第四十三話~割れたマグカップ~
「先生、先生、起きてください」
肩をとんとんと叩かれ、耳元でそう呼ばれた私は驚いて目を覚ました。
するとすぐ、腰を中心に体が痛んだ。あぁ、どうやらパソコンに向かったまま椅子の上で寝てしまっていたらしい。眠気と眩しさ、そして水を飲まずに寝てしまったからか、頭も痛い。
「あぁ、ごめん。寝ちゃってたね。今、何時?」
「朝の五時です。ベッドに入って、もう一眠りしたほうがいいですよ」
パジャマ姿の神楽さんは心配そうに私を見詰めてくるけど、やらかしてみっともない姿をさらしてしまったからか、私には責めているかのように思えた。
「そうする」
喉が渇いていたけど、気まずさから逃げるように私は寝室に入った。
再び目を覚ましたのは七時半だった。カーテンを閉め忘れていたからか、陽射しに起こされてしまった私はまだ寝たりなかったけど、これ以上眠れそうにもない。それに喉も乾いたし、トイレにも行きたい。
「おはようございます、先生」
「うん、おはよう」
神楽さんの明るい挨拶を軽くいなすように挨拶し、私はトイレへ向かう。それから無言のままキッチンで水を二杯飲むと、やっと少し楽になれた。
「朝ご飯はどうしましょう?」
「うーん……雑炊でお願い。中身は任せるから」
「はい、わかりました」
すぐに入れ替わるよう、私はキッチンからソファへと移る。そうして出来上がるまでの間、ごろりと横になった。
そこまで深酒をしたわけじゃない。多分、いつもより一杯多く飲んだだけだろう。それでも昨日はひたすら嫌なことを思い出していたし、答えたくない問題を考え続けていたからか疲れたのだろう。
おまけに習慣である寝る前の水分補給をしなかった。だから久々の二日酔いになってしまったんだ。あぁ、みっともない。
「先生、できましたよ」
神楽さんに呼ばれて食卓に着くと、鮭雑炊となめこの味噌汁が置かれていた。いただきますと手を合わせ、湯気の立つ味噌汁をふうふうと冷ます。
「昨日は忙しかったんですか? 椅子で寝てるの、初めて見かけたもので」
またも神楽さんが心配そうに私をキッチンカウンター越しに見てくる。私はまだ熱い味噌汁を軽く一口すすった。
「最近は気を付けていたんだけどね。以前はまぁ、ちょくちょくあったんだけどさ」
神楽さんと生活するようになって、一番気を付けていたのはある意味ここだったかもしれない。
「そうなんですか。でも、気を付けてくださいね。椅子で寝ちゃうと体に悪いですから」
きっと悪気はない。そんなのは百も承知だ。なのに今はその優しい忠告が二日酔いのせいなのか、上から目線のそれに思える。
「そうだね」
視線を雑炊へ移し、目を合わせずそう言うと、私は雑炊を口に運ぶ。沸き上がりそうになる理不尽な怒りも、一緒に飲み込むように。
「……あの、多かったら残してもいいので。私、お洗濯ものを取り込んできます」
パタパタと神楽さんが脱衣所のほうへと向かう。私は顔を上げずに雑炊を黙々と口に運び、生活音が完全にそちらに移ってから、スマホを開いた。
結局雑炊は全部食べ切った。そこまで無理をしたわけじゃない、ただ残して捨てるのがもったいなかったから。だって、これもお金。ご飯を捨てるという行為はお金を捨てるのと同義だから。
世の読者のおかげで、特に生活に困ることなく執筆活動ができている。それでも、一日一食しか食べられなかったあの時代を忘れたくない。それを忘れると、きっと私は自分の小説を書けなくなるだろうから。
しかしさすがに、体が重い。なんなら午前中はお休みにしてしまおうかな。
そう思いながら私は自然と窓の外へ目が向いていた。薄曇りの中、眼下では通勤通学のためにいろんな人が行き交っている。そして脱衣所から響く、家事の音。それらは私の罪悪感を痛いほど刺激してくる。
そうだよなぁ。みんな頑張っているもんなぁ。
自分の仕事に誇りを持っているし、自分の作品が素晴らしいものだとも思っている。誰かにとっての憧れの職業でもあると自覚している。
けれど社会生活のために、もっと言えば生きていくために必要な職業かと言われれば、そうは思わない。
結局私は世に出て働く人達にコンプレックスを抱いている。自分にはとてもできないから。そして私は幸運にも、小説を書く力があった。だから小説家になっただけ。売れるまではバイトをしていたけど、バイト先でどれだけ怒られたか覚えていない。
……あぁ、嫌なことを思い出した。顔洗ってこよう。
身支度を整えると、私は仕事のためにパソコンに向かった。すると間もなく、神楽さんがそっと近付いてきた。
「あの、先生。コーヒーはどうしましょうか?」
どことなく、いつもより気を遣った、有り体に言えば怖がっているかのような感じがした。きっとそれだって、いつもは気にならないのかもしれない。でも、今はそんな様子すら心がささくれ立つのを感じてしまう。
「あー……じゃあ、とりあえずもらおうかな」
それでも、私は年上。いつものように振舞うだけ。
「わかりました」
神楽さんがキッチンへと向かう。私は再びパソコンに向き直ると、藤崎さんからのメールを確認する。昨日送った原稿のチェックをし、それを踏まえ、これからの流れをどうしようかと考えている最中だった。
「あっ!」
短い叫び声、そして直後に響いた割れる音。
「どうしたの?」
私はすぐに立ち上がり、キッチンへと向かった。すると床一面にコーヒーがぶちまけられ、その中心にはお気に入りのマグカップが見るも無残に割れていた。ネコの絵が描かれていたそれはもう何かわからなくなっている。
「すみません、本当にすみません」
神楽さんは何度も頭を深々と下げる。けれど、彼女の表情は今、どうでもよかった。私はただ、じっと割れたマグカップを見ている。あの愛らしくも憎たらしかったネコの笑顔はもうない。コーヒーをかぶっても、もう何の表情も見えなかった。
「……そのマグカップ、もう十年以上使ってるやつなのに」
顔を上げた神楽さんがみるみる青くなる。泣きそうな感じで眉根が下がり、唇から言葉を発せられないのか、わなわなと震えるばかり。
だから私は、殊更大きな溜息をついた。嫌味なほどに。
「信じられない」
私は踵を返し、再びパソコンに向かった。
あぁ、せっかく飲むつもりだったのに、飲めなくなるなんて。それに、よりにもよって思い出の品を壊すなんて、信じられない。
もう一度私は聞こえるように舌打ちすると、乱暴にキーボードを叩き始めた。




