第十五話~神楽さんのカルボナーラ~
日付が変わるまで執筆し、その後一時間を晩酌にあてる。翌朝は気ままに起きて、二日酔いなら食べずにインスタントの味噌汁のみで済ませるか、水しか飲まない。食欲があればカップ麺を食べる。
これが私の日常、だった。だから神楽さんが来て、徐々に変わりつつある。
「おはようございます、先生。昨日もすごく頑張ったんですね」
そう言って目玉焼き、味付けめかぶ、イカの塩辛に味噌汁。デザートにヨーグルトを出してくれた。もちろんどれも私の好きなものだし、不満はない。目玉焼きだって事前に伝えているから、私好みの完熟を少し緩くした感じ。
ただ……。
「おはよう。あのさ、非常に言いにくいんだけど……一ついいかな」
その瞬間、神楽さんの顔が引き締まった。笑顔はすぐに消え失せ、背筋が伸びる。
「はい、なんでしょうか?」
「まず前提で、朝ご飯はすっごい美味しい。栄養のバランスだって考えられているんだろうね。要望も完璧にこなしてくれている。それは本当にありがたいの」
神楽さんの表情が変わらない。その後の言葉に備えているのだろう。私だってここで終えたい。でも、これはこれから長く健全な関係を築くために必要な会話。一方的な我慢は不信につながり、苛立ちへと形を変え、やがて憎悪となる。
それを避けたいがための提案。
「ただね……週に一度か二度でいいから、朝にカップ麺を食べたいの」
「……え? あぁ、はい、かまいませんけど」
ハムレットの生きるか死ぬか、それが問題だ。ではないけれど、そのくらい真剣に伝えた言葉は神楽さんにとって肩透かしだったようで、どう伝えればいいのかとぽかんとした顔で曖昧にうなずいた。
「神楽さんのご飯が美味しくないわけじゃないの。ただ、これまでずっと食べていたものを食べていないからか、妙に恋しくて。でも、それを食べたいって言ったら神楽さんを否定するかのようで、なかなか言い出せなくて」
するとふっと神楽さんが柔らかに笑った。
「いいんですよ、それで。それまでの日常を求めるのは正常ですし、別に私の作るご飯が先生の正解じゃないってのは理解していますから。あの、お好きな銘柄とか言ってもらえたら買ってきますよ」
なんだこの子、神様なんじゃないだろうか。
「……いいの?」
「はい。だって美味しいですよね、カップ麺。私も好きですよ」
なんだかもう、泣いてしまってもいいのかなと思った。だってカップ麺だって味覚のすごい人達が長い年月かけて味の調整をし、究極の一杯として完成させているのだ。でも、カップ麺はカップ麺。神楽さんのように料理が作れる人ならば忌避してもおかしくないと思っていた。
「あー……じゃあさ、明日買い物に行こう。そしてお互いに好きなのを買おう」
「そうですね、そうしましょう」
嬉しそうに笑う神楽さんに私はもう嬉しくなり、小鉢に幾らも残っていない味付けめかぶをかき集めた。
食後、少し胃を休めてから執筆を始める。後ろでは洗い物を終えた神楽さんが掃除機をかけていた。
初日にいつ掃除機をかけていいのかと訊かれ、起きている間なら日中いつでもいいよとは伝えてある。やはり他の家事に比べ、大きな音が出るのを気にしていたのだろう。
しかし神楽さんも仕事がある。そりゃあ気にならないと言えば嘘にはなるけど、どうせ二十分程度で終わるのだから、ちょっと我慢すればいいだけ。それにやっぱり、床に埃や髪の毛が落ちていない様子を見れば、いつだって安心を覚える。
「先生、お昼は何か食べたいものありますか?」
「んー……カルボナーラ食べたいな」
掃除の合間、こういうやり取りも増えてきた。私も神楽さんにだいぶ慣れてきたのか、結構砕けた感じで話せるようになってきたかもしれない。それはきっと、神楽さんがいつも機嫌良さそうにしてくれているからだろう。
「わかりました。じゃあ、買い出しの時に材料揃えますね」
「ちなみに訊くけど、どのくらい本格的なの?」
神楽さんは掃除機を手にしたまま、左手の人差し指で頬を撫でながら私のほうを見る。どこか気まずそうな表情で。
「いやぁ、そこまで本格的なのは。グアンチャーレはすぐ手に入らないですし、パンチェッタ作るには時間が足りないですから。ペコリーノ・ロマーノもこの辺じゃ手に入らないですから」
「待って、なにそれ? パンチェッタはなんか聞いたことあるけど、あとは知らない」
さすが料理で派遣されていただけあって、うかつに本格的とか訊いちゃダメなのかもしれない。奥が深すぎる。
「ですから、いわゆる日本式で作ります。生クリームにニンニクと卵黄を入れ、お肉もベーコンで。多分、食べたことのある感じにはなると思いますけど」
「いやいや、それで十分」
「わかりました。でも、もし要望があれば本格的なのをいつか作りますよ。お時間少しいただくかもしれませんけど」
不敵に笑う神楽さんに、私はちょっと怖いものを感じた。矜持、なのだろうか。こんな可愛い顔をしているのに、きっと胸の奥には熱い魂があるのだろう。
いつか、お願いしてみようかな。火、点けちゃったし。
それからしばらくお互いの仕事を進めていると、私のスマホから着信音が鳴った。毎度そうだけど、着信音が響くとビクッと肩を震わせてしまう。私は画面へと目を向けると、そこには『桐山 瑞希』の文字が見えた。
「もしもし」
「もしもし。おはようございます、先生。起きていましたか?」
時計に目を遣ると、時刻は十時十五分を指していた。
「もちろん起きてるし、何ならもう仕事してるよ」
「えぇー、本当ですか? 素晴らしい。私も早くチェックして、返信しないと」
「ほんとだよ。バリバリ書かなきゃいけないんだから」
神楽さんが来る前はお昼にメールチェックして修正作業をし、それから先に進めていた。けれどもう最近は先に書いてしまっている。
「ところで、どうかしたの?」
「あぁ、そうでした。いや先生、神楽さんとうまくやってるのかなぁって心配してるわけですよ」
「そりゃあもう、当然。素晴らしいよ、この生活は」
「それならよかった。あ、そうそう、もう先生の家に着くのでそろそろ切りますね」
「え?」
通話が一方的に切られると、すぐにインターホンが鳴った。立ち上がってモニターを見に行けば、こちらに向かって瑞希が笑顔で手を振っている。私は苦笑いしながら、ロックを解除してあげた。




