第四十四話~帰ってこない神楽さん~
いつもは仕事をしていても、何かしらの会話が生まれたりする。そのほとんどは私から。でも今はもう何も話す気になれず、ずっと無言のままお互いの仕事の音だけが響く。
マグカップ一つくらいで、なんて言われるかもしれない。大人げないと、瑞希あたりに言われるかもしれない。そんなことはわかってる。
でも、たとえ許すとしても、すぐに許せるかどうかは別問題。
そこまでできた人間じゃない。物を壊されたら腹が立つし、愛用していたものならばなおさらだ。
「あの、先生。お昼ご飯はどうしましょう?」
しばらく仕事をしていると、神楽さんがおずおずと少し声を震わせて訊いてきた。私は一瞥すると、ふうっと溜息をついてまたキーボードを叩き始める。
「ちょっと食欲ないから、いらない。好きに食べてて」
「……わかりました」
遠ざかる神楽さんがどんな顔をしていたのか、どんな感じで頭を下げていたのかわからない。今はちょっと、顔も見たくなかっただけ。
パソコンに表示されている時計を見れば、そろそろ十一時になろうとしていた。少しお腹が空いてきているけど、我慢できないほどじゃない。それより、もう何も考えたくなかった。ただひたすら、仕事に没頭していればこの怒りだっていつか忘れられるだろうから。
「あの、お買い物に行ってきます……」
そう言って神楽さんは出かけた。パタリとドアが閉まり、一人になったのを確認してから、私はようやく大きく伸びをする。その流れで壁掛け時計に目を遣れば、十二時四十分だった。
……食べてないよね?
私はキッチンへと行くと、シンクには水気が無かった。洗い物をした形跡どころか、調理をした形跡もない。
当てつけだろうか。
リビングに私がいたから、食べにくかったのだろうか。でも私は好きに食べてと言ったはず。あぁもう、こういうことをされると、私が悪者みたいじゃない。神楽さん、変に頑固なとこあるからなぁ。
私はもう空腹に抗えず、戸棚からカップラーメンを取り出し、お湯を沸かし始めた。
お腹が膨れると、集中力が途切れたので寝室に入り、そのままベッドに寝転がる。なんだかすごく疲れた。少し仮眠しようと目を閉じるけど、もう少しで眠れそうだというところで、眠れない。
一時間ほどそうしていたけど、結局寝られなかったので寝室を出て、再びパソコンに向かう。そうして瑞希からのメールをチェックし、昨日送った原稿の修正作業に入る。いろいろあるけれど、私にできるのはこれだけ。
それを終えると、続きの本文の執筆にとりかかった。うんうん唸りながら台詞を考え、的確な表現を探し、困難な場面を抜けると流れるように文章が出てくる。
ふと喉が渇いたのでコーヒーでも飲もうと立ち上がると、まだ神楽さんが帰ってきていないことに気付く。帰りにくいのだろうか。まぁいいやと気を取り直し、普段は瑞希に出す用のマグカップを使う。
そういえば、久々に自分で淹れてるなぁ。
少し疲れ気味だからと、砂糖を多めに入れた。こういうカスタマイズができるのは自分で淹れる利点。そして失敗しても、別に苛立ったりはしない。私は出来上がった濃い目のコーヒーをゆっくり運び、パソコンデスクに置くとまた仕事を再開した。
コーヒーで入れ直した気合いがすっかり消え、集中力が切れた頃には日が傾き始めていた。
神楽さんはまだ帰ってきていない。時計を見ればもう夕方の五時。さすがに遅いなと思ったけど、でも日が暮れれば帰ってくるだろう。
それより疲れた。胸に渦巻く怒りを忘れたいからと言って、ずっと仕事をしていたから仕方ないだろう。もうこの時点で、いつもの倍は書いている。私は椅子に座り続けるのすらきつくなり、リビングのソファにごろりと寝転がった。
仮眠しようかと思ったけど、きっと眠れないだろう。頭をフル回転させ過ぎたせいで、目を閉じても登場人物が浮かんでは消え、いろんな場面がとりとめなく浮かんでは消える。
こういう時は眠れない。
だけど目を閉じ、少しでも情報をシャットアウトする。少しでも頭を休め、体を休めるため。暇だとスマホを触りたくなるけど、我慢。そうしないと夜の執筆ができなくなるし、お酒を飲んだらまた椅子の上で寝てしまうから。
ぱたぱたぱたと窓を雨が叩く音に邪魔される。雨模様だからか、六時前なのにもうすっかり暗い。すこしばかり意識が落ちていたみたいだ。私はむくりと体を起こすと、周囲を見回し、耳を澄ませる。
……まだ帰ってきてないのかな?
生活音が聞こえない。私はのそのそと玄関へ行くが、神楽さんの靴は無いまま。確かお昼に買い物に行くと言って外に出たから、もう五時間くらい経っている。
なにかあったのかな? 事件とか事故とか、巻き込まれてないよね?
私はスマホを手に取るけど、神楽さんの電話番号を知らないことに気付く。登録すらしていない。だって住み込みで働いていたし、いつだって傍にいたからその必要性を感じなかった。
ばたばたばたと雨粒が大きくなる。どうしたものかと思っている間にもどんどんと外は暗くなっていく。昼間は晴れていたから、きっと傘を持っていないだろう。
「あぁー、もぉ!」
顔のない怒りが湧き上がる。私は乱雑に外出用のパーカーを羽織ると、傘を持って外に飛び出した。もちろん、神楽さん用の折り畳み傘も手にして。




