34:蛍と晴明の境界線
「……ぁ」
そのどこか寂しげな背後に、蛍は昼間の安倍晴明の言葉を思い出した。
「蛍——この子は、俺が昔失った式神の残滓を核にして、人工神として創り上げた」
「……俺が昔、俺の過失でなくしてしもうてな。
それ以来、ずっと創ってきてはった、それが俺が高天原にきた理由でもある」
その言葉の数々を思い出しながら蛍は、おずおずと口を開く。
「晴明……ボク、聞きたいことがあるんだ」
安倍晴明に深く踏み込むのは怖い。
そう思いながらも、蛍は知りたかった。
(もしかしたら、また晴明を怒らせてしまうかも知れない……。最悪、本当に嫌われてしまうかも知れない……)
それでも今、ここにいる自分と安倍晴明に繋がる、何かが昔、そこにはあったのかも知れない。
蛍の言葉に、ピタリと足を止める安倍晴明だったが、振り返ってはくれない。
「……なんや、聞きたいことって」
蛍に背を向けたまま、蛍の言葉を待ってくれる。
「……ボクは……晴明の式神だった?」
「そうやな」
ただ一言で肯定する。
その温度を感じさせない答えに尚更、蛍の身体が震えた。
「ボクが式神だったのに、どうして、晴明は……」
だったら何故?と蛍の声が震える。
また怒ったらどうしよう、嫌われたくない、拒絶されたくない。
そればかりが頭に浮かびながら、やはり、踏み込んでしまうのだ。
安倍晴明を怒らせてしまう、その質問に。
「……自分が主じゃない……って、言う……」
言うんだ。と恐れが上回って蛍の発した声が消え行ってしまう。
「昼間、言うたはずや」
そう淡々とした安倍晴明の声が聞こえて、蛍は首飾りをぎゅっと握りしめて思わず目を瞑って、言葉の続きを待った。
(……あぁ、また、ボクは晴明を怒らせてしまう)
ポン……ッと、そんな蛍の頭に何かが乗った。
「それが、俺の過失でなくしたものやと……」
それは静かに、けれど優しく穏やかに紡がれた声。
「……ぇ?」
ゆっくりと顔を上げると、安倍晴明は蛍の前にいた。
蛍の頭に乗っているのは撫でるでもなく、ただ、そっと置かれた安倍晴明の手のひらだった。
「それ以上は、今のお前さんに教えることはできひん」
いつも通りの静かな安倍晴明の表情は、ただ蛍を見ていた。
それ以上は、踏み込むなと言っているのだ。
(それが、晴明の境界線。昔、ボクのことを式神としたのに、今は主じゃないって言う理由が、そこにあるんだ)
安倍晴明の抱える過去を、その理由を蛍は全部知りたいと思った。
そして安倍晴明自身が自分を多くを語ることがないからこそ、蛍は自ら踏み込んでいくしか、それを知る方法はない。
……ただし、それが出来るのは今ではないのだ。
(今のボクの存在意義は晴明のため。それを晴明は認めない。 ……きっと、まだ教えてもらえない)
——蛍の存在意義は晴明だけじゃないって思える様になるまで、一緒に頑張ろうっ!。
そんな蓮の言葉を思い出して、ここにいる訳ではない蓮に蛍は小さく頷いた。
(……ボクはボクの存在意義を見つけなくちゃ、晴明は、きっと踏み込ませてくれない)
蛍はどこまでも透き通る淡く光る翡翠の瞳を安倍晴明に向けて凛とした表情で言った。
「分かった。 ……いまは、晴明に何も聞かない」
もちろん本当は知りたかった。
蛍の一番は安倍晴明にあるのだから。
だけど、頭の上に優しく乗せられた手が離れてしまうくらいなら、蛍はそれ以上踏み込まない。今は。
「だけど、いつか……晴明は今のボクに、式神だったボクの話をしてくれる?」
「そうやな。 いつかお前さんも知ることがあるかもな」
「……話してくれるとは、言わないんだな」
「せやな、気が向いたらな」
スッと安倍晴明の手が離れていく、蛍はその手を両手で掴んで引き留めた。
「それは絶対、教えてくれない気がする!」
驚いたように目を見開いて安倍晴明の肩が揺れる。まさか、蛍に勢いよく手を掴まれると思っていなかったのだろう。
「……おっ、お前さん。 ちょっと蓮に似てきてへんか?」
珍しく安倍晴明が動揺を隠しきれないのか眉間の皺さえ今はなく、ただ困ったような顔で蛍を見下ろしていた。
「それは分からないけど、蓮がっ」
ギュッと蛍はさらに力強く、安倍晴明の手を包んで言った。
「——拗らせた系の大人には、どんどん子供らしくぶつかっていけば良いって言ってたから!」
「………………」
しばらく、安倍晴明の思考が止まる。
どれほどの叡智を持ってしても、言葉が見つからない。
目の前にいる、愛らしい小さな手を、今、この場で、冷たく突き放すことが出来ない。
いや、しかしだ。そもそも、こうなった原因が蓮にある。
かなり長い沈黙のあと、安倍晴明は深い溜息を吐いた。
「………………はぁ。全く、余計なことを言いはったな」
安倍晴明から低く紡がれたそれは僅かに怒りを滲ませつつも、諦めにも近かった。
そんな安倍晴明を見上げて蛍は、矢継ぎ早に言い募る。
「ボクは、晴明とちゃんと話せるようになりたい! 晴明のいう保護者の範囲でいいから! 晴明が話せることをお話ししたいっ!」
「分かった、分かった……分かったから。蛍……頼む、もう堪忍してや」
空いた片手で安倍晴明は、ぽんぽんと蛍の肩を叩いて、頼むから落ち着いてくれと、困り顔で懇願する。
安倍晴明にとって蛍は、何よりも大切な子だ。
「お前さんはこれから、イザナギとしてやることが山積みなのや。やから……俺のことばかり考えんと」
だからこそ、蛍のまっすぐで善良、そしてその身を捧ぐ献身的なところは愛おしいと思う反面、恐ろしくもあった。
「……もっと蛍は、自分のことを考えなはれ」
そして、その献身が蛍自身を"地獄"に落としてしまうことも安倍晴明は既に知っている。
(俺はもう、お前さんの手を取って一緒に歩けへんが、その幸福を見届けることならできる……)
安倍晴明が、蛍の柔らかな黒髪を優しく撫でる。
「……晴明」
蛍は上目遣いに、そんな安倍晴明を見つめた。
「えぇな? 蛍自身の話なら聞くのは構わへん。 俺に話すなら、お前さんが困ってはることや、これからどうしたらいいか、そう言う話や」
「うん! えへへ……嬉しいありがとう、晴明」
蛍は笑みを浮かべたまま、頭の上に乗せられた安倍晴明の手を取ると、すりすりと頬擦りをして甘える。
安倍晴明の踏み込める範囲がどうやら理解出来たのか、蛍はまるで犬のように素直だった——いや、思えば元からその片鱗はあった。
「……ほんに困った子やな、お前さんは」
そう呆れたように亜麻色の髪を掻いて、しかし、穏やかに微笑んだ。
蛍はやっと距離感を把握できました。良かったね。




