第四十二話~あやめの傷~
「先生、コーヒーです」
「ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
神楽さんがパソコンデスクの定位置にコーヒーを置くと、おやすみの挨拶を交わした。私はぺこりと頭を下げて踵を返す神楽さんの背をしばらく見詰める。
もうすっかり見慣れた背中。華奢で、でもしっかりと女性らしい丸みもある。
……ダメだ、最近はどうしてもそういう目で見てしまうことが増えてきた。
それまでいくつかの場面で、ふとそういう目で見ることがあった。それはでも、こんなにも魅力的な子がまるで子犬のように懐いてくれれば、誰だってそうなるだろう。ならない方がおかしい。
ただ、あの夜のタクシーでの一件から鮮明になってきた。
目をそらそうとしても、耳を塞ごうとしても、どうしても逃れられない。気付けば目が自然と神楽さんを追い、その声や生活音に耳が敏感になっている。
こうして飲むコーヒーだって、何物にも代えがたいと思っている。
私はコーヒーを置くと、一旦その気持ちに蓋をして仕事を始めた。しかしすぐに、手が止まる。もう小説どころじゃない。神楽さんのことで頭がいっぱいだから。
原因はわかってる。昼間のピザパーティーだ。
みんなで集まって楽しかったはずなのに、私以外のみんなが下の名前で呼び合うようになった。神楽さんがどんどん打ち解けていって嬉しいはずなのに、一人取り残されたような気持ちになって……そうだ、正直に言えば拗ねているんだ、私は。
私は孤独だ、どうしようもなく。みんな傍にいてくれているのに、それを拭えない。
きっとそれは、相手を信じきれないからだろう。
私は頬杖をつき、気だるげにパソコンをぼうっと見る。画面には主人公が愛する女性と危険なアジトから脱出しようとしているシーン。緊迫感の中にも、相手を気遣う重要な場面だ。そして信じ合うことで、危機からの脱出へと繋がっていく。
小説を書くのは人を楽しませるため、自分が楽しむため。これが大前提。その中で、願望や欲望の発露、そして魂の救済を求める時もある。あの時の『もしも』をエンタメとして書き上げることによって、自分を慰めることだってあるのだから。
私は過去に二度、失恋をした。大きな失恋だった。
一回目は中学生の時。小学生の時から恋愛対象が男の子に向かないなと悶々としていた中で、初めてしっかりと同級生の女の子に恋心を自覚したのだ。
当然、隠し続けていた。親世代よりも理解が深まっているとはいえ、少数派なのは間違いないから。けれど隠せば隠すほど、悶々とした欲求に身も心も焦がされ、気が狂いそうだった。
そうして耐えられず告白をした結果、見事に恋が散った。
それだけならまだよかった。問題はそれがクラスを越えて学年に広まり、私も彼女もいじめの対象になってしまったのだ。彼女は二年生の途中で転校してしまい、私は中学校を卒業するまで気色悪いと言われ続けた。友達も、消えた。
二回目は大学生の時。当時すごく仲の良い女友達がいて、いつも私にべったりだった。顔も性格もタイプな上、事あるごとに「あやめと付き合えたら幸せだろうな」と言っていたのだ。
若い私は浮かれつつ、中学生の思い出が苦いくさびとして打ち込まれていたため、ずうっと我慢していた。けれど三年生の時、二人で旅行することになった。その時もずっと私にベタベタして、酔っていい感じの雰囲気になって、ついに我慢しきれず私は彼女を押し倒した。
それはずっと堪えていた性欲、そして恋人の愛情を手に入れられるという渇望の爆発。今より無知で、若かった私は抑えられず、顔を近付けたのだった。
するとすぐに彼女は困惑したように顔を歪め、泣き顔を隠すように両手で覆った。
『そんなつもりじゃなかった。ガチなのは、違うよ』
今でもはっきり耳に残っている。それ以来、もう恋なんかしないと決めた。自分の恋心の封印はもちろん、相手の『好き』すら信じられなくなった。どんなに好意を寄せられ、どんなに好きと言われても、結局は私を絶望させるための前振りと一緒。
あぁ、高校生の時に願ったからだろうか。神様、小説家になれるのならば他に何もいりません、と。
まさか叶うとは思わないじゃない。人並みとまではいかなくても、ほのかな恋愛すら叶わなくなるなんて、思わなかった。でも、私にはお似合いだ。だってこうした渇望が、小説を書く糧になっているのは否めない事実なのだから。
神楽さんと初めて会った時、私は一目惚れに近かった。
歳よりずっと童顔だったけど、顔立ちは私の好み。スタイルだって、やや線が細いけど女性らしい体つきをちゃんとしてる。それよりも、声と性格が私の心をわしづかみにした。
少し高い、やや古風な言い方をすれば鈴が転がるような声。そして性格は言わずもがな。あんなに献身的で、あんなにも奥ゆかしい子に今まで出会ったことがない。
でも一緒に暮らすうちにお互い慣れてきて、神楽さんも自分の意見を言うようになり、きっと本当はもっと面白い子なんだなとわかってきた。あの純粋さだって、最初は疑っていた。でも、それが本物だとわかった時に尊敬すらしたものだ。
だからこそ、踏み込んではいけない。そうして神楽さんまで失ったら、私はもう立ち上がれる気がしないから。
激しい喜びや、胸にしみる嬉しさなんかいらない。ハイリターンはハイリスクと表裏一体なのだから。
もう疲れたんだ、本当に疲れた。小説を書くのに、仕事をするのにそんな心模様になりたくない。風に凪ぐ草花のようでありたい。
美しいものは遠くから眺めるべきで、自分から得るものではない。少なくとも、私にはその資格がない。二度も人を不幸にしたのだから。
私はほとんど書いていない画面を消すと立ち上がり、冷蔵庫から日本酒を取ってきた。コーヒーはまだ半分残っているけど、もうその気分じゃない。
今はひたすら酔いたい。飲みに行っても気を遣ってばかりで、そういう欲求は満たせないままだったから。
コップに注いだ日本酒をぐっとあおる。その瞬間、少しだけ自由になれた気がした。




