第二十二話~ジョギングの帰りに~
「神楽さんって、学生時代は部活なにしてたの?」
走り始めて数分後、無言で走り続けるのもどうかと思った私は神楽さんにそう問いかけた。ポニーテールを揺らしながら、神楽さんが私の方を照れた感じで見てくる。
「えぇと、なにもしてなかったですね」
「あ、そうなんだ。帰宅部かぁ。でも、なんか走り方が様になってるね」
「ほんとですか?」
嬉しそうに笑う神楽さんは腕の角度も直角になっており、背筋を伸ばして綺麗なフォームだ。私も真似しようとするけど、なんか上手くいかないので無理するのはやめた。
何かの本で読んだし、私自身も実体験で感じていることがある。それはどんなに映像を見たり教わったりしても、子供の頃からしっかり矯正されていないとぎこちないということだ。
だから神楽さんが映像で見たように綺麗なフォームで走っているのを見て、帰宅部だったことがにわかには信じられなかった。でも、本人がそういうのならそうなのだろう。もし違う過去があったとしても、それを隠しているのならば言いたくない過去なのかもしれない。
公園を二周する頃にはちょっと息が上がってきた。隣を見れば、神楽さんはまだ平気そう。これは日ごろの運動不足と不摂生がたたっているな。
「先生、そろそろ一旦やめましょうか?」
「そう、だね。うん、初日だし、無理はしないでおこう」
私達は周回コースの内側の芝生に入ると、ぺたりと腰を下ろした。スタート前は五周くらいしてやろうと意気込んでいたのに、なんとも情けない。
「でも、気持ち良いかも」
荒い息を繰り返しながら、やや青臭い芝の匂いと共に新鮮な空気を取り込む。運動してかいた汗は久々だけど、実に清々しい。私は天を仰いで目を閉じ、降り注ぐ陽光をしっかりと受け止める。
「そうですね。こうして軽い運動をすると体もほぐれますよね」
「あぁ、確かにそうかも」
背中にへばりついていたかのような頑固なコリが、幾分かやわらいでいる気がする。血流が良くなったのだろう。私は目を閉じたままゆっくりと首を回すと、ゴリゴリという音がした。
「せ、先生、すごいこってますね」
「職業病みたいなものだからね。でも、そうだなぁ……たまにはこうして体動かすのもいいかも」
そのままごろんと芝生の上に寝転がり、うんと伸びをした。普段の私ならば、誰が歩いているかわからない所に寝転がるのは抵抗がある。
けれど、今はそんなことどうでもよかった。ただこの心地良さに身を任せ、体の望むままにストレッチをしたい。心身が求めていることをする。それがどんなに難しいことなのか、最近ひしひしと感じているから。
隣で神楽さんも寝転がり、同じように伸びをする。目を閉じ、ぷるぷると震えながら体を伸ばしているその顔が可愛らしくて、思わずじっと見てしまった。そうして伸びを終えた神楽さんが私の視線に気付くと、ふっと口元を緩ませる。
「恥ずかしいですから、あまり見ないでくださいよー」
さぁっと風がそよいだ。私はそれに答えず、ただこの素晴らしい天気を全身で楽しんでいた。
行ったら帰らなければならない、それが世の中の道理。
わかっているけど、運動した後で帰宅するのはとても大変なことに改めて気付かされた。
「いやー、足がだるい」
「これも運動ですよ、先生」
もう走る元気は残っていないので、二人並んでゆっくりと歩く。一度止まってしまった足はもうお休みモードに入ってしまったのか、ひどく重たい。何度かやればマシになるんだろうけど、さっそく私は走らない理由を探し始めている。
それでも自宅まであと数百メートルの距離まで近付くと、心も軽くなってきた。
ふと向こう側から金髪ショートの若い子が歩いてくるのに気付いた。引きこもりってわけじゃないけど、未だにタトゥーはおろか金髪もピアスだらけの人も怖い。だから自然と私は歩道の端に寄る。
その表情がわかる距離になった時、金髪の子が目を細めてジロジロと私を見てきた。
うわぁ、なにかしたかな私。特に変な格好はしてないつもりだし、普通に歩いているだけなのになぁ。ここで妙な因縁をつけられ、絡まれたりするんだろうか。
「あの、ちょっといいっすか」
目を伏せ、そのまま通り過ぎようとした時、声をかけられた。私はもう心臓が凍るような思いで驚き、でもなにもできないので立ち止まる。逃げ出そうにも足は動かないし、もしジョギング前だったとしても私の足じゃ大半の人に追いつかれるだろう。
「え……あの、なんでしょう?」
なるべく気丈に答えようとしたけど、声が震えてしまった。だって目の前の彼女、目つきも悪いしいかにも悪そうな感じがしているから。横目で神楽さんを見れば、何でもなさそうな顔をして立っている。怖くないのか、それとも演技なのかはわからない。
「もしかして、小説家の夢野桔梗ですか?」
覗き込んでくる顔がもう怖い。私は膝を震わせながら、一瞬の間にどう答えるべきか考えた。違うと言ってバレた時は怖い。でもそうですと言ってなにか始まるのも怖い。あぁ、おまわりさん通りがかってくれないかなぁ。
「はい、そうですけど」
結局あれこれ考えた結果、正直に白状することにした。
「やっぱりそうだったんだ」
この人、声も低いから怖い。そして、やっぱりってなに?
「先生、私大ファンなんです。先生のおかげで、真っ当な人生を歩き出せたんです」
突然、勢いよく頭を下げてそう言われた私はどんな顔をすればいいのかわからなかった。ただ、大ファンと言ってくれているので、多分危害は加えられないだろう。
「え、あ……そう、なんですね」
「はい、突然驚かせてすみませんでした。ただ、雑誌で見た顔だと思って、つい」
顔を上げ、直立不動でそう話す彼女は相変わらず怖いけど、でもどこか目をキラキラさせていたのでそれも和らいだ。
「あぁ、そうなんですね。あの、読んでいただき、ありがとうございます」
「いえ、礼を言うのは私です。私、こんなナリのとおり、ちょっと前までワルだったんです。でも偶然、夢野先生の作品読んで、感動して。そっから私もマシな人間になろうって思ったんです」
一体私の作品の何を見てそうなったのか興味が湧いたけど、こんな路上で話し込むようなことじゃない。それに、私は疲れている。
「そうなんだ。私が書いたものでそんなに影響を与えられたのなら、作家冥利に尽きるよ」
「ありがとうございます。あの、私、西野ミリアと言います。この辺に住んでますので、もしまた会えたら挨拶させてください」
「ありがとう。読者からそう言われると、励みになるよ」
そう言って別れようとした時、彼女が神楽さんを睨んでいるように見えた。神楽さんは知ってか知らずか、表情を崩さない。余計なことは言わないでおこう。そう心に決め、お互いすれ違った。
自宅のマンションのエントランスに着くと、ロックを解除する。そうしてエレベーターに乗り込むと、私はやっと一息つけたように感じられた。
「あー、ビックリした。あんなふうに声かけられること、一度もなかったからさ」
「なんか、勢いすごかったですよね」
「だね。しかし、あんな怖そうで言っちゃなんだけど本読まなさそうな人が、どうして私の作品を読んだんだろう。そこはちょっと気になったなぁ」
「先生の作品はどんな層にでも届くんですよ。それだけ素晴らしい作品を書いているんですから」
しかし、あんな悪そうな人を更生させたのはどの作品なのか気になる。どの作品のどんなところでそう思ったのか、それを知りたいのは作家の本能かもしれない。だって誰かを楽しませようと思って書いているけど、誰かの人生を変えようとは思って書いていないから。
まぁ、それだけ私も成長したんだろう。
無理矢理そう納得したところで、エレベーターが目的の階に着いた。




