第二十四話~神楽さんの強さ~
「先生、今日はジョギングどうします?」
お昼ご飯の焼きそばを食べ終えて食休みをしていると、そう訊かれた。正直、昨日ので筋肉痛だからあまりやりたくはない。けれどその目と、期待が込められた弾む言葉に私は否定する言葉を持ち合わせていない。
「ちょっと落ち着いたら、やろっか」
すると神楽さんの目が輝き、口角が上がっていく。
「はい、わかりました。じゃあ、すぐに洗い物とか諸々やっちゃいますね」
こんなに喜んでくれるんだ、断れるわけないじゃない。
だからしばらくお互い作業をして、お昼の二時頃に私達は着替えて家を出た。
「今日は薄曇りですね」
「カンカン照りよりは、このほうが運動するのにはちょうど良いよね」
風は穏やかで、湿度もそんなに高くない。運動するには最高の環境だろう。私達はまず慣らすように、のんびりと歩きながら昨日の公園へと向かった。
「私、色々調べたんですけど、距離ではなく時間で走ったほうがいいみたいですよ」
「どゆこと?」
ただ歩くよりもちょっとだけ腕振りを意識しながら進んでいると、不意に神楽さんが口を開いた。私が思わずそちらを見ると、なにやら自信たっぷりに笑っている。
「三十分なら三十分、どれくらいの距離を走ったかではなく決められた時間を走る方がいいらしいです。だから三キロでも五キロでもいいから三十分って決めたらその時間をずっと走るみたいです」
「なるほどね。でも確かに距離を基準にするとダラダラ時間をかけすぎるか、速く走って脂肪燃焼しないのかもね」
肯定されたのが嬉しいのか、こくこくと何度も首を振る神楽さんが可愛い。
「ですから今日は三十分走りましょう。それも、疲れたら十分間歩いてまた走り出すとか、そんなのでもいいみたいですよ」
「そうなんだ。それならできそうかも」
意欲が湧き、私も神楽さんにつられて口角が上がってきた。きっと一般的なトレーニングの方法なのかもしれないけど、神楽さんの口から語られているというのが大きい。これを文字で見たとしても、きっと、いや絶対に私は実践していないだろう。
公園が見えてきた。私達がお互いに顔を見合わせて笑い合った、その時だった。
「あ、夢野先生じゃないっすか」
不意に後ろからそう声をかけられた。聞き覚えのある声に振り向けば、金髪ショートで目つきの悪い昨日の彼女が立っていた。
「あぁ、どうも。昨日振りだね、えぇと……」
「西野ミリアです。覚えてくれていて、嬉しいっす」
そう言いながら、勢いよく頭を下げた。この体育会系のノリ、苦手だ。学生時代、苦手だった人達と同じ感じ。ファンだと言っていたけど、こういう人達って飽きたらすぐ手のひらを返すのを私は知っている。
「あぁ、そうそう、西野さんね。ごめんね、私って人の名前を覚えるのがすごく苦手だからさ」
「いえ、気にしてないっす。それより」
するとジロジロと不躾に西野さんが神楽さんを見る。私がこれをされたら不快感で爆発するかもしれない。けれど神楽さんはじっと立ち、笑顔を崩さないままだった。
「夢野先生の妹っすか?」
眉間に深くしわを寄せ、値踏みするように彼女が神楽さんを見遣る。それは傍から見ても無礼な態度で、なんなら無理にでも怒らせようとしているのが丸わかりだ。
「私、先生のところで住み込みでお仕事させていただいている、神楽凪と申します」
けれどそれは柳に風。神楽さんはいつものように、にこにこと笑いながら自己紹介をすると頭を下げた。そんな神楽さんを見て、西野さんがちょっと呆気にとられた顔をしている。
「住み込みって、なに? 家族でないの?」
「はい。城ケ崎家政婦紹介所から派遣され、住み込みでお仕事させていただいてます」
ますます西野さんの雰囲気が不穏なものになっていく。私はその様子を察すると、無理矢理間に入るよう、体を滑り込ませた。
「そうそう。あまりこういうのファンの人に話すのは心苦しいんだけど、仕事してるとその他の事がおろそかになっちゃってね。編集者の人から心配されて、それでね」
愛想笑いを浮かべ、なんとか事態を鎮静化させようともくろむ。あぁ、なんで私がこんなことに気を回さないとならないんだ。おまけに向こう側からまた金髪の女の子達が歩いてきてる。ストレスだ。
「そうなんですね」
それでもあまり納得してないように、西野さんが神楽さんをじっと見る。なんだろうこの感じ。随分と強火のファンだなぁ。作家じゃなくて、作品を見て欲しいんだけど。
「あの、じゃあ私達用事あるから、これで」
そう言って私がすり抜け、二人の先に出た時だった。
「あれぇ、ミリアじゃん。なにやってんの、こんなとこで」
背後からガラの悪そうな声が聞こえてきたので思わず振り返ると、これまた金髪で目つきの悪い女の人が三人立っていた。この子の友達なのかな。にしても、怖い。
ともあれこれで向こうも用事ができるから、別れられる。そう思って去ろうとした時、西野さんが苦々しそうな顔をしていたのに気付いた。
「別に。てか、あんたらとはもうつるまないって言ったじゃん。しつこいんだよ」
「なになに、それ。勝手なこと言っといて、しつこいってなによ。ねぇ、ケンカ売ってるの?」
三人の中でも体格の良い女の人が一歩前に踏み出してきた。私は神楽さんにもう行こうとアイコンタクトを送る。けれど神楽さんは恐怖で固まっているのか、笑顔のまま動こうとしない。
いやむしろ、それぞれの様子を見ているかのよう。
ヤバいって、このままじゃ私らまで巻き込まれちゃうから。
「何度言ったかわからないけどさ、私はもう一緒にはいたくないって言ったでしょ」
「勝手なことばっか言ってよぉ、何様のつもりさ?」
ぐいっとその人が西野さんに顔を近付けようとした時だった。
「あのぅ、西野さんはこれから私達と用事があるので、そこまでにしてもらってもよろしいでしょうか?」
神楽さんが二人の間に割って入った。
「なんだ、てめぇ?」
「西野さんの友達です」
ちょっと、神楽さん。なにやってんのよ。逃げようよ。
けれど私はもうビビって、声も出せない。西野さんもぽかんとした顔になっていて、状況を飲み込めない様子だった。
「何が友達だ。子供はすっこんでろよ。ぶっ殺すぞ」
ドスの利いた声で神楽さんの胸倉をその人がつかんだ。神楽さんの視線がわずかに下がる。
その瞬間――。
ふわっと相手の体が浮いたかと思うと、鈍い音と共に地面に叩き付けられていた。何が起こったのか、誰も把握できていない。目の前で見ていたはずなのに、よくわからない。ただ、少し真面目な顔をした神楽さんが彼女の手首をつかんでいて、相手が悶えているのだけはわかった。
「そんな物騒な言葉はよくないですよ」
後ろにいたガラの悪い二人はこの光景に驚いていて、顔が引きつっている。投げ飛ばされた金髪の女の人は苦悶の声をあげていた。
「もうこんなこと、ダメですからね」
神楽さんが手を離すと、その人はよろよろと後ずさりをする。さっきの威勢はすっかり消えていた。それもそうだろう、小柄でニコニコしている女の子にやられたのだ。わけもわからずに。
「くそっ、なんだよ。もういいよ」
逃げるようにして彼女達が去ると、神楽さんは西野さんに向き直った。
「では、私達はこれで」
「ま、待って」
ぺこりと頭を下げようとした神楽さんに、西野さんが両手を突き出してそれを制止する。
「あ、あの……なんで?」
困惑する西野さんに、神楽さんはいつも通りの笑顔を向けている。
「西野さん、先生のファンなんですよね?」
「そうだけど……」
「私もなんですよ! だから、仲間ですね」
純粋無垢な笑顔に、西野さんが呆気にとられる。けれどすぐ、どこか泣きそうな嬉しそうな顔へとほころんでいく。
「え、だって私、あんたのこと」
「あぁ、そうだ。ごめんなさい。勝手に友達とか言ってしまって。あの、失礼でしたよね」
ばつが悪そうに神楽さんが頭を下げる。すると西野さんがすぐに吹き出した。
「……ううん、その、神楽さんさえよければ、友達でいいからさ」
「ほんとですか? ありがとうございます」
ぱあっと、まるで霧が晴れたような笑顔を神楽さんが向けると、もう西野さんの顔から険しさが消えていた。
「にしても、さっきは助かったよ。ありがとう。その、昔の悪い知り合いでね」
「そうなんですね」
相変わらず神楽さんは笑顔を崩さない。対して私はどんな顔をしていればいいのかわからず、落ち着かないままだ。
「あのさ……怖くなかったの? というか、さっき何をしたの?」
「あぁ、あれはつかまれた手を捻って、腰を落としたんです。ただそれだけですよ」
なんてことなく話しているけど、きっと何かの武術なのかもしれない。あぁ、だから西野さんやあの人達に睨まれても平気だったのかな。
「では西野さん、これから先生とジョギングなので」
「ごめん、もう一つだけ」
顔の前で手を合わせ、懇願するように西野さんが頭を下げた。神楽さんは前を向きかけた体を戻し、彼女に向き直る。
「ミリアでいいよ。友達なんだし」
「じゃあ、私のことも凪でいいですから」
「わかった。今日は本当にありがとう、凪」
ぺこりと頭を下げると、神楽さんが私のほうを向いた。
「じゃ、行きましょうか先生」
その笑顔は相変わらず可愛らしい。けれど。絶対に怒らせないようにしよう。私はそう心に固く誓うと、一緒に前を向いた。
そよ風がうっすら湿った背中を撫で、ちょっとだけゾクリと震えてしまった。
公園に着くとストレッチをし、また軽く走り始めた。若干残っていた筋肉痛は、昨日の努力の証。だから無理せず、最初は息も弾まない程度で走る。
「神楽さんって、なにか武術みたいなのって習ってたの?」
「えへへ、まぁちょっとだけですけどね」
なんだかさっきの一連の流れはちょっとかじっている程度の動きではなかったように素人目でも思えたけど、でもそういうことにしておこう。
「あー、だからこうして走っていても、フォームが綺麗なんだね」
「あ、そうかもしれませんね。やっぱり体を動かすのは健康にいいですから」
確かにそうだ。体力、筋力は何にも勝る。ハリウッド映画を見ていても、思うのだ。もし自分が主人公だったら、序盤も序盤で死んでいるだろうと。アクション映画を観ていると、いつも思う。人間、最後は身体が資本なのだろう、と。
私はヒーローにはなれない。そんな勇気も体力もない。ヒロインだってそう、そんな可愛げもない。だけど、小説がある。私の世界をみんな楽しんでくれて、時に人生が救われたという人もいる。
西野さんだってそうだ。
「はー、もっと体力つけてたくさん書かないとなぁ」
「そうですよ、先生。もっともっと、先生の作品を読みたいです。みんなそう思っているんですよ」
ほんと、やる気にさせてくれる。
少なくとも、私はこの子を楽しませる小説を書きたい。全国には私の小説を買い支えてくれている読者がそれなりにいる、それはよくわかっている。でも、顔が見えない。いるのかどうかすら、たまにわからなくなってしまう。
そんな不安をも、神楽さんは晴らしてくれるのだ。




