第十一章 遊糸繚乱(八)
「譲位―――」
嘉智子は眼を見はる。薄々感じていたとはいえ、唐突であることには変わりはない。だが、そのことよりも、冬嗣には既に言ったということが、嘉智子には少々不満のようである。
「何故、一言も言って下さいませんでしたの?」
拗ねたように夫に向けられた眸には、大人の女の愛らしさが漂っている。神野は柔らかく微笑した。
「そなた、薄々察していたのではないのか」
「それでも冬嗣どのに仰る前には、言って頂きとうございましたのに」
「それは、済まぬ」
「あなたの済まぬは、聞き飽きました」
悪戯っぽい笑いを目元に浮かべて、嘉智子は夫を睨んでから、
「東宮のことは、どうなさるおつもりですの?」
と、最も気懸かりな問いを口にした。
「次のことか?」
神野は手に持っていた扇をぱらり、と閉じた。
「おそらくそなたの望むとおりにゆくと思うが」
曖昧な物言いを、嘉智子は質す。
「正良を立てて下さいますのね?」
「多分、そうなるだろう。一応、恒世親王のことも言ってはみるつもりだが、大伴がそれを受けることは、まずなかろう」
不満気な表情をしていた嘉智子だったが、とにもかくにも愛息子正良の立太子が決まりそうだと知り、ひとまずほっとした表情を浮かべる。
「では、正良の元服の件も、そろそろ考えなければなりませんわね」
「そうだな―――」
気のない言葉に、嘉智子は訝し気に首を傾げた。いつの間にか、神野の表情から笑みが消えている。閉じた扇を持っている神野の腕に、嘉智子は己れの腕をするりと絡めた。
「何をお考えでいらっしゃいますの?」
「―――」
神野はしばらく沈黙していたが、
「正良の件は、冬嗣に打診が済んでいる」
とまず言った。嘉智子は微笑する。その満足気な微笑には、大輪の芍薬の華がふわりと開くような、そんなあでやかさがある。
「順子どのですね。さすがは主上、手回しのよろしいこと」
正良と北家とのつながりが強まるのは、正良の地位の安定のためにも望ましい。そこまでは、嘉智子も日頃考えていたことである。だが、次の言葉を聞き、さすがの嘉智子も眼を見はって、表情の消えた端正な夫の顔を見つめた。
「何ですって?」




