56:咲耶の過去編:8
挿絵画像はチャットGPTによるAI生成画像です。
安倍晴明は陰陽寮を離れるとともに、永遠の絶望と贖罪だけで生きるというのだから、それはそれで美しいと赤髪の少年は思う。
そして、赤髪の少年は悲しげに一冊の本を見上げた。
「——じゃが、困ったことに、ここでは術式を一切使えんようにされておるがゆえに……わしの手が届かんところは読めておらぬ」
「いや……普通に、踏み台を持って来たらいいんじゃないのか?」
「持ち込みも厳禁じゃそうな」
火気厳禁、手荷物厳禁、全部ダメじゃ……と赤髪の少年がしょんぼりと肩を落として言うが、咲耶からしてみれば、ただ安倍晴明が厳しいのか、この赤髪の少年が警戒されているのか、どちらなのか分からない。
「……それは、難しいな」
咲耶はやや引き気味に答えた。
「わしは真言で術式の権限は奪えるが、安倍晴明の創り出した術式まで細かく解けぬ。 じゃから、ここの決まりに従わねばならぬのじゃ、悲しいことじゃが……」
そう言って、本棚に向かってぴょんぴょんと跳ねる赤髪の少年は、「ふむ、無理じゃな、届かぬ」と諦めたように咲耶に五芒星の視線を向ける。
「そこな本棚の一番上に、『黄昏時の鬼』という記録書がある。 其方ならば、それを手に取れるかの?」
赤髪の少年が示す記録書に咲耶が手を伸ばして、赤髪の少年に確認する。
「……これか?」
「うむ。それじゃ。 安倍晴明に開封するなと言われておった記録書じゃが……まぁ、神子の其方であれば良かろうて」
赤髪の少年は軽くそう言って頷いた。
幾千、幾万と積み重ねられた禁書。それを隠すために存在する、この亜空間。
その中でも開封を禁じられた記録書を、赤髪の少年はあまりにもあっさり咲耶へ渡した。
子供の姿だといってもこの赤髪の少年も術師だ。己の利益のために咲耶を騙している可能性もある。
「……そんな重要な禁書を、本当に大丈夫なのか?」
ジッと咲耶が赤髪の少年へ疑いの眼差しを向けた。
しかし、少年は自信があるのか、動じることなくコクリと頷いてみせる。
「うむ。 案ずるでない。あの男の術式は滅多に人を殺さぬ、開いてみよ」
そして、咲耶の手にある『黄昏時の鬼』の記録書を指差すと、赤髪の少年の指先から浮かび上がった『解』の文字が書に溶け込んだ。
すると——著者、安倍晴明『黄昏時の鬼』と記された書の紐がするりと解けた。
「黄昏時の鬼……?」
改めて、声に出して読むと不穏な感じがする……そう思いながら、咲耶は恐る恐る書の頁を捲った。
「そうじゃ、それは……確か——黄昏時に影踏鬼で戯れている最中、神隠しに遭った子供達が……呪いとなっておった」
赤髪の少年が書の内容を口にする。
流麗な字で綴られた記録には、黄昏時の鬼と呼ばれる怪談話となるまでの経緯が事細かく丁寧に書き記されていた。
「人々を影へ招き、広がり続けるその呪いを一つの怪異として、陰陽寮は創り直したのじゃ。それが都で黄昏時の鬼と呼ばれておる怪談話じゃの」
「……陰陽寮は怪異も創るのかよ。 本当にロクでもないな」
嫌悪感を隠すことのない咲耶の言葉に赤髪の少年は面食らったかのように、キョトンと大きく五芒星の両眼を瞬くと朗らかに笑った。
「ほっほっほっ……まぁ、そういうでない。 呪いを解くのではなく——呪いを生かした結果じゃ。わしはこれを否定せん」
そう言い終えると、白い鶴の羽織を翻した赤髪の少年はゆっくりと歩き出す。
「それに、神々が地上から去ったこの世界で、其方を在るべき場所に帰す方法も、また——その神隠しであろうな」
陽気な口調で言いながら、ヒラヒラと手を振って来た道を一人戻って行く、その背中に咲耶は思わず問いかけた。
「……おいっ、お前……一体、なんなんだよ」
「わしか? この陰陽寮に住んでおる、術師の一人じゃが……はて、何かおかしいかの?」
赤髪の少年は一度立ち止まると悩む素振りを見せた。
「いや、……そうじゃなくて、お前は俺にどうしてこれを? 陰陽寮の術師なら神子の俺を利用したいんじゃないのか?」
咲耶のまっすぐ向けられた視線と言葉に、赤髪の少年は咲耶を振り返る。
「確かに、一理あるが……わしは其方が治療をしてくれた恩を返したにすぎぬ——」
そう穏やかに答えた。
赤髪の少年は「それに……」と、その場で白い鶴の羽織りを見せびらかすように、くるくると回転する。
「鶴も恩返しをするのじゃ! わしもそれに習って助けられたら恩を返すと決めておるのじゃよ、ほっほっほっ」
「そ……そうか」
——な、謎すぎる。
咲耶は理解不能な赤髪の少年の思考に顔を引き攣らせた。
しかし、この赤髪の少年が己の中に決めた何かに従って咲耶をこの書庫へ導いたのだと、その部分は理解できた。
いまだに、楽しげにくるくると回り続けている赤髪の少年に咲耶は言葉を投げかける。
「お前の名前は?」
赤髪の少年は一度立ち止まると、しばらく宙を眺めた。
まるで自分の名前を思い出すかのように、赤髪の少年はゆっくりとその唇を開いた。
「確か、陰陽寮では、菅原道真。そう呼ばれておるの」
「……ありがとう、道真」
咲耶がお礼を言うと菅原道真は朗らかに笑んで、ひらりと袖を振る。
「ふむ、構わん。 わしにとっては、神も人も、全て些細なことじゃ……では、おさらばじゃ——木花咲弥姫命の神子よ」
そう言って振り返ることなく菅原道真は歩き出した。
鶴の模様の羽織を揺らしながら陽気な足取りで去って行く菅原道真と、咲耶は何となくこれ以降は会うことがない気がして、姿が見えなくなるまで、その背中を見送った。
「——神隠しなら、俺もこの世界から消えられる」
咲耶は黄昏時の鬼の記録書に視線を落として呟いた。
(……だけど、この都から一番近い神社となると、どこなんだ?)
神秘の加護が薄れ、神への信仰を失くした日の本で現存している神社は数少ない。
その数少ない神社すら陰陽寮が管理している上に、神々よりも身近で、人智を超えた術を扱うことのできる陰陽寮の方が信用されているのだから、世も末だと咲耶は思う。
(……都の東西南北にいくつか陰陽寮が管理している神社があったはずだけど、監視の目を振り切って、神社に辿り着くことができても、目的地に術師が居たら確実に捕まるよな……)
当然のことながら都が陰陽寮の支配下であることは、神子である咲耶にとって不利な状況だった。
せっかく、黄昏時の鬼を渡されたものの前途多難な状況に思わずため息を吐いた時だった。
「……ん? なんだ、この地図?」
黄昏時の鬼の記録書の最後の頁に、小さな地図が挟まっていた。
それに触れた瞬間——光が弾けると、その声は咲耶の頭の中で響いた。
『……何故、これを読んだ。何故、この地図を手にする?』
穏やかな口調で問いかけるとともに、咲耶を調べるかのように術式が咲耶の周囲で広がって回転する。
「……俺は、もう誰も……苦しめたくないんだよ」
咲耶の周りで回転する術式を見ながら、ポツリと口から零れた言葉だった。
術式が肌の上を這う感覚よりも、行き詰まった現状への焦りの方が勝っていたのだ。
「誰かを苦しめて化け物にするくらいなら……もうこの世界から消え去りたい」
「そうか」
その声はやけに近くに感じた。
地図からではない。それは、まるで黄昏時の鬼の書の向こうに誰かがいるかのようだった。
「その資格を持つ者であれば、神隠しに場所を問うことはあらへん。 都に残る神の社、その鳥居の下で行うとえぇ」
その言葉が発せられたあとに、地図が勝手に開かれる。
「木花咲弥姫命の神子であれば、植物の多い、この神社あたりに行ったら木々がお前さんを術師から隠してくれるやろうな……」
そう訛りのある穏やかな声で咲耶に言うと、開かれた地図が陰陽寮から神社への道順を光で示す。
(……なんで、術師はすぐに俺のことが神子って分かるんだよ)
そんなに神子は分かりやすい何かがあるのだろうか。
黄昏時の鬼に挟まれていた地図の術式も咲耶を解析し終えて、咲耶の答えを受け入れたようだった。
——というと、この術式の術師は。ハッと咲耶が声の主の正体に気付いた。
(……ってか、この本の向こうって、まさか、安倍晴明なのか?)
しかし、安倍晴明らしき人物は会話をするというよりは必要な要件だけを淡々と伝えてくる。
「神社への地図と神隠しの手順は描いてはるさかい、それを見てやったらえぇ」
一度言葉を区切ると、まるで警告するように静かに続けた。
「やけど、お前さんがそれで、神に会えるかは運次第になる。 最悪、長い時の中で、お前さん自身が怪異と成り果てる可能性もある……」
神隠しに遭ったから救われるとは限らないと、咲耶に危険に飛び込む覚悟はあるのかと、その現実を突き付ける。
「それでもやるなら、俺は止める気はあらへん」
本の向こうの安倍晴明らしき人物は事実を伝え、咲耶に選択を委ねているようだった。
咲耶は苦々しく眉根を寄せて言った。
「……やる。もう、それしか方法がないんだよ」
怪異となる危険を考慮した上で、それでも行くのだと、濡れた若葉色の瞳で黄昏時の鬼の書を見つめる。
「そうか」
たったそれだけの短い返事のあと、安倍晴明らしき人物は静かに咲耶の行き先を導くように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「——なら、その足で行きなはれ。 此岸と彼岸の境界にな」
黄昏時に、階段の十三段目から影踏み鬼を始める。
自身の影を踏みながら、また十三歩降りて行く。
降りた先で神社の鳥居をくぐる。
——此岸と彼岸の境界。
そこは、浅間山の山頂と酷似しているという。
そして、その山頂には神と人の永遠に消えることのない縁の社が太古から存在しているのだと安倍晴明らしき人物は語った。
語り終えると役目を終えたとばかりに、黄昏時の鬼の書も地図からも光が消えてしまう。それ以降、書の中から声は聞こえなくなる。
「……なぁ、俺が行くと言ったら、もう一度、陰陽寮から神社への道順を教えてくれるか?」
そう言いながら咲耶は書庫にある本で覆われた窓の外を見やった。
僅かに差し込む太陽の光、きっと今からなら黄昏時には間に合うと——。
そして、視線を戻すと咲耶の手の中で地図が導くように光を放っていた。
ただ地図が陰陽寮から神社への道順を教えてくれているだけだとしても咲耶にとっては絶望からの出口に思えた。
「……ありがとう、これで、もう迷わないな」
黄昏時を迎える数刻前に、咲耶は決死の覚悟で陰陽寮を抜け出した。
陰陽寮の裏口から出た時点からリィィィン、リィィィンと警告の鈴が鳴り響く。
咲耶は出来る限り木々が多い場所を通って、植物に身を隠しながら必死に走って逃げていた……はずだった。
「おやおやぁ、だめですよぉ〜」
背後からよく知った声がした。
ぱんぱんと乾いた拍手とともに、突如、咲耶の体が重くなり指先一つ動かなくなる。
「……雪……村っ」
視線さえ上げることも出来ないまま雪村の足音だけが近づいてくるのを感じて咲耶は唇を噛み締める。
「もうすぐ、夕餉の時間だというのに、どこへ行くんですか? と聞きたいところですが……」
雪村が咲耶の頭の前で立ち止まるとしゃがみ込んで、乱暴に桜色の髪を掴み上げた。
「こうして、勝手に陰陽寮の外に出ていては、聞くまでもないって感じですよねぇ」
「……っ」
「あははっ! 神子殿は悪い子ですねぇ」
犬面の奥から聞こえる雪村の声は明るく笑っているが、本当は表情がまったく変わらないことを咲耶は知っている。
東寺から渡された術師の名簿に記されていた経歴を思い出す。
『雪村一鬼又は十鬼。双子のどちらか。その身に怪異を宿す特異体質の一族であるが故に、代々から怪異を受け継ぐ儀の際に集められた一族の子供達の中で生き残れたのが、今の雪村であり……幼少期の過酷な環境から表情が奪われて、感情や思考が歪んだのも後遺症であり、性格は残虐的であるため、その扱いに注意するべし』
その記録を思い出して、咲耶の背中にゾクリと冷たいものが這った。
「兄者は神子殿を生きて連れて帰れと言うでしょうけど、正直言って、生きてさえいれば良いという意味でもあると思ってるんですよねぇ……俺は——」
そう言って雪村が咲耶の足首を草履で踏んだ。
雪村の踏み込みは人間の少年とは思えないほど重く、咲耶の足首から……ゴキンッと嫌な音が鳴った瞬間、灼熱の激痛が走った。
鶴の恩返し系術師の道真公でした。




