ恒世親王よりも沈痛な表情をしていた。
恒世は、外に眼を投げた。少し盛りを過ぎた桃の花が眼に入る。
いつも居心地が悪そうに東宮の座についている父。彼をあまり理解していない様子だった母。そして、主上と皇后にとって、眼の上のコブに他ならないはずの自分。東宮の息子でありながら、何の力もない。無力に、ただ流されてゆくだけ―――
正子内親王は、いつも小鳥のように軽やかに飛び回る、開きかけた薄桃色のつぼみのような少女だった。愛らしく可憐な従妹を見ていると、心が浮き立つようだった。
力ない笑みが、恒世の口元に浮かぶ。
「今度会うときは、義母上と呼ぶのかな―――」
最後の呟きには、僅かに自嘲の響きがあった。
☆
弥生―――
桃の花が散り、代わって桜がその華やかな美しさで都を飾りはじめた。梅の花と共に始まった春も、そろそろ行こうとしている。
東宮妃として、正子は大伴の下に嫁いだ。
「―――正子」
夜、二人きりになると、大伴は憐むように正子を見つめて言った。白い袿姿になった正子の細い肩が、ぴくりと震える。顔は伏せたままだ。今日、正子は一度も大伴の顔を見ていない。その肩に、大伴はそっと掌を置いた。
「わたしに力がなくて、辛いことになってしまったね―――」
正子は顔を上げる。そして、不安気に大伴の顔を見た。
「わたしは、あなたの父上に―――主上に、かなわないのだよ。何の力もない、形だけの東宮だ」
その口調は、どこか言い訳がましくもあった。いざこうして正子を妻として迎えてもなお、彼は迷っていた。神野の提案を断ることもできない代わりに、親子ほどの年齢差の、しかも息子と想いを交わしあっている正子と契りを交わすこともためらわれた。
「叔父さま―――」
当の夫がそのように迷っている以上、正子もまたどうしていいのか判らなかった。ただ不安気な眼をして大伴を見るばかりである。
「………いいんだよ、わたしには構わなくても」
逡巡の末、大伴の口から出たのは、結局そんな言葉だった。結論を出すことが出来ないまま、ただ優しい口調でそう言うと、彼は正子の頭を撫でる。
「いいんだよ、わたしは」
むしろ自分に言い聞かせるように発せられた言葉だった。正子の胸を、本人もそれと気づかぬまま、チラリと不快の念が掠めた。




