第十章 旧邑対雪(五)
安殿はひょい、と瓶子を取り上げた。
「まあ、呑め」
「―――頂きます」
「おれに遠慮せず、料理も食ってくれ。せっかく、百子が腕を奮ったんでな」
安殿は、東宮・天皇時代の妻を、ほとんど失っていた。
最愛の寵姫薬子は自害。桓武の皇女、朝原内親王と大宅内親王は弘仁三年妃を辞し、同じ年、高岳親王の母伊勢継子が病没。また、薬子の死の翌年、すなわち弘仁元年に薬子の姉東子と桓武の間の娘、甘南備内親王を召し入れ、それなりに寵愛していたが、彼女も六年前に死亡した。生きているのは阿保親王の母葛井藤子ぐらいだが、彼女は阿保について太宰府に下ってしまっている……
次々に思いをめぐらし、神野は胸をつかれた。
神野は数多くの妻、子供、重臣に囲まれて日々を過ごしている。宴を開き、遊猟を楽しみ、詩を作っては重臣に和詩を献じさせる毎日。
驟歌猶ほ和すること寡し―――自分には、この拙い詩にさえ和してくれる者はいないのだ―――と、安殿は呟く。
そして―――安殿をそこまで追い込んだのは、他の誰でもない、わたしなのだ。
神野は安殿を見た。
目尻に幾重にも刻まれた皺や肉の落ちた頬に、改めて気づかされる。
いつもやり場のない、溢れんばかりの精力を持て余しているような、かつてのぎらぎらした雰囲気は、すっかり鳴りをひそめてしまっている。
この人は、年をとったのだ………
何れの處か幽声を暢べん―――と。
安殿のそんな淋しい呟きを、神野は耳にしたことがなかった。
それとも、聞こうとしなかったのだろうか。もっと早く、安殿の孤独に気づくべきだったのだろうか。争ったときに。いや、在位中に―――ひょっとすると東宮位にあった頃に?
もう、遅すぎる。―――何もかも。
「―――神野」
ふと、安殿が言った。自分の内に入り込んでいた神野ははっと視線を上げた。
「悪いが、ちょっと支えてくれないか」
安殿は顔をしかめる。
「疲れが出てな。―――よくあることなんだが」
「真夏を呼びましょうか」
立ち上がりながら尋ねる。
「いや、ちょっと横になりたいだけだ」
神野は膳を下げて場所を空け、安殿の身体を支えた。安殿は神野につかまりながら、どさりと床に横たわる。
「………はあ」
安殿は息を吐き出し、横向きになって神野を見た。
「いつもなら百子に膝枕をしてもらうんだがな。―――まさかお前の膝を借りる訳にもいかんし」
「お貸ししましょうか」
「馬鹿」
安殿は吹き出す。ごそりと腕を頭の下にひいた。右の手で盃を取り、無造作に差し出す。神野はそれにも酒を注ぎ入れた。安殿はその液面をしばらく眺めてから、ぐい、と呷る。




