第二十六話~あやめの蕎麦講座~
パタリとドアが閉まってから何気なく壁時計に目を向けると、そろそろ十二時になろうとしていた。
「神楽さん、お昼軽めでお願いしたいな。まださっきの大福が残っててさ」
「私もです。なので、冷たいお蕎麦でどうでしょう。何か好みのトッピングとかありますか?」
蕎麦と言えば私はこれだというのが二つある。
「納豆蕎麦か、とろろ蕎麦がいいな。納豆はひきわりでお願いしたい。私ね、天ぷら蕎麦よりも、こっちのほうが好きなんだよね」
「わかりました。冷蔵庫には納豆ありますけど、とろろが食べたいのであれば今から長芋買ってきましょうか?」
「いや、納豆で良いよ。あと、わさび出しておいてね」
「はい、わかりました」
神楽さんが料理に取り掛かるのを見て、私も仕事をしようかなと考えた。けど、どうせ二十分くらいでできあがるのだ。そんな細切れで仕事しなきゃいけないほど、追い詰められているわけでもない。
私は寝室に入ると、ベッドの上でごろりと横になってスマホを見始めた。
小説家というものは、いついかなる時もネタ探しをしている。こうしてニュースを見たり、面白い動画や配信者のゲーム実況を観ていても、世の中のトレンドや動きを把握しているのだ。
なんて高尚なことを語るつもりはない。これは単なる息抜き。だってずっとスイッチをオンにし続けていたら疲れるから。
そうしてダラダラ過ごしていたが、やがて神楽さんの「できましたよ」という声がすると、私は寝室を出た。
「わぁ、美味しそう。ちゃんと納豆もひきわりになってる」
お皿に盛りつけられた蕎麦には刻みのりがかかっており、その脇には納豆、ネギ、わさびが小鉢に添えられていた。私が感心しながら席に着くと、神楽さんも向かい側に座った。
「私も好きなんですよ、納豆蕎麦。さぁ先生、いただきましょう」
「だね。いただきます」
そうして私はまず納豆を全部、そばつゆの入った器の中に入れた。静かにかき混ぜ、つゆと納豆を馴染ませる。それからわさびを少量箸でつまむと蕎麦の上にちょこんと載せ、それをつゆの中に入れてからすすった。
「あー、美味しい。冷たいお蕎麦って、冷たければ冷たいほど美味しい気がする」
「先生、なんだか随分カッコイイ食べかたですね。おそばにわさびを載せるんですか」
神楽さんはまだ最初の一口を食べていない。どこか感心したような、驚いたような顔で私を見ていた。
「これはね、昔テレビで食通の芸能人がやってたんだ。わさびは直接溶かすと、味がぼやけるって。あとつゆもどんどん辛くなるからってさ」
「へぇー、なるほど。じゃあ、私もやってみます」
私にならって、神楽さんもわさびをちょんと蕎麦に載せてから、つゆにつけて啜り始めた。するとすぐ、何かに気付いたかのように目が大きく開かれる。
「あー、確かにこの食べかたはいいですね。ちゃんとわさびの風味がありますし、ツンとした辛さのアクセントもいいです。あ、じゃあ先生。ネギはどのタイミングで食べればいいんですか?」
「ネギはね、蕎麦食べている時は入れない」
「えぇー、そうなんですか?」
驚きのあまり神楽さんが私とネギを交互に見る。まぁそうだろう。私だってそのテレビ番組で見た時はちょっと衝撃的だったのだから。
「これは好みだけど、そばつゆにネギ入れたり、ネギと一緒に蕎麦をつゆにつけて食べると、辛いんだよね。蕎麦の美味しさが消えちゃうのよ」
「確かに……。そういうものだと思って食べてましたけど、言われてみれば辛いですよね。じゃあ先生、いつ食べるんです?」
興味津々とばかりに顔を寄せ、神楽さんが目を輝かせている。こんなに興味を持ってくれるなんて、あの時あの番組を観ていてよかった。
「ネギはね、食べ終わった後にそばつゆの中に入れて、熱い蕎麦湯をかけるの。そうすると辛味が薄まり、甘くくったりとした食感になるからオススメなんだよ。その時にわさびを溶かしていたら、逆に辛さが強く残るんだよね」
「そんな食べかたがあったんですね……勉強になります」
「ところで蕎麦湯はあるの?」
「あります、大丈夫です。あとでやりましょう」
美味しく蕎麦を食べ終えた私達はその後、私のオススメのやりかたで蕎麦湯を堪能した。神楽さんも満足してくれたみたいで、これからこの食べかたを定番にすると宣言してくれた。
私の好きな食べかたが好意を持って受け入れられるのは、いつだって嬉しい。
食事を終えると三十分ほど食休みがてらニュースを見ていた。そして、さして興味のないニュースになったタイミングでテレビを消し、パソコンの前に座る。
「コーヒー、お願いします」
そうして瑞希からのメールを再確認していると、コトリとコーヒーの入ったマグカップが置かれた。
「あの、先生……差し出がましいようですけど、よかったんですか?」
「ん、なにが?」
「長編のお約束です。先生、今取り掛かっている長編だけでも、かなりの時間お仕事をされてるじゃないですか。その上もう一本なんて、大丈夫ですか?」
「まぁ、楽な仕事じゃないよね」
私は髪をかき上げ、そのまま頭をかいた。
「ただ、神楽さんが来てくれてから規則正しい生活をするようになって、時間が前よりできた。仕事への意識も変わった。それにね」
私は両手を太ももに置き、ぐっと神楽さんのほうへ顔を突き出した。
「この生活を続けたいから、頑張って稼がないとね」
今までは一人暮らしをするには過分なお金をもらえて、十分だと思っていた。でも神楽さんが来てくれてから、私には欲ができた。
神楽さんとずっと一緒にいたい。
けれどそのためには雇用関係を維持しないとならない。今は三船出版の方で見てくれているけど、いずれは私自身の力で雇いたい。もし三船出版に何かあった時、私が神楽さんの雇用を確保できるほど稼いでおきたい。
それだけが私達を繋げる鎖なのだから。
「はい、応援してます。でも、無理しないでくださいね」
けれど神楽さんは特になにも響かなかったのか、いつも通りの笑顔で励ましてくれた。
まぁ、そういうものか。勝手に相手が自分の言葉に感動し、酔いしれるなんてあるわけないものな。私としてはやったことないけど、合鍵渡しそうな勢いで言ったつもりだったのになぁ。
「よっし。じゃあ、お互い頑張ろうね」
でも、やるしかない。私しか気付いていないとしても、私だけが勝手に盛り上がっているとしても、やるべきことは変わらない。
私はまだ熱いコーヒーをほんの少しだけ飲んでから、キーボードを叩き始めた。




