第四十九話~甘い朝~
いつもより少しだけ早く目覚めたのはきっと、シングルベッドが狭かったせいだろう。隣で寝息を立てている神楽さんの肩口が少しはだけていたので、私は布団をかける。
スマホを見れば、まだ朝の四時半。もう一度寝ようと目を閉じたけど、私の右肩に触れる感触と体温が、眠ることを許さない。気持ち良さそうに寝ている神楽さんをまた強く抱き締めたかったけど、起こすのは可哀想だと自分に言い聞かせる。
だから、そっと小指だけ触れた。
眠れない時間はいつも苦痛だった。でも今、楽しさを覚えている。神楽さんのほうを向けば髪の毛が私の鼻先をくすぐって、笑ってしまいそうだ。背を向ければ、なんだか拒絶しているみたいで心苦しい。
どう寝るのが正解なのだろうと考えていると、もぞもぞと布団が動いた。私がそっと顔を向ければ、神楽さんが布団で口元を隠していた。
「おはようございます、先生」
少しかすれた、寝起きの声。恥ずかしそうに、嬉しそうに笑っているのがわかる。
「おはよう」
なんだかそんな姿を見ていると、改めて私も恥ずかしくなってきた。神楽さんと同じように口元を布団で隠し、くすくすと笑い合う。ただそれだけなのに、心が溶けていく。
「先生、一緒にコーヒー飲みませんか?」
真っ赤な顔をした神楽さんの問いかけに、私は小さくうなずいてから一つ頭を撫でた。
「先生、朝ご飯できましたよ」
「ありがとう」
私はソファから立ち上がると、食卓に並んでいる美味しそうな朝ご飯を見た後、神楽さんへと視線を移した。すると神楽さんも私を見ているのに気付き、お互いに照れ笑いを浮かべる。
焼き鮭、ほうれん草のおひたし、なめこの味噌汁、そしてご飯。特別なメニューではない、でもそれがかえって心地良かった。
「じゃあ、いただきます」
二人そろって手を合わせ、まず私は味噌汁に口をつける。まろやかな味噌の味となめこのぬめりが美味しい。
「あー、美味しい。やっぱり神楽さんの作るご飯は美味しいなぁ」
「えへへ、ありがとうございます。先生に褒められるのが、一番嬉しいです」
この笑顔が、この声が私にとって一番嬉しい。他に何もいらないとさえ思う。
でも、この笑顔を続けるためには今まで以上に頑張らないといけない。
どこか今までは遠かった責任感が、より身近に感じる。けれどそれは私を苦しめる重圧にはならない。むしろ今、推進力のようにすら感じる。
「ねぇ、神楽さん」
「はい、なんでしょう?」
私はそこでまた口ごもりそうになった言葉を、過去に引っ張られないように笑顔で打ち破る。
「私ね、今すごい幸せだよ」
「……もぉー、もぉー、もぉー!」
神楽さんはお茶碗を置き、ぶんぶんと頭を横に振った。
「私もですよぉ」
その真っ赤になった耳がもう、何よりも愛おしかった。
よくわからないけど、きっと恋人関係が成立したのならば大きく浮かれ、何も手がつかないのだろう。その気持ちは今になって、よくわかる。
けれど私達は別だ。堕落という言葉でまとめたくないけど、きっとそうしたら二人とも溺れてしまう。私も神楽さんも、形は違うけど『寂しさ』が根底にある。
それはきっとまだ、癒されない乾き。
だから自制しないと、際限なく落ちていく。愛しているなんて言い合っていても、きっとまだ恋。恋は落ちるものだと、色んな媒体で見聞きしている。警告のような文言を今更無視するわけにはいかないだろう。
だからいつもどおりでいい。それがいい。
キーボードを叩く音の合間に、洗濯機が動く音がする。それと同時に、神楽さんが掃除機をかけている。私のいるパソコン周りは後回し。小休憩をしている時にやってもらう。
「先生、コーヒーのおかわりはいりますか?」
二時間ほど書き続け、疲労感で天を仰いでいるとそう声をかけられた。私は顔を戻し、素直に首を縦に振る。
「うん、お願い。あ、もしよかったら、神楽さんも一息つかない?」
「はい、ありがとうございます」
そうしてコーヒーを淹れてもらうと、私はパソコンデスクの前で、神楽さんはソファに座る。お互い、先日買ったネコ柄のマグカップ。ただ、何度見てもまだ感慨深い。
「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
私がそう切り出せば、神楽さんが少し真面目な顔で見返してきた。そこにはわずかな怯えも見えた。だから私は優しく笑いながら、違うよと言わんばかりに首を振る。
「えぇとさ、神楽さんはその……呼び方変えたいって思ってるのかなぁって」
「呼び方、ですか」
思っていたのと違った質問が来たからなのか、神楽さんはぽかんとしながら訊き返してきた。
「そう。だからえぇと……もうほら、特別な関係じゃない。だからその、下の名前で呼び合うとか、そういうのしたいのかなぁって」
「えぇ?! あ、いや、それは……かなり、恥ずかしいです」
もじもじと答える神楽さんだったけど、私はそこに一抹の嫉妬が混じった。
「え、でも瑞希とか藤崎さんは下の名前で呼ぶようになったよね」
「それはその、友達というか、特別なんですけど先生ほどではないから大丈夫なので」
でも、私にとってそれは詭弁のように思えた。
「ねぇ、ちょっとお試しで私のことを下の名前で言ってみてよ。あやめ、って」
「えぇ?! それはさすがに畏れ多いというか」
「……恋人同士じゃない。いいでしょ」
すると神楽さんは目を閉じ、腕を組んで天井へと顔を向けた。そうして数十秒、やっと覚悟が決まったのか、神楽さんが顔を向けた。
「……あやめ」
すると神楽さんは両手で顔を覆い、うつむいてぶんぶんと顔を横に振る。たかが名前を呼ぶだけなのに、そこまで壁があるのは傷付くなぁ。
「じゃあ次、私のことを名前で言ってくださいよ」
うつむき、どこか恨めしそうな物言いに私は笑ってしまいそうだった。そうして神楽さんの下の名前が凪だと再確認してから、口を開く。
「……えっと、その……」
照れが強烈なブレーキになり、言えない。恥ずかしさがまるで南京錠のように、私の口を開かせない。でも、最初に要求したのは私だ。
恋愛は等価交換。だからこそ、こんな初期にその思いを裏切りたくなかった。
「……凪」
言ってから身悶え、頭を抱える。胸はもう、破裂しているかのよう。私はそんな中でちらっと神楽さんへ目を向ければ、神楽さんも相変わらず顔を隠しているにもかかわらず、ぶんぶんと首を横に振っている。
「やめましょ、先生。私には、早すぎました」
「大丈夫、私もだから」
私は誤魔化すようにコーヒーをことさら大きくすすった。




