第十章 旧邑対雪(六)
「………お前が来てくれてよかった」
唐突に、安殿が言う。
「兄上?」
「おれにはもう、平安京に出かける力はない。だが、お前に無理強いもしたくなくてな……。―――高志に礼を言わねばならん。―――戻ったら言っておいてくれ」
「兄上」
「だがな」
とん、と盃を床に置く。
「詩を持ち帰ったことについては、馬鹿野郎と必ず文句を言っておけよ。お前に見られると判っていたら、あんな詩は読まなかったんだ」
神野はじっと、安殿を見た。
「あれを読んで―――わたしはここに来なければと思いました」
「………」
安殿はどこかほろ苦い微笑を浮かべる。
「―――どう読んだ。言っておくが、お前を責めようとして書いた訳じゃないぞ、あれは―――」
「………」
潔白逢ふに因って立ち
汗玄染を以て成る
雪の白さも、逢うものによってその彩を変え、染められ、汚されてゆく―――
神野は、安殿の挙兵の罪を全て薬子と仲成に着せ、安殿の罪を不問にした。あれらは潔白だ、とこの詩は叫んでいる。作られた罪であると。
「まあ、何にせよ、それでお前が来たんなら、よしとしなきゃならんのかなあ―――」
「―――」
「高志から時々話は聞いてたが、一度直に会って確かめたかった。元気にやってるみたいで、何はともあれ、安心したよ」
少し息を吐き出す。沈黙があった。遠く聞こえてくる楽の音。
不意に、安殿がその静けさを破った。
「おれはいい兄貴になれなくて、済まなかったな」
神野は狼狽する。
「何を………」
安殿はひどく静かな眼で、神野を見つめていた。
「一度、謝らなければと思っていたんだ。お前にこっぴどく拒絶されて、愛していた女を死なせて、仲成を失って、初めて気づくんだから馬鹿すぎる。おれは皆が好きで、大切にしているつもりでいたんだが、その実、一度も相手の身になって考えたことはなかった」
ひとりごとのように、安殿は呟いた。
「結局、好きだった奴をことごとく不幸にしてしまった。薬子も、仲成も、真夏も、妻たちも、………」
「お止め下さい」
神野は安殿の袖を掴んだ。
「兄上らしくありません。あなたのせいでは―――」
安殿は、頬を微かに緩める。
「………だから、お前に会って確かめたかった。お前が、不幸になってやしないか。
今更こんなことを言っても信じられないかもしれないが、おれは、お前のことはすごく大事にしたいと、本当にそう思ってたんだ。父上のように、帝位をめぐって兄弟で争うのは嫌だった。おれにしがみついて泣いてたお前が、辛い思いをすることがないように、守ってやるつもりでいた。お前がいつの間にか大きくなって、おれの援けなどとっくに要らなくなってしまっていることに、おれは気づかなかった……」
「………お止め下さいっ……」
安殿の述懐に、神野はそれ以上耐えられなかった。両の眼から、涙が溢れる。安殿の袖を掴んだ己が手の上に、神野は顔を埋めた。
「そんな言葉は、聞きたくない………!」
わたしは、何もしなかった。安殿の好意を知りながら、いつか来る破局をおぼろげながらに予感しながら、わたしは何も―――
何もしないまま、安殿を屠ってしまった。
それを裁いてくれる者は、安殿以外にいないのに。
その彼がわたしを咎めないなら。一体、誰がわたしを裁いてくれるのか。何をわたしは償えばいいのか。




