第三十七話~二軒目は『yaya』で~
そこは家から二キロほど離れた、住宅街の外れにあるお店。一見すると飲み屋には見えないアパートだけど、近くに寄ればか細い光のネオンで『yaya』と店名が浮かび上がっている。
「ここ、ですか?」
初めて来る神楽さんはその外観に戸惑っていた。当然だろう、私だって酔いに任せて歩いていた時に、ここが飲み屋なのかどうなのかわからなかったのだから。
「そうなの。一階部分をぶち抜きにして飲み屋にして、二階を住居スペースにしてるらしいんだよね」
それでも訝しむ神楽さんを連れ、私はドアを開いた。
店内は薄暗く、ジャズのBGMが流れていた。入口を入ってすぐのところに大きな水槽があり、小さな熱帯魚が何匹か泳いでいる。店内はそこまで広くはない。
「あらぁ、先生。いらっしゃい。今日は凪さんを連れているのね」
薄暗いカウンターから店主の凛さんが、ナイトドレス姿で挨拶してきた。胸元が大きくはだけ、色っぽさを通り越していやらしい。だけど凛さんはそれを武器にしている。そして私はそれが見たいがために、ここに訪れてしまう。
「そうなの。神楽さんにもここを紹介したくて」
「うふふ、それは光栄。でも先生、前にお約束してから日が空いちゃいましたよね。忙しかったんですか?」
妖艶な笑みに出迎えられ、私達はカウンターの席に座る。するとすぐにおしぼりとお通しのミックスナッツが出された。
「そうなんですよ。まだ言えないけど、大きな仕事が入ってね。あ、私はギムレットで。神楽さんには……そうだなぁ、スクリュードライバーを」
「先生、スクリュードライバーって女殺しの異名があるの、知ってるくせに」
意味深に笑う凛さんと対照的に、神楽さんは困惑した感じで愛想笑いを浮かべていた。
「凛さん、そういうのいいから。飲みやすいお酒を覚えてもらっているの」
「あら、ごめんなさい。ふふっ、凪さんってよほど先生から大事にされているのね」
神楽さんは訳もわからず、曖昧にうなずく。それを肴にしながら、凛さんは手際よくスクリュードライバーを作っていく。そうして差し出されたそれを、神楽さんがまじまじと見る。
「オレンジ色で、綺麗なお酒ですね」
「私も好きなんだ。じゃあ、とりあえず乾杯」
すっとグラスを持ち上げ、視線を交わすと私達はグラスを傾けた。一軒目は神楽さんに合わせて弱めのお酒を飲んでいたからか、ことさら美味しく感じる。
「美味しいです」
嬉しそうに笑う神楽さんが、薄明かりに照らされているからか、いつもよりどこか大人びて見える。
「それで、先生。具体的にどんなイイコトがあったんですか?」
凛さんが妖艶に笑うと、私は誤魔化すようにグラスに口をつける。まだ大っぴらに言えないというのもあるけど、少し年上の凛さんはその魅力的なスタイルと色気の良さで私の中の下心をいつも撫でてくる。
とはいっても、飲み屋の主人と単なる客。なにがあるわけでもなく、そういう雰囲気での遊びをいつも楽しんでいた。だが、今日は神楽さんがいる。そういう気持ちになってはいけないし、そんな顔も見せたくない。
「まだ言えないんだ、本当に。私だけの問題じゃないからね。世に出るのもまぁ、もうちょっと先なんだけどさ」
「なぁんだ、残念。でも先生のお仕事って、そういうの多いでしょうから、嬉しくても言えないってのはもどかしいでしょう」
「そうなんだよね」
流されるように会話をしていると、ふと神楽さんを置き去りにしていることに気付いて、すぐにそちらへと目を向ける。神楽さんは同意するようにうなずいているけど、やはり会話に入れないのは淋しいだろう。
「神楽さんも仕事上、話したくても話せないことも多いもんね。やっぱりさ、ふとした時に誰かに言いたくなったりする?」
「えぇと、私は大丈夫ですね。先生のお仕事と違って、嬉しくて言えないようなことはないですから」
にこりと笑う神楽さんに、私はしまったなぁと後悔してしまう。どうにも気の利いた会話というものが、未だよくわからない。こういう初めてのところに来て、神楽さんは緊張しているはずだから、なんとか少しでもリラックスしてほしいのだが……。
「とりあえず、何か食べる? ここは料理も美味しいんだよ」
「えへへ、実はさっきのお店で割とお腹いっぱいになっちゃいまして。あ、でもオススメがあるなら、少しくらいなら」
すると凛さんがすっとメニューを差し出してきた。私はそれを受け取り、目を通す。確かに私も結構お腹いっぱいだけど、なにかちょっとしたものが欲しい。
「凛さん、山わさびローストビーフをお願いします」
「はーい、ありがとうございます」
メニューを戻すと、凛さんが立ち上がって調理に取り掛かった。私はもう一度神楽さんのほうへ顔を向け、小さく笑いかける。
「緊張するでしょ。こういうお店、初めてだもんね」
「そうですね。お外でお酒飲むのも初めてですし、さっきとは雰囲気も違いますので」
「疲れちゃった? ごめんね、連れ回しちゃって」
すると神楽さんはぶんぶんと胸の前で大きく手を振り、目を大きく開いていた。
「いえいえ、大丈夫です。今日は先生のお祝いなんですから、ずっとお付き合いしますよ」
……あぁ、違うの。そうじゃないの。
「神楽さん、その気持ちは嬉しいよ」
笑いかけた神楽さんだったが、私の真顔を見て、神楽さんの笑顔が消えた。
「でもね、私は自分のお祝いって名目で飲みに来たけど、本当は神楽さんとただ純粋に楽しみたいだけなんだ。まぁ、仕事の延長で来たってだけなら、無理に連れ回して悪いとは思ってるけど」
「違います。私、本当に嬉しかったし、楽しいんです。仕事の延長なんかじゃないです」
どこか泣きそうな、訴えるような表情で神楽さんが見詰めてくる。そうして私が言葉を探していると、私と神楽さんの間に料理が置かれた。
「先生、こんな若い子を困らせちゃダメよ。そういうの訊くのは野暮ってものよ」
どこか柔らかく、どこかピリッとした言い方でたしなめられると、私は素直にうなずいた。
そうだ。私は気にかけているように見せかけ、その実、自分のネガティブな甘えを垂れ流そうとしていただけだ。
本当に、私は弱い。




