31:湖の中の正義の天秤
その空間は、青空を映した水面の上だった。
どこまでも続く浅い湖のように、静かな水面が広がっている。
風に揺れることもなく、ただ穏やかに空を反射していた。
「……よっ、と」
ぽちゃん——と、水音が響く。
蓮が蛍を抱き抱えて、上手く着地すると、水面に小さな波紋が広がった。
見た目よりも浅いらしく、水位は足首ほどしかない。
そっと蛍は水面に降ろされる。
「ここが、正義の天秤の間なのか?」
辺り一面が水面なことに戸惑いながら、蛍はきょろきょろと周囲を見回す。
そんな蛍に、月夜見は静かに首を横へ振った。
「いいえ。ここは、ただの入り口ですよ」
そう言って、月夜見は前方を指し示す。
「正義の天秤の間は、この先——あの白い大鳥居の向こう側です」
視線の先には、巨大な白い大鳥居が一つ。
そのさらに奥、ぽつりと宙に浮かぶ銀色の天秤が見えた。
台座もなく、支えるものもない。
ただ独りでに、静かな空間の中心へ浮かんでいる。
「……なんだろう。予想と違って、驚いてしまうな」
神聖というより、異様。
そんな感想を抱いた蛍に、月夜見は少し気まずそうに視線を逸らした。
「はい。本来、この広間が“天秤の間”と呼ばれていたのですが……」
そこで一度言葉を切り、小さくため息を吐く。
「魂の選別のために、良かれと思ったのか……大国主命が勝手に、“正義の天秤と縁がある者”しか、くぐれない門を設置しまして」
ややため息混じりの言葉に、その場の全員が「あぁ……」と同じ顔をした。
——間違いなく、東ならやる。
「その際、空間が影響を受けたのか、湖まで発生してしまいまして。一時期、天津の国が水浸しになったのです」
「あの大洪水、東がやったのね!? おかげでアタシまで、天津の国に出入り禁止にされてたのよ!!」
思い出したかのように、建御雷神が眉を吊り上げて怒る。
しかし、月夜見の静かな表情が、さらにスンッと真顔に切り替わった。そしてキッパリと告げる。
「貴方が立ち入ると、全員感電しますので」
「アタシを漏電扱いしないでちょうだいな! ちゃんと雷を制御できるわよっ!?」
ムキーッ!と建御雷神が抗議するが、月夜見は涼しげに、何も聞いてない振りをした。
「……はぁ。それで致し方なく、天秤の間の扉を閉じました」
「な、なんだか大変だったんだな」
思ったより月夜見の苦労は大きいらしい。蛍は月夜見に同情の眼差しを向ける。
すると、月夜見がゆっくりと法典を開いて、その中から鍵を取り出して言った。
「もし、蛍さんが再びここへ来たいのなら、天津の国にいる僕へ声を掛けてください。鍵は、僕が管理していますので」
「うん! その時はお願いする!」
蛍は大きく頷いて、ふわっと笑った。
そのやり取りを黙って聞いていた蓮が、昼間の東を思い出したのか、少し顔をしかめた。
「なんか、色々ありがた迷惑な神様だね……」
「えぇ。鳥居も業務妨害として、強制撤去を検討したのですが……」
月夜見は白い大鳥居を見上げる。
「あぁ見えて、東は未来の縁を見据える神でもありますので。何か意図があるのでしょう」
だから、そのまま残した。
そう静かに告げると、月夜見は蛍へ視線を向けた。
「なので、僕達はこの湖まで来れても……あの鳥居の向こうへ行けるのは、おそらく蛍さんだけです」
「えっ!? ボク、一柱で行くのか……っ」
蛍が驚きと不安に大きく目を開いて言った。
月夜見は思案顔のまま、「恐らく、弾かれるでしょうが……」と淡々と言葉を続ける。
「——では、試しに、そちらの蓮さんと大鳥居まで行ってきてみてください」
「分かった! 行こう、蓮」
「うん! 行ってみよっか!」
二柱二柱は手を繋いだまま水面の上を走る。
ぱしゃぱしゃと澄んだ水を楽しげに跳ねさせて、白い大鳥居の目の前まで辿りつく。
「……ねぇ、蛍。 せーの、で一緒に行く? それとも片方ずつがいいのかな?」
蓮は目の前に聳える大鳥居を見上げて、そして、視線の先にある銀色の天秤を見据えて言った。
「せーの、で……行く!」
蛍は、そう勢いで答えた。
目の前に浮かぶ銀色の天秤は、静かなのに圧倒的だった。
勢いがなくては入るのを躊躇ってしまう。
その銀色の輝きは、まるで何かを待ち続けているかのような……寂しさを纏っていた。
「「……せーの!!」」
そして、蛍と蓮は白い大鳥居の向こうの銀色の天秤の間に入ろうと、二柱は同時に踏み出した——だが。
「……え?」
鳥居を抜けた瞬間、そこにいたのは蛍一柱だった。
「——蓮っ!?」
慌てて振り返る。
だが、戻ろうとしても見えない壁に阻まれ、蛍の手は虚しく宙を切った。
その代わり、どこからか蓮の声が届く。
『……大丈夫だよ、蛍』
そんな優しい声だった。
鳥居の向こうに"蓮"はいるのだろう、何処からか声が聞こえてくる。
『僕は、君が帰ってくるまで、いつまでも待つから。
だから安心して行っておいで——そして、必ず僕のところへ帰ってきてね』
「……蓮」
蛍はコクンと、小さく頷く。
そして、覚悟を決めて、もう一度前を向いた。
翡翠の瞳が、真っ直ぐ“正義の天秤”を見据える。
そして、一歩、一歩、踏み出した。
——その時、……ぽちゃん。と水音が響いた。
「……やぁやぁ! やぁっと来たのかいっ!」
蛍は、その大きな声に、釣られて背後を振り返った。
「イザナギの魂よ。 随分と長いことかかったじゃないかぁ〜!」
そして、大国主命——東は、くるりと朱色の番傘を回して、太陽のように笑う。
「え……っ! 大国主命!? 何でここに……っ」
蛍は今の状況に追い付けず、やや混乱しながら東を見上げる。
しかし、東が、この白い大鳥居を作ったのだから、ここに東がいても不思議ではなかった。
それよりも、気になるのは——先ほど、イザナギの魂って言われていなかっただろうか?。
そんな、思案顔の蛍を一切気にすることなく、東は大きく笑う。
「——まったく、君は! あっちへ行ったり、こっちへ寄り道したり! 道草ばかり食っているからだぞぅ! ははははははっ!」
「うー……今のキーンって、したぞっ東っ!」
『あははははははははははは! いいぞっ、愛っ!!』
「……なんで声量パワーアップしたんだっ!?」
蛍の目が点になる。声量も勢いも凄まじい。
(ここに、晴明か蓮がいてくれたら、東の話を通訳してくれただろうに……とほほほ、ボク、やっぱり帰りたい)
東の大きな笑い声で、蛍は鼓膜がキーンとする。
そして、一番辛いのは彼の話に追いつけなくて、色んな意味で、頭が痛いことだった。
(……でも、ここで立ち止まっても、みんなのいる所に帰れないから、よし、がんばろうっ!)
だが、ここで心が折れては前に進めない。
蛍は気持ちを奮い立たせ、東へ問いかけた。
「あの……東。ボク、本当にイザナギの魂なのか?」
「あぁ、そうだとも!」
そう東は大きく笑う。
「君の魂は確かに、一度消えた!
だが私は、消える寸前——ふわふわ、とろとろになっていた魂を、近くにいた存在へ繋げ! さらに縁を繋げに繋げぇて〜!!」
東がとんでもない長文を一息で、さらに語尾を歌舞伎のような口調で言うと。
「なんとかっ! 君が此処に来れるように、繋げてあげたのさ! なんて言ったって、私は縁の神だからね!!!
あははははははははっ!!」
東は腹を抱える勢いで笑い続ける。
もはや、これが会話なのかすら蛍にも分からない。
「……あ、ありがとう」
蛍の笑顔は若干引き攣っていた。
東の話の勢いのせいなのか、声量のせいなのか、蛍の理解が追いつかない。
(つまり、東が縁を繋げて、ボクはここに来た……ってことだよな? たぶん)
半ば思考停止しながら結論を出した蛍の肩を、東がぽんぽんと叩く。
「……東?」
見上げた先で、東の赤い瞳がスッと細められた。
「……さぁ準備はいいかい?
ここからは、君の選択次第の縁の先だ——」
先ほどまでとは違う、静かな声。
いつもとは違う、落ち着いた口調で言葉を続けた。
天津の国の大洪水が東のせいと、建御雷神は初めて知りました。




