第四十八話~告白~
帰宅してすぐに神楽さんがお昼ご飯を用意してくれた。食べ終えるとすぐに、私は昨日の遅れを取り戻すべく仕事に取り掛かる。神楽さんはいつものように食器を洗い、それから洗濯物を取り込んだり、掃除機をかけたりしていた。
戻ってきた生活音、神楽さんのいる気配。失われたのはたった半日だったけど、それがあってよかった。それだけで済んでよかった。
何も無ければ、次第に大切に思えなくなっていただろう。三日も続けば、私が壊れていただろうから。
「先生、コーヒーです」
新しいマグカップは、はからずもお揃いに近いものになった。これだってきっと、昨日の一件がなければ買わなかっただろう。前のももちろんよかったけど、これだってこれから愛着が湧いていくんだろうな。
ただ、仕事が万事順調かと言われたら、そうでもなかった。昨日乱れた心模様はまだ若干尾を引いており、ふとした時に手が止まる。それでも、やっと私も神楽さんも新しい一歩を踏み出せるようになったんだと自分を鼓舞し、意地でも書き続けた。
「あのぅ、先生、コーヒーおかわりしますか?」
そう言われて時計を見れば、もう午後四時だった。小説世界に没頭していた私が現実に引き戻されると、一気に疲労が襲いかかってきた。
「いつもより甘いのでお願い」
普段なら、いらないと断って仮眠している。でも今は、過集中状態に入っているからなのか、ずっと頭がフル回転で止まれない。きっとこの疲労感だって、甘いコーヒーを飲めば忘れられるだろう。
書けるうちに書く。止まるのは力尽きた時だけでいい。
そっとコーヒーが置かれたが、私はまだ熱くて飲めないから書き続ける。それは私が密かに計画している、今夜の話し合いのため。それは後回しにはできないし、当然先延ばしにもできない。
この気持ちが鮮明な今日、決着をつけたいんだ。
ようやくコーヒーに口をつけた時、もう既に冷たかった。
「神楽さん、今日ちょっと話したいからさ……仕事終わったら、お酒付き合ってもらってもいいかな?」
晩ご飯のハンバーグを食べ終えるなり、私はそうお願いした。神楽さんは一も二もなく、大きくうなずく。
「わかりました。あの、先生今晩は書かないんですか?」
「昼間に二日分やったから、いいんだ」
その疲労はお風呂に入っても、大好物を食べても解消されていない。こんな状態でお酒を飲んだら、ほぼ間違いなく酔っ払ってしまうだろう。
それでも、真正面から向き合いたかった。
醜く汚い私の心をさらけ出し、それを基に神楽さんの本当の声が聞きたかった。
神楽さんの家事はほぼ同じ手順で行われている。だから、今なにをしているのか見れば、終わりまでどのくらいなのか逆算できる。
あと一時間ほどで終わるだろうと見越し、私は読書をして時間を潰す。しかし、頭に物語が入ってこない。つい神楽さんの生活音に耳を傾けてしまい、時計を見る回数も増えてしまっている。
本から顔を離し、神楽さんのほうへと目を向ける。穏やかな顔で洗濯物を畳んでいるけど、どこか急いでいるようにも見えた。無意識のうちに私が急かしてしまったのだろうか。
あぁ、胸が苦しい。
話し合いを望んだのは私なのに。でも、だからこそ、だろう。これから自分がすること、その結果どうなろうとも、過去と向き合わなければならないから。
「終わりました、先生。あのぅ、簡単なおつまみをなにか作りましょうか?」
一ページも読書が進まないでいると、不意に神楽さんからそう声をかけられた。時計を見れば九時少し過ぎたあたり。私は驚いて本から顔を上げる。
「いや、別に……あ、ううん、そうだね、なにか作ってもらおうかな」
「はい、わかりました。すぐにできますので」
すると本当にものの五分で、きゅうりのツナマヨ和えとウィンナーのボイルを用意してくれた。私はいつもの日本酒ではなく、神楽さんと同じオレンジの缶チューハイを冷蔵庫から取り出した。
「先生、今日は日本酒じゃないんですね」
「まぁ、ね。いきなり日本酒飲んだら、酔いそうだからさ」
けれど、今はすぐにでもお酒を飲んでこの苦しいほど高鳴る鼓動を抑えたい。
「それじゃあ、今日も一日、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
カチリと缶を合わせると、私達はほぼ同時に傾けた。甘酸っぱいオレンジの風味が鼻に抜け、アルコールの熱が喉から食道へと通るのがわかる。
「おつまみも美味しそう」
「えへへ、私もお酒をこうして飲むようになってから、ちょっと覚えました」
私はまず、きゅうりのツナマヨ和えに箸を伸ばす。しっかりとしたツナマヨの濃さの後に、さっぱりとしたきゅうりの食感とみずみずしさが同時に感じられる。
「事前に言ってくれれば、お店で食べたようなのもお出しできるんですけどね」
「それはすごい。毎日はさすがにあれだけど、毎週土曜日とかやりたいね」
「いいですね」
以前なら、楽しいことがあっても悲しいことがあっても、毎晩一人だった。二ヶ月に一度くらいは瑞希と友達に戻って飲みに行ったりもしたけど、それでも毎晩の孤独の穴埋めには程遠かった。
でも、今は神楽さんがいる。こうしてまた笑い合い、話もできる。
当たり前のようにもう、傍にいてくれる。でも、それは当たり前なんかじゃない。
そして私はそれ以上に、踏み込みたかった。
「私さ、こんなに美味しいもの作れないから尊敬するよ。それを食べられる私は本当に恵まれているんだなって、そう思わないといけないね」
「ありがとうございます。でも私、昨日先生が作ってくれたチャーハン、あれが人生で一番美味しかったです」
目を閉じ、じっくりと思い返す神楽さんの口元は緩やかに笑っていた。思いもしなかった言葉に、私の走り出そうとしていた気持ちが一瞬止まる。
「多分私、一生忘れません。味もそうでしたけど、先生が初めて私に作ってくれたんですもの。きっとこれから先、どんなに美味しいものを食べたとしても、あの日のチャーハンにはかなわない。これはもう、そう言いきれます」
「それはよかったよ。でも、久々に作ったからダマでもできていたし、味にムラもあったと思うよ。まぁ、でもそうだよね。たまには自分で作ったものじゃないものを食べたくなるよね」
ゆっくりと一つうなずいてから、神楽さんがすうっと目を開けた。それはひどく美しく、純粋さが結実したかのように透明で、でもどこか怯えていた。
「雇用主が作ってくれる料理を望む。そんなのはメイド失格ですよね」
「そんなことは」
けれど私の言葉を遮るように、神楽さんが強く大きく、首を横に振った。
「いえ、そうです。メイド失格なんです。ただ……私はそれでも、また食べたいって思っちゃったんです。先生のあのチャーハンを。手料理を」
じっと私を見詰める視線は強く、一切の揺らぎが無かった。
「もう……メイドの神楽凪だけじゃ、無理なんです。私、先生を好きになってしまったので。どうしようもなく、好きになっちゃっているので」
潤んだ瞳がどうしようもなく美しく、同時に先に言われたという悔しさと安堵があった。
そしてもう、考える時間はない。
「すごく、嬉しいよ。これはね、本当」
そう、私だって神楽さんが好き。ずっと好きだった。なにかにつけて目をそらし、感情に蓋をしてきた偽らざる気持ち。
「ただ……神楽さんは昨日、自分が孤児だって告白してくれたよね」
神楽さんはその瞳の輝きを失わないまま、こくりとうなずいた。
「だから、私も言わなきゃ。ずっと神楽さんのことが好きだったけど、その気持ちに気付いていたけど、言い出せなかった理由を」
もう眼前にあの忌まわしく見詰めたくない過去がある。今だってあの傷は鮮明で、少し思い出したら吐きそうだ。
ただ、それでも克服したかった。それは神楽さんが私を好きと言ってくれただけじゃない。神楽さんではなく今後の人生のために決めたわけでもない。
胸を張って、愛するために。
「私ね、過去に二度大きな失恋をしたの。そのせいで相手をひどく傷付け、取り返しのつかない傷を負わせたんだ。今だって夢に見るし、あの時塞いだ穴が癒えることはない。だから……もっと前から気付いていたけど、動けなかった。怖くて」
コトリ、と神楽さんが缶を置いた。
「……大丈夫ですよ、なんて軽々しいことは言えません。ただ」
神楽さんが真っ直ぐに私の目を見詰める。その瞳の中には私しかいない。
「先生はいつだって、前を見たがっています。私はそんな気がしています」
「前を……」
大きく神楽さんがうなずく。しんとした室内に、私の心臓の音が響いてそうな気がした。
「私がここに来た時、先生の暮らしは荒れていました。でも、結構すぐに暮らし方を変えていったのがわかりました。規則正しく起きるようになり、お酒で酔い潰れる姿もほとんど見てません。ジョギングだって一緒に始めました」
「見栄だよ、そんなの」
「でもそれだって、なかなかできない人が多いです。私だってこれでも、いろんなお家に行ったからわかります」
強い神楽さんの言葉に私は思わず口ごもる。
「それに、先生の作品だってそうです。登場人物はいつだって迷ったり、挫けたり、諦めようとします。でも……いつだって前を向いて進むんです。私が見た、どの作品もです。それは先生の心なんだって、私はそう理解してます」
随分と心の内側にある照れ臭い部分を指摘されたせいで、私はもうきっと泣きそうな顔になっているのがわかる。
「それは」
私はすぐに口をつぐんだ。このままじゃ、いつもの私だから。
私はぎゅっと目をつむり、一度真っ暗闇の中に身を投じる。するとすぐ、神楽さんの顔が浮かんだ。いつもの、晴れやかな笑顔。
ゆっくりと目を開けると、泣きそうな顔の神楽さんがいる。違う、私が見たいのはそうじゃない。
「……本当に、私でいいの?」
「先生がいいんです」
「思ってるほど、ちゃんとした人間じゃないよ」
「そこがいいんです」
過去の何もかもが晴れたわけじゃない。傷は残っているし、先日ケンカした記憶だってまだ生々しいままだ。
けれど、今はもう目の前しか見えなかった。
テーブルに置かれていた神楽さんの手に触れる。少し熱を帯びた、小さな手。そうしてお互いの顔が近付き、吐息がぶつかる。オレンジの吐息。
「神楽さん、好きだよ」
「私も」
耳まで響く鼓動はきっと、重ねた唇を通して伝わっただろう。




