第十一章 遊糸繚乱(九)
譲位の意図を伝えられた大伴は、早すぎると何度も辞退したが、許されなかった。逃れられぬと知るや、彼は神野に向かい、
「どうぞ、正良親王を立太子させて下さい」
と、自ら必死に訴えた。
「恒世を、東宮に立てることなどわたしには考えられません」
大伴には、もともと政治的野心などなかった。安殿が僅か三年で位を退き、高岳親王が失脚した、という極めて特殊な状況の下で、訳も判らぬままに押しつけられたといってもよい東宮位なのである。そんな次第で、あっさりと、正良立太子が決定した。
更に、大伴は神野から思いもよらなかった提案をされることになった。
「正子内親王を、わたしに!?」
嘉智子がそうだったように、大伴もやはり眼を見はって、神野の顔を見た。
「そのような、無茶を―――!」
「無茶でもあるまい。叔父と姪の結婚など、よくあることだ」
神野は、やはり淡々と告げた。
「お前には、皇后位につけるだけの地位を持った妻がおらぬ。正式な立后は先のこととしても、正妃は必要だろう」
「そ……それはそうですが、しかし……!」
降って湧いたような話に、大伴の額に汗が滲んだ。
「わたしは妻を亡くしたばかりですし、それに―――わたしは主上と年が同じです。正子内親王にとっては、父親に嫁ぐようなものではございませんか。あまりにもおいたわしい」
「正子にはお前のような、大人の相手の方が相応しいと思っているのだよ」
「主上……!」
皇后という存在のの持つ力は大きい。百年も時代を遡れば、持統天皇や元明天皇など、天皇ないしは東宮の妻として、帝位を継いだ例さえあるし、皇后の子、というのはある意味別格の扱いをうける。神野もまた、皇后の子、東宮の同母弟であるが故をもって、異母兄である伊予親王を押さえて東宮位に即いたのである。これを内親王から出すか、貴族から出すか、そしてどこの貴族から出すか、というのは、重大な選択である。
次の東宮となった正良には、冬嗣の娘順子が嫁す。では、新帝大伴の皇后には、誰を当てるべきか。
嘉智子に話したとき、彼女は一瞬何を言い出すのだ、という顔をしたが、すぐに晴れやかな表情になった。
「よいお考えですわ。わたしも、正子のことではどうしようかと思っておりましたもの」
正子と恒世親王とのつながりを断ち、他貴族から出すことによる勢力関係の不安定化を防ぐ。夫の意図したところを、この才女はすぐに悟った。
政治闘争、皇位継承にまつわる悲劇を、もう決して繰り返してはならない。それが神野の決意である。そのためには、卓越した政治家である冬嗣を頭とし、圧倒的な力を持つ北家とのつながりをおろそかにする訳にはゆかない。
その一方で、神野は生まれた子供で母親の身分が低い者を臣籍に下し、将来の台閣を担わせる準備をしている。北家に対抗し、皇室の自律を守るためである。北家と皇室は車輪の両輪なければならないのであって、決して北家の藤蔓に皇室が絡めとられてはならないのだ。
大伴はじっと神野を見た。神野も、じっと黙ったまま大伴の返事を待っている。
うなだれて、大伴は答えた。
「わたしでよろしければ、有難く頂戴いたします―――」




