第三十三話~ミリアの小さな恋心~
午前中は藤崎さんの担当する長編の下準備をし、午後には瑞希の担当する長編を書いていく。これが大まかな私の仕事状況。
ただ、仕事ばかりすることはなくなった。午前中は神楽さんと買い物に出かけたり、午後はジョギングをしたりと以前より積極的に外に出るようになった。やっぱり陽の光を浴びるのは大事だし、なにより体を動かすと頭もさえる。
「先生、走り方が綺麗になってきましたね」
家を出ていつもの公園に着くまでの間に、もう軽く走り始められるようになってきた。歩くのとほとんど変わらないペースだけど、準備運動代わりなのでこれでいい。
「まぁ一応、動画とかでそういうの見てるからね。どうせやるからには正しいフォームで、怪我しないようにしたいし」
「素晴らしい考えです」
「それに、走り方の綺麗な神楽さんの横で格好悪い走りをしてたら、目立つし」
ものぐさな上、人の目は一丁前に気にする。そのものぐさが最近解消されつつあるから、今度は人の目を気にするようになっただけ。
……いや、違うな。なんか神楽さんの隣で格好悪いのを見せたくないのかもしれない。
「私はどんなフォームでも気にしませんけど、でもある程度は綺麗なフォームで走った方が疲れにくいのは確かですね」
ポニーテールを揺らしながら、にこりと笑いかける神楽さん。陽射しがまぶしいのか少し目を細めている様子が可愛らしく、とても輝いて見える。
そよ風の中で心も体も温まってきた頃、目的の公園に着いた。私達が木陰でストレッチをしていると、ふと遠くからこちらに近付いてくる姿が目に入った。表情はわからないけど、金髪のショートだけでもうそれが誰かわかってしまう。
私達が手を大きく振れば、向こうも振り返してくれた。
「こんにちは」
「こんにちは。先生と凪はいつものジョギング?」
ミリアは最初の頃とは比べ物にならないくらい穏やかな顔で、そう挨拶してきた。ストレッチを中断し、私と神楽さんは改めて彼女に向き合った。
「そうなんです。ミリアはこれからどこかに?」
「いや、なんとなくここに来れば二人に会えるかなって思ってさ。あと今日、大学の講義がなくてさ」
別に彼女からもう怖いとか、そういうものは感じない。ただ、私のファンではあるけれど、今は神楽さんの友達としての立ち位置が強い。だから私はどうしていいのか、手持ち無沙汰になってしまう。
「ミリア、大学生なんですね」
「誰でも入れるようなとこだけど、一応ね。あと、夢野先生」
急に呼ばれて思わずビクッとなってしまった。
「最初の時も言いましたけど、私、先生のおかげで真っ当な人生を歩き出せたんです。改めて、お礼を言わせてください」
「あの……嬉しいんだけど、どうして私なの?」
するとミリアが恥ずかしそうに頭をかいた。それはまるで、小さな子供のよう。
「私、中高と悪い友達と付き合ってたんですよ。この前のは、その名残で。けど、小学生の時はこれでも本を読むのが好きだったんですよね」
恥ずかしさと後悔が入り混じったその目が、嘘をついているようには見えなかった。
「高校三年の時、これからどうするのかっていろいろ言われて。反発してたんですけど、でもこのままじゃなぁと思ってた時、たまたま本屋で先生の本が平積みされてるのが目に入ったんですよ。ほんと気まぐれで手に取って、パラパラ見たら……衝撃でした」
「ちなみに何を読んだのか覚えてる?」
「はい、もちろん。『夕刻のセラピスト』です。パッと見た時にすごく読みやすくて、ずっと本から離れてた私でもすーっと読めたんですよ。で、すぐに読むのをやめるつもりが五分ほど夢中になって、すぐに買いました。家でじっくり読み始めたら、もう止まらなくて」
こんなに夢中になってくれる読者がいる。それは私が執筆をしている時に、常に求めている読者の姿だ。
「その中で、マオが再起を決断するシーンを見て、勝手に私と重ねて、涙が止まらなくなって」
荒れた過去、すさんだ心を思うと可哀想だと思う。けれど今はそれよりも、メチャクチャ褒められていることに胸がいっぱいで、笑い出すのを堪えるのに必死だった。
「それからそういう付き合いはやめて、真面目に勉強し始めたんです。挫けそうになったら何度も読み返して、自分を励まして。だから今の自分がいるのは夢野先生のおかげなんです」
「ありがとう。自分の書いた話が誰かの人生を良い方向に進められたなんて、嬉しいよ」
するとミリアが顔を真っ赤にしながら、勢いよく頭を下げた。
「あぁ、大好きで尊敬する先生にそう言ってもらえるなんて、嬉しすぎて死ぬ」
大袈裟なだな、と思ったものの、私だって憧れの人にそう言われたらきっとこうなる。
「実は私、ずうっと先生のことばかりを考えていたんです。先生の著作を全部買って、インタビューされてる本も可能な限り集めて。サイン会はちょうど葬式があって行けなかったんですけど、でも友達に頼んでサインしてもらった本は宝物です」
「嬉しいよ。本当に、そこまで熱中してくれて」
「だから凪、最初にその……睨んでというか、嫌な態度とって、本当にごめん」
さっとミリアが神楽さんの方を向き、今度は神楽さんに頭を下げる。神楽さんは目をぱちくりさせ、どうして頭を下げられているのか困惑しているみたいだ。
「え、え……いや、私は別に気にしてませんけど」
「あの時、偶然夢野先生を見かけてどうしようって思ってたら、そばに凪がいて……正直、嫉妬しちゃったんだよね。誰なの、なんでなのって勝手に敵意を持っちゃって。なんていうか、憧れが恋みたくなってたんだろうね」
落ち着かない様子で体を動かし、視線を下に向けるミリアに私は何も言えなかった。ちらっと神楽さんのほうへ目を向けると、一瞬唇をきゅっと結んでいるように見えたけど、気のせいだろう。見直した時にはもう、いつもの顔に戻っていた。
「わかります。先生素敵ですもんね」
気遣うような言い方は神楽さんらしいけど、どうしてか私の心はモヤッとしたものが渦巻いた。
「そうだね。うん、私は先生に恋をしていた。多分それはもう、間違いない。でも今はこうして……私の勝手な思い込みだけど、親しくなれたから、落ち着けたんだ。しっかりと熱心なファンにさ」
顔を上げたミリアはどこか清々しい表情をしていた。まるでこの清らかな風のように。
「なんていうか、先生と凪にはちゃんと伝えたかったんだ。ケジメというか」
「やっぱりミリア、素直で素敵な人です。ねぇ、先生」
同意を求めるように神楽さんがこちらを向いたので、私も笑顔でうなずいた。
「うん、間違いない。本を読んで泣ける人なんて、感性が素敵な人だもん」
「夢野先生、ありがとうございます。一生推します。それではジョギングと執筆、頑張ってください。新作、楽しみにしてます」
ミリアは何度も何度も頭を下げ、笑顔で去って行った。晴れやかなあの顔こそが、きっと本当の顔なのだろう。
「先生」
そっと置くような声での呼びかけ。私は見送った顔のまま神楽さんのほうを向く。
「いろんな人が先生の作品を楽しみにしているんですね」
「そうだねぇ、頑張らないと」
「もちろん、私もですからね」
ずいっと一歩、神楽さんが近付く。少し見上げるその顔が可愛くて、思わずドキッとしてしまう。
「わかってる。じゃ、そろそろ走ろうか」
「そうですね」
私達はトントンとその場で軽くジャンプしてから、ジョギングを始めた。




