第三十八話~抱き締めるだけ~
さて、これからどうしたものかと悩んでいると、神楽さんがお酒を飲んでから運ばれてきた料理に注目しだした。
「これ、すごいですね。雲のようにふわふわにかかっているのって、山わさびですか?」
「そう。ローストビーフに特製のタレをかけ、その上にすりおろした山わさびを乗せたのよ。辛味が苦手だったら、少しよけて食べた方がいいかも」
「じゃあ、ちょっとよけさせてもらって」
新しい箸で、かかっている山わさびを少しよけてから、神楽さんは一切れ口に運ぶ。すると、驚いたように目を丸くしたかと思うと、ちょっと顔をしかめた。あぁ、わさびが効いているのだろう。
「美味しいです、すごく。あー、なるほど。こういうのもありですね」
「神楽さん、家で作れそう?」
その問いかけに、神楽さんはいっそう味わうようにしっかり噛んでから飲み込んだ。
「そうですね、できるかもしれません。ただ、ソースが……赤ワインと肉汁のグレイビーソースを基調とした中で、コンソメ、ネギ油、あとは……オレガノとスモークパプリカでしょうか」
今度は凛さんが目を大きく見開く番だった。
「すごい、正確にレシピを当ててる。ねぇ先生、すごい人を傍に置いているんだね。これじゃあ、私のお店にもう来てくれなくなるんじゃないの?」
「そんなことないですよ。凛さんのお店には雰囲気がある。そして、凛さんがいる。それが最大の長所じゃないですか。ねぇ、神楽さん」
「そうですね。お店の雰囲気、お酒とお料理の美味しさ、それに……えへへ、凛さんのお人柄に惹かれる人も大勢いると思いますよ」
「うふふ、ありがとう先生、そして凪さん」
私と神楽さんは驚き、凛さんを見た。すると彼女はちょっといたずらっぽく笑うばかり。
「すごいね凛さん、よく神楽さんの名前を覚えてたね。確か、一回しか会ってないよね」
「客商売なら、当然よぉ」
なるほど。だから私が客商売に向かない理由がよくわかる。
そうして凛さんは改めて神楽さんをじっと見詰めてきた。
「それにしても、こんなに若いのにしっかりしてて、今時珍しいわね。うちにもたまに若い子が来るけど、大体みんな気が抜けていたり怠惰なところが滲み出ている。でも凪さんは違う」
言われてみれば確かに、そうかもしれない。しっかり者と片付けるには、どこか真面目すぎるかもしれない。まぁでも、これは個人差だろう。
「そんなことないですよ」
どこか照れたように、気まずそうに神楽さんは視線を逸らす。私も経験があるけど、凛さんにああして見詰められると、なんだか心の奥底まで見透かされそうな感じがするのだ。
「うふふ、可愛い。ねぇ、先生」
「そうなんですよ」
「大事にしないと」
小さく笑い、私はまたギムレットを注文する。神楽さんのグラスももう空になりそうだったから、なにか注文しようかと聞けば、同じのを飲んでみたいと言い出した。
「えっ、これ強いよ」
「ちょっと甘いお酒が続いたので、味を変えたくて」
そう言いながら、断られても仕方ないと言いたげな悲しそうな顔をされたので、私は思わず腕組みをした。きっとこれを飲んだら酔っ払ってしまう。しかし、たとえ酔ってもタクシーで帰ればいいだけ。
なにより、せっかくの初外飲みなのだ。制限ばかりでは面白くないだろう。
「じゃあ、凛さんギムレット二つ。神楽さん、強かったら途中でやめていいからね」
「ありがとうございます」
ほどなくしてギムレットが作られると、私と神楽さんは改めて乾杯をする。
「んっ……先生、平気そうな顔してましたけど、こんな強いんですね」
「別のにする?」
少し考え、神楽さんは小さく首を横に振った。
「もう少し、試してみます。先生と同じの、飲んでみたいので」
「無理しないでね」
ただまぁ、悪い気はしない。だけどどうしてなのか、この感情に名前をつけられないまま、私はグラスを傾ける。
それから三十分ほど、他愛ない話が続いた。私もほんのり酔ってきた。神楽さんはギムレットを半分ほどで諦め、私がオススメしたモスコミュールを飲んでいる。けれど結構顔も赤くなってきたし、そろそろ帰る頃だろう。
「凛さん、そろそろ」
「あら、そうなの? 名残惜しいわね」
「また来るから」
とは言うものの、気軽に飲むのなら近所の焼き鳥屋のほうが実は気楽なのだ。実際ここはちょっと割高だし。でも、せっかくの縁だからとたまに顔を出すようにしている。
「約束よ、先生。じゃあお会計、こちらになりますので」
一万円札を出すと、お釣りはほとんど戻ってこなかった。常々思う、私のような大酒飲みはこういうお店と相性が悪いのだと。
「ありがとうございます。そういえば先生、言い忘れてたことがあったわ」
席を立った時、凛さんが胸の前で小さく手を合わせた。
「実は前にね、テレビ局で働いてるって人が来たの。だからね、ここには小説家先生も来てるのって話したのよ。そうしたら、話が盛り上がってね。先生のおかげよ」
……もしかしたら今回の話……いや、考え過ぎだろう。
「どんどん宣伝してくださいね。それじゃあ、ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでしたー」
神楽さんも立ち上がると、少しよろけたので慌てて支えた。
「ごめんなさい、せんせぇ」
とろんとした目にふにゃふにゃな顔。私はすぐ凛さんにタクシーの手配と、お水をお願いして、神楽さんをもう一度座らせた。
ほどなくしてタクシーが到着すると、改めてお礼を言ってから退店した。ふらふらとどこかに行きそうな神楽さんの手をつかみ、タクシーの中に乗り込む。神楽さんの手は酔っているからか熱く、少し湿っていた。
「今日はありがとうございます、せんせぇ。あと、また酔っちゃってごめんなさい」
「いいのいいの、気にしないで。すごく楽しかったから」
運転手さんに住所を告げると、タクシーは走り出す。かすかに聞こえるラジオの音はすぐに走行音にかき消され、静寂が車内に訪れた。
「せんせぇ」
呼ばれたので何事かと顔を向ければ、まるで無邪気な赤ちゃんのように笑っていた。
「楽しいです、すっごく。こんな世界があるんですねぇ」
「それは良かったよ。もっともっと、いろんな世界を体験していったら、人生楽しいよ」
「そうですねぇ。でも、せんせぇ元々すっごい人だってわかってたんですけど、なんだかもっと遠くに行っちゃいそうで」
うーん、かなり酔っ払ってるな。なんか頭をゆっくり回し始めたし。
「別に遠くになんか行かないよ。出不精なのはわかってるでしょ」
「違いますよぉ。もぉー、もぉー、なんでなんですかぁ」
牛かな?
「いろいろあったけどさ、別に何も変わらないよ」
「うん……でも、それはそれで、やなんです」
「どういうこと?」
酔っ払いで、こんな話をする人は大抵翌日覚えていない。けれど、その時にしっかり対応しておかないと、何故だかシラフの時に好感度が下がっている。これは経験則。
「だって……もぉー、先生にぶいんですもん。こんなに好きって言ってるのにぃ」
ぐっと顔を寄せ、眠いのか酔っているかわからないけど潤んだ瞳で神楽さんが見詰めてきた。
そんなの、私だってドキドキするに決まっている。現に良い匂いするし、こんなに酔っていても可愛いし、普段はほぼ欠点が無いくらい仕事ができる。
だからこんなことを言われたら、私だって……。
「ありがとう」
でも、私は芽生えかけた気持ちにいつものように蓋をする。その代わり、私は神楽さんを抱き寄せ、頭を抱えるようにして撫でた。
好意を向けられるのは嫌じゃない。ましてや神楽さんならば、光栄なことだ。ただそれでも、これが恋愛なのかどうかわからない。もしかしたらそうなのかもしれないけど、今よりもっと若い時に何度もそう勘違いして、失敗してきた。
だって私は同性愛者なのだから。
若い神楽さんは小説家でそれなりに成功している私に社会的な憧れを見出し、それが好きだと錯覚しているに違いない。というか、そう思わないとやりきれない。
だから意識をすれば壊れてしまう、この関係が。
それでも、愛おしさは止められなかった。刺激された感情が呼び起こされ、でもかろうじて残っていた理性がこうして抱き締めるだけに留まっている。
ただ、ここまで。これ以上はもうできない。
艶やかでさらりとした神楽さんの髪の毛は細く柔らかい。きゅっと私の袖を握っていた神楽さんも、やがて寝たのか気持ち良さそうな寝息を立て始めた。
タクシーが家に着くまでの間、私はもう得られないと思っていた恋人の姿をいけないと知りつつ、一人楽しんでいた。ただ、視線は暗く流れる街並みをぼんやりと見ながら、明日どう接しようと思いを馳せるばかり。




