40: それは、まるで生命の楽園
「ごめんな、蓮。 いつもボクを庇ってくれて……」
蛍は立ち上がると、申し訳なさそうに眉を下げて、蓮にそっと手を差し出して言った。
「ううん。蛍は悪くないから、気にしないで」
蓮はそう言って柔らかく微笑むと蛍の手を取って立ち上がる。
そして、まっすぐに顔を上げると、蛍の翡翠の瞳に花吹雪が映り込んだ。
そう、ここは——万年桜が一際大きく聳える桜花の街の中心部。
それを模した仮説世界なんだろう。
しかし、その巨大な桜はなんと見事なことだろうか。
「……わぁ、これは見事な桜だな……」
蛍は万年桜を見上げると思わず声を漏らした。
街の中央に聳える万年桜は、まるで空そのものを支える柱だった。
幾重にも広がる枝は天蓋のように空を覆い、ゆったりと風に揺れている。
その先端から零れ落ちる無数の桜の花弁が風に乗って花吹雪となり周囲に舞い続けているのだ。
「桜というには規模がもう……木の域を超えてる気もするけどね」
蓮が蛍の隣で同じように万年桜を見上げて、木漏れ日に蒼い目を細める。
見上げれば桜の花々の隙間から柔らかな陽光が差し込み、周囲一帯を優しい桜色に染め上げていた。
そして、万年桜から少し離れた場所には木造の家々が見える。
それは花と蔦に彩られ、春を彷彿とさせる街並みだった。
何処からか流れている川には澄んだ水が流れ、そのせせらぎに合わせるように鳥達が囀っていた。
石畳の道の脇には色鮮やかな花々が咲き誇り、緑と桜の木々は青葉と花弁を揺らし、風は穏やかに吹き抜ける。
それは、まるで生命の楽園だった。
「……綺麗な街だな」
眺めた桜花の国の街並みがどこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ここにいるだけで、生きていることを祝福されているような気持ちになる場所だった。
「蛍……。 蛍が桜花の国を見たいなら、この問題が片付いたら今度は本当に、現実で僕と一緒に桜花の街を歩こう?」
「うん! そうだな。まずはこの問題を片付けないとだな」
そう言って蛍は再び目の前に聳える万年桜に視線を戻して言った。
『——仮説世界では、敵は本当の実力を持っています』
そこへ何処からともなく月夜見の声が響いた。
『ですが、ここで死んだとしても、現実世界には影響ありませんのでご心配なく。 ……ここは、ただの仮説であり、その仮定の一つに過ぎません』
「つまり、この仮説世界でボクのイザナギの権能を使って、邇邇芸命と木花咲弥姫命が封印から解放されるかってことなんだよな……?」
そんな疑問混じりの蛍の言葉を肯定するように月夜見の声音が柔らかくなる。
『えぇ、そうです。 まず蛍さんの生命の権能で2柱の封印を解除して起こすのです』
「そうか……。分かった」
蛍はゆっくりと右手を胸元へ当てる。
自分の中に戻っていた天秤の槍を外へ取り出すために。
すると淡い光が胸の奥から溢れ出し、粒子となって集束していく。
白銀の光はやがて一振りの槍となり、その手の中へ収まった。
天秤を象った白銀の穂先が静かに輝く。
「……よし、天秤の槍を出せたぞ」
蛍はその天秤の槍の柄を両手で握り直した。
その様子を見届けて月夜見は言葉を淡々と続ける。
『良い調子ですね。 そして、目覚めた邇邇芸命の時間停止はイザナギの生命の権能で打ち消してください』
「……えっ、それは、どうやってやるんだ?」
しかし、それに蛍が天秤の槍をギュッと握ったまま固まってしまった。
(……イザナギの生命の権能で邇邇芸命の時間停止を打ち消すと言われても、イザナギの権能をどうやって使うかもわからないのに)
蛍が不安げに月夜見の声が響く空を見上げていると、おそらく、蛍がイザナギの権能を受け入れて間もないことを失念していたのだろう。
月夜見は、少し間をおいて、ゆっくりと口を開いた。
『では、蛍さん……。 まず神力を天秤の槍へ流してください。 イザナギの生命の権能は、その神力に宿っています』
「し、神力を流す……天秤の槍に」
神力を込めようとするが、槍はうんともすんとも言わない。
そもそも蛍には、神力を流すという感覚自体が分からなかった。
体内に血の如く巡っている神力の存在は感覚的に理解している蛍だったが、それを天秤の槍に流して。と言われると話しは変わってくる。
(……待ってくれ! 本当に、神力を流すってどうするんだ!?)
やや混乱気味の蛍に、月夜見は追い討ちをかけるように言葉を続けた。
『そして、そのまま体外に神気をまとうんです。それをずっと持続させ続けてください』
「さぁ蛍ちゃんっ! 貴女のイザナギの権能をドッカーンと、あの桜にぶつけてちょうだいな!」
「えっと………うぅ」
当たり前のように淡々と言う月夜見と、「ちゃっちゃと終わらせちゃいましょー!」とまさか出来ないなど疑っていない様子のタケルに蛍は申し訳ない気持ちになってくる。
蛍は翡翠の瞳をキョロキョロと視線を彷徨わせながら、おずおずと口を開く。
「その、月夜見とタケルの言ってることは分かるんだが、あの……神気とか神力とか。 それは……一体どうやってやればいいんだ?」
「——そ、そうだったわね!」
タケルがカビーンとショックを受ける。
ここのところ新しい神など生まれていないせいか、権能の使い方を教える機会など数百——いや、数千年単位でなかった。
月夜見とは別の方向ですっかり忘れていたタケルはバツが悪そうに形のいい眉をハの字に寄せた。
「ごめんなさいね、蛍ちゃん。 貴女はこの間、イザナギの権能を受け入れたばかりだったのに急に無理なこと言ってしまったわね」
タケルは屈んで蛍と視線を合わせると片目を瞑って女性的に笑んだ。
「アタシで良かったら、手とり足とり骨の髄までレクチャーするわ」
「——ちょ……骨の髄まで!? ダメだよ!?」
蓮はタケルの言い方に警戒しているのか猫のように威嚇している。
その隣で蛍はふわりと笑ってタケルを見やった。
「タケル、ありがとう」
「……えっ、蛍っ! 納得しちゃうの!?」
「うふふふっ、素直で可愛いわぁ、もー食べちゃいたい!」
タケルがギュッと蛍を抱きしめる。
そのまま「た、タケル……」と困り顔の蛍の頬にスリスリと頬擦りをしているタケルを捕まえて——ベリッ!と勢いよく引き離す蓮。
「もうっ! タケル近いっ! 離れてよ!」
その顔は笑顔だったが、額の青筋と苛立ちはもはや隠しきれていない。
「あらあら、蓮ちゃんも一緒にやるのね。 いいわよぉ、うふふっ……」
「やるけども! 蛍に必要以上に触らないでくれる!?」
タケルを蛍から引き離すと蛍を隠すように、蓮は蛍を抱きしめる。
蓮が大の大人の男であれば蛍をその腕の中に隠せるのであろうが、蓮の身体が子供であるがゆえに、蛍を隠し切ることは叶わない。
「うふふふ……あらあら、蛍ちゃんを、隠しちゃうの? ふふふふっ」
「タケルが、蛍にすぐ触るから」
眉を吊り上げてタケルを牽制する蓮を蛍がきょとんと見上げて言った。
「蓮、ボクは気にしていないぞ……?」
「僕がやだよ! やだやだやだ! やだー!」
「わ、分かった……お願いだから、耳元で駄々っ子にならないでくれ」
キーンと鼓膜に音が響いて蛍は蓮の腕の中で頭がふわふわしていた。
しかし、蓮が何が嫌なのかはサッパリ分からない。
そんな、必死な蓮の姿と純粋な蛍の姿がことさら可愛く思えて、タケルは蓮と蛍をまとめて、ぎゅむっ!と勢いよく抱き締めた。
「もぅ2柱とも可愛いわぁ! 蓮ちゃん! 蛍ちゃん!」
「いやぁぁぁ!! 助けて蛍……っ!!」
背後から蛍ごと抱き締められた蓮だったが、タケルの体温を真正面から受けているのは蓮である。必死に腕の中の蛍へ助けを求める。
だが、その蛍はというと——。
「く、くるじ……ぢょ……離し……」
タケルと蓮に抱き締められて圧死しそうな蛍が一番助けて欲しかったのは言うまでもない。
顔面が青くなって、酸欠に口をぱくぱくさせている蛍は意識を失う三秒前である。
(……あ、青と金の蝶々さんが飛んでるなぁ……)
蛍の手に持っている天秤の槍は蛍と一緒に、ガタガタと震えていた。
怪力×怪力なので蛍はよく生きてますね。




