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第十章 旧邑対雪(四)

 案内されたのは、安殿の私室らしい、小さな部屋だった。かなりの量の書が隅に積まれ、箏や琵琶など、楽器もいくつか脇に片付けられている。その中に、膳が二つ用意されていた。部屋に入ると、安殿は真夏にも向こうを頼むよ、と言って下がらせた。

 楽の音が、向こうから微かに聞こえてくる。

「やれやれ」

 安殿はどさりと膳の前に腰を降ろした。神野も向きあって腰を降ろそうとしたが、積まれた文巻の中に見覚えたものを見つけ、そちらへ歩み寄る。『凌雲集』と『文華秀麗集』だ。

「―――ああ、それ、中々面白く読んだぞ。ここにいると生活に変化がなくてな。―――持ってきていいから、まあ、一旦座れよ」

「済みません」

 神野は言って、二巻を持って安殿の正面に腰を降ろす。安殿は傍らの瓶子を取り上げた。

「そら、盃を」

「先にわたしが………」

「客はお前だろう」

 安殿はきかず、神野に盃を出させるとなみなみと注ぎ入れる。

 両方の盃が満たされると、二人はそれを干した。しばらく、沈黙が流れる。

「………お前、ちょっと肉がついたなあ」

 じっと神野を見ていた安殿が、笑ってその静かさを破った。

「前は背の割に肉がなくて、何だか棒みたいだったが。随分貫禄がついたじゃないか」

「太上帝は、少しお痩せになりましたね」

 安殿はしごく呑気な風に顎を撫でる。

「どうもここんとこ、食えなくてな。まあ、この年になると、少々がたがきても仕方ないさ」

「………」

 神野は戸惑った。

 少しの身体の不調にも苛々し、周囲に当たり散らしていたのが嘘のようだ。

 それに、周囲への対しかたも以前とは微妙に異なっている。ぞんざいな口調は変わらないが、真夏や百子への命令の仕方にもどことなく気遣いが感じられるのである。

「ああ、それから太上帝ってのは止めてくれ。言ったろう? 太上帝の号はもう要らんって。お前が許さなかったから仕方なくこのままなんだ。大体、おれもお前を主上なんて呼びたくない。―――ん、どうした?」

 神野の沈黙に、怪訝な表情で安殿は問い掛けた。神野は適当な言葉が思いつかず、代わりに胸元から一枚の紙を取り出し、安殿に渡す。それを広げ、安殿は、

「あっ、高志の奴!」

と声を上げた。

「書いたはずなのがどうも一枚足りないと思ったら、あいつの仕業かっ」

 例の「旧邑対雪」の詩である。声を上げてから、安殿はおや、と言った。

「何だ、和詩を付けてくれたのか」

 安殿の詩の横に、神野が書き加えた「旧邑雪に対すに和し奉る」があった。


      「旧邑雪に対す」に和し奉る


     旧邑同雲起こり

     春天雪猶ほ飆る

     輝きを含み素扇に臨み

     瑞を呈し冥霄に満つ

     陰階飛び更に積み

     陽砌結び還た銷す

     郢曲能く安和し

     歌ふを羞づ下里の調


「………郢曲能く安和し 歌ふを羞づ下里の調―――か」

 俗曲には人々は気楽に和すもの。自らの詩が下賎なることを恥ずかしく思う―――というような意味の二行を、安殿は呟いた。軽く肩を竦める。

「お前らしい書きようだな」

 ただ思いついたことを口にしただけで、別に皮肉を言っているのでないことは口調で判った。だが、安殿の顔を見ていられなくなり、神野は眼を伏せる。

「………それが太―――兄上の詩だとは、最初は信じられませんでした」

 安殿は詩をしばらく眺めていたが、やがて丁寧に折りたたんで胸元にしまった。

「おれらしくないか?」

「わたしが知っていた兄上は……」

「まあ、確かに昔はこんな詩は読まなかったな」

 東宮時代の安殿の詩は、むしろ都の春を高らかに歌い上げて華やかだった。


     春花百種何をか艶となす

     灼灼たる桃花最も憐ぶべし

     気は則ち厳しくして應に冠を制すべく

     味は惟れ甘くして仙に求むべし

     一香同に発りて朝吹に薫り

     千笑共に開きて暮煙に映ゆ

     願はくは以て蹊を枝葉の下に成し

     終天長へに玉階の辺に樹ゑむ


 どんな曇りも、その中にはない。

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