第三十一話~素の瑞希~
仕事だけをしていればいいと思っていた。他の面倒なことは周りの人がやってくれるのだから、と。それは今もあまり変わっていない。でも、割とまともな生活になってきて、そばにいつも神楽さんがいるようになってから、変わってきたのだろう。
「私は昔から先生のことを知っているから、心配なんですよ。周囲の期待に全力で応えようとして、結果潰れるのを何度か見ているので」
「そうだね……。まぁ、でもこれは私としても挑戦だからさ。もし二作同時並行で書けたら、今後の役に立つだろうし」
「そうなれば、うちで二本書いてもらうだけですよ」
瑞希がニヤリと笑うと、私もまいったなとばかりに苦笑する。すると、神楽さんがコトリとコーヒーを二人分置いてくれた。
「あの、一つよろしいでしょうか?」
神楽さんが瑞希の方を見れば、瑞希が柔らかな表情で迎える。
「桐山さんと先生って、お友達なんですよね。どうして敬語なんですか?」
「仕事だからね」
「そうそう。神楽さん、瑞希ってものすごく真面目でね。別にいつものように砕けて話していいよって言っても、仕事の時はこういう話し方なんだよね。休みの日とか、仕事に関係のない時は普通に砕けた話し方をしているよ」
すると神楽さんが目をキラキラと輝かせて瑞希を見る。その意図を察した瑞希は気まずそうにふいと視線を外すけど、神楽さんの表情は変わらない。
「若い子の期待を無下にしちゃうのかなぁ、敏腕編集者さん」
「なんでもかんでも期待に応えるのが仕事ではありませんから」
「でも、瑞希がこの家に紹介したんじゃない」
「いや、それは関係ないじゃないですか」
瑞希はコーヒーをすすり、平静を装う。けれど私は知っている。飲み終えた後に視線が上を向く時は、迷っている時だと。昔から、そういう癖があるのだ。
「ほらほら、神楽さんからも言ってあげて。聞きたいって」
「あ、はい。あの、桐山さん。もしよろしければ、普段どんな感じなのか知りたいです」
「……神楽さんもすっかりあやめに毒されたね」
おやっと思った時、瑞希がテーブルに手をついて私のほうへ前のめりになった。
「なんにも面白くなんかないわよ。ほんっと、あやめもしつこい。こんないたいけな神楽さんも、すっかり染まっちゃってさ」
今度は神楽さんの方へと瑞希が顔を向ける。
「神楽さん、あやめに変なことされてない? 酔っ払うと、しょっちゅう抱き着いたりしてくるんだよ」
「えぇと、お酒を飲んでいても私のほうが先に潰れちゃうので」
「えっ、もしかしてあやめ、神楽さんに飲ませたの?」
「だって二十歳だし」
すると瑞希ががくりとうなだれ、盛大に溜息をついた。
「あやめ、酒癖悪いのわかってるよね……」
「いやいや待って、ほんとなにもしてないから。というか、自分よりもずっと弱くてお酒飲んだ経験ほとんどない人の前で、そこまで酔っ払わないよ」
「……先生って、酔っ払ったらそうなんですか?」
今度は私のほうへ神楽さんがキラキラした目を向けてくる。
「まぁ、えぇと……そういうこともあったかなぁ」
「そういうことばっかりだったでしょうが!」
ヤバい、風向きが悪くなってきた。
「あ、ほら、瑞希も忙しいでしょ。そろそろここを切り上げて、他の作家さんのとこにも行ったほうがいいんじゃないの?」
「わかってるよ。もー、勝手なんだから、毎回毎回」
ぶつぶつ言いながら帰り支度を始めた瑞希に安堵しつつ神楽さんを見れば、残念そうに私を見ている。けれどもうこれ以上はないと察したらしく、いつものにこにこした顔に戻った。
「それじゃ、何かあったら今度は連絡してね。社会人の基本は報告、連絡、相談なんだよ」
「わかったよ。それじゃあ、また」
結局口調を戻さなかったのも、真面目な瑞希らしい。パタリとドアが閉まると、私は冷めたコーヒーをやっと飲むことができた。
「あの、先生」
瑞希のコーヒーを片付けながら、神楽さんがこちらを見てきた。私はコーヒーに口をつけていたので、視線で反応する。
「酔っ払った先生って、瑞希さんにどんなことしてたんですか?」
「……それ、訊くの?」
なんか神楽さん、確かにぐいぐいくるようになってきたなぁ。
「えぇと、いろんな先生の姿を知りたくて」
「あまりその姿は知らなくてもいいよ。その姿はもう、封印したから」
以前そこまで考えなかったのは、相手が瑞希だったからかもしれない。お酒にも依存していたし、瑞希にも依存していたからだろう。
お酒を飲めば不安が噴き出し、人恋しくなり、ぬくもりを求めたくなる。二十六歳になったとはいえ精神はもっと幼く、高校生……いや、中学生か、下手すれば小学生のまま。甘えたくて褒められたくて仕方ないのだ。
ただ、そんな姿をさすがに知られたくないと思うのは成長か、それとも見栄か。
「うぅー、じゃあいつか上手にお酒飲めるようになったら、絶対見ますからね」
「楽しみにしてるよ」
それがいつの日なのかわからない。でもそう言ってくれるってことは何度も私と飲みたいということに他ならないし、そうなるまで飲みたいってことなのかな。
勝手な解釈かもしれない。でも、嬉しかった。晩酌はまだ二回だけど、少なくとも嫌な思いをさせずに済んだということに。酒癖悪いとか、酔っ払った姿は酷いと言われていた私も、こうして自制できるようになった。
少しは大人になれてるのかな。
なんて二十六歳で思う時点で、まだ子どもなんだろうな。




