第四十五話~神楽さんの過去~
マンションから出れば、思ったよりは降っていなかった。それでも雨粒は大きい。まず私は周囲を大きく見まわす。ここに帰ってきたことに気付かなければ、無駄足を踏んでしまうから。
けれど、その姿は見えない。こうなるともう、スーパーにはいないだろう。昼に出て行って、今時間に買い物をして帰るとは思えないから。
ただ、そうなればどこにいるのだろうか。もうなにもかも嫌になって、自分の勤め先に戻ったのだろうか。それとも、自分の家?
不意に瑞希の顔が浮かんだ。雇用主は私になっているけど、雇ったのは瑞希のいる三船出版だ。そこから事情を説明すれば、見つかるかもしれない。
……いや、それはできない。それをやってしまうと、献身的に尽くしていた人を怯えさせて追い出した。そんな人物評になってしまうだろうから。
だったらまず、神楽さんのいそうな場所を探そうかな。
そう思ったものの、神楽さんが日常的にいる場所がわからない。
私、神楽さんのこと、何も知らない。
神楽さんが一人で買い物をしている時、見つけたお気に入りの場所があるかもしれない。もしくはミリアと二人きりで会って意気投合し、家にまで行ってるかもしれない。神楽さんには神楽さんの生活があり、世界がある。
そんな事もわからなかったんだなぁ。
パラパラと傘に落ちる雨粒が孤独のリズムを叩く。呆然と立ち尽くす私だったけど、ふと思考の先にかすかな光が見えてきた。
「……公園、行ってみるか」
定期的にジョギングのために通う公園、私と神楽さんがよく行く場所。ミリアとも和解し、神楽さんと彼女が仲良くなった場所。もう私にはそこ以外、行き先が思いつかない。
自然と歩き出していた。いや、徐々に足早になり、やがて駆け出す。水たまりをかわそうとしても暗くて視界が悪く、時折靴が濡れる。
ただ、そんな不快感は今、荒い吐息と共に消えていくだけ。
すっかり暗くなった公園はぽつりぽつりと街灯がついているだけで、全容は見えない。私は荒れた呼吸を整えるように、いつものジョギングコースを歩き出す。その間、ずっときょろきょろと辺りを見回す。
不気味だなぁ。
この辺は治安はいいものの、それでもなにがあるかわからない。けれど幸いにも、雨が降っているからか、人影はほとんど見当たらない。時折、傘を差した仕事帰りと思しき人が歩いているだけ。
この辺で雨宿りできる場所……あそこか!
ここから見えないけど、少し先に東屋があったはず。
私は再び小走りになった。傘が雨を防ぐのに間に合わず、顔が濡れる。それでも、もしかしたらそこにいる、それに賭けていた。ただもう夢中で、必死に。
東屋が見えてきた。屋根の下には誰かいる。椅子に座り、うなだれている。もう少し近付けば、見慣れたポニーテール。私はいろいろ渦巻いていた一切の感情を忘れ、ただその姿を見つけると、へたりこみそうだった。
「神楽さん」
東屋の手前で荒い息のまま声をかけると、びくりと肩を震わせ、ゆっくりと神楽さんが顔を上げてこちらを向いた。すっかり疲れ果てた顔には涙の跡が残っている。
「先生?」
酷く怯え、また信じられないといった顔でこちらを見詰めてくるまぶたは腫れぼったい。私は東屋の中に入ると傘をたたみ、一人分空けて座った。
「あ、あの……ごめんなさい。私、もう先生の元にはいられないんじゃないかって思って、それで……」
また目を伏せ、神楽さんが自分のスカートをきゅっと握った。その身体は小刻みに震えている。確かに怒ったし、不機嫌な態度をとってしまった。けれど、そんなにも怯えさせるほどのものだったろうか?
「心配したよ。帰ってこないから」
「すみません、すみません。本当に、すみません」
ぐぐっとさらに神楽さんの頭が下がる。今だって別にきつい言い方をしたつもりはないのに……。
「いや、もういいから。というか私、そんなに怖がらせるほど怒ったかな?」
過剰に怯える姿を見て、次第に怒りが沸いてきた。大体、私のお気に入りを壊されたから怒っただけで、別に理不尽な八つ当たりじゃない。だけどこんなふうにされると、私が悪者みたいだ。納得いかないなぁ。
「あ、いえ、違うんです……」
か細いその声は雨音に負けそうだった。
それがまた、私の怒りを刺激しそうになったけど、ぐっと我慢した。きっと今、口を開けばまたこじれてしまう。だから待つことにした。その理由を神楽さんの口から聞くまで。
数十秒の沈黙のあと、ゆっくりと神楽さんが膝につきそうだった頭を上げた。けれど、また顔を合わせようとはしない。
「棄てられるんじゃないかって、怖くなって。私、先生と一緒にいるのが楽しくて、嬉しかったから……それがなくなるんじゃないかって、怖くなって」
雨の音色が変わった。
「先生のおうち、すごく温かくて、もう私にとってかけがえのない場所になっていて。だから私、そこから追い出されたらもう、帰る場所ないって思うと……動けなくなっちゃったんです」
「そう思われてたのは嬉しいけど、帰る場所がないってどういうこと?」
ゆっくりと神楽さんが私のほうへと顔を向ける。なにかをためらうかのように眉根が寄っていたけど、やがてしっかりと目を見てきた。
「私、孤児なんです。だから帰る家もなくて」
耳を疑った。けれど、なにをどう言えばいいのかすぐに浮かばない。自分の語彙力のなさに少し苛立ちを覚えつつ、私は表情を変えずに次の言葉を待つ。
「物心ついた時から、施設にいまして、でもあまり周りに馴染めなかったんです。学校でもそうで、距離を置かれていたんです」
あぁ、だから学生時代の話をした時に反応が薄かったのか。
「中学校を卒業する前に、施設のほうから今の会社に就職する話が出まして、それからお世話になっていたんです。学校にはいい思い出なかったのと、お金稼ぎたかったので」
私も恋愛のことでいじめられたから、いい思い出はそこまでない。ただ、神楽さんのほうがもっと切実だったんだな。
「ただ、そこで暮らしていた寮も老朽化で取り壊しが決まって、どうしようかと思っていた時に、先生のとこのお話が出たんです」
そこで言葉を区切ると、神楽さんは鼻をすすった。
「小説家の先生というだけで、最初は良く知りませんでした。ただ、住み込みということなので、いらないと言われないようにしようと強く思ってました。でも、先生はすごく優しく接してくれて、温かい言葉をかけてくれて……嬉しかったんです」
「別に……普通だよ」
「でも、その普通は私にはないものでした」
神楽さんの目から、つうっと涙が落ちた。
「先生の小説を読んで、ビックリしました。本当に面白くて、いろんな感情が書かれていて。夢中で読んでいるうちに、先生の役に立ちたいって思ったんです。小説の感想を言った時の先生の嬉しそうな顔、今も忘れられません」
「それは別に、いいよ。忘れても」
ゆっくりと首を横に振ると、両目から涙が伝った。
「私、先生と一緒に過ごしているうちに、どこかで諦めていたものが降り注ぐように手に入ってくるような感覚になっていきました。なんでもないご飯の時間や、瑞希さん達との会話も。先生とお出かけしている時はいつだって、幸せでした」
神楽さんの言葉に、今までの生活が走馬灯のようによみがえる。確かに、私も諦めていたものを神楽さんによって得られていなおかもしれない。
「ただ……先生のマグカップを割ってしまった時、当たり前ですけど先生に怒られた時、もう何もかもが終わってしまったんだって、そう思ってしまって。私、先生との生活がもう終わるんだって、もうダメなんだって思ったら……」
みるみる神楽さんの顔が歪み、そうして両手で顔を覆った。
なにを言うべきか、どう慰めるべきか、どんな本心を伝えるべきかわからない。
だから、自然と浮かんだ言葉をそのまま伝えた。
「とりあえず、家に帰ろう」
ポンポンと肩を叩けば、顔を覆ったまま泣く神楽さんが何度もうなずいた。とりあえず、家に帰りたい。雨の公園ではなく、落ち着ける我が家へ。
「帰って、何か食べよう。それから、また話そうか」
「はい……ありがとうございます、先生」
ぐしぐしと手の甲で涙をぬぐい、大きく鼻をすすると神楽さんは差し出した私の手を取った。すっかり冷えて、乾いた手。私は持ってきた折り畳み傘を広げると、神楽さんに渡した。
もう雨は止みかかっていた。でももうこれ以上、濡れたくなかった。




