「へつらいの道化」10
気づいたとき、元気は立っていた。
屹立、などという立派な状態ではなかった。
ただ前後にバランスを崩すことがなかったため、たまたま両の脚で立てていたに過ぎなかった。
ここは…
視界を左右に向け、自分がいまいる場所を認識する。
行きつけのパン屋。携帯ショップ。行ったことのないカラオケ店。見覚えのあるロータリー。駐輪場に並ぶ自転車の群れ。
自宅の最寄り駅前であることがわかる。
意識はクリアではない。
とりとめのない記憶の断片たちが顔を見せては去っていき思考がまとまらない。
こしょこしょとこそばゆい音が聴覚をくすぐる。
これはなんの音だったか。どこかで聞いたような。
と思ううちに音は寝起きの夢の残り香のようにすっと消えていった。
何してたんだっけ…なんでここにいるんだっけ…
今日は…ペオルに殴られて…家を追い出されて…
耕児の家に…ピザを頼んで…
ばらばらに散らばった情景をつなぎ合わせていくが耕児の家での出来事が曖昧だ。
しばらく徒労ともいえる記憶巡りをしていたが埒が明かない。
とりあえず家に帰ろう。
日の傾き具合からみるに、もう正午から2、3時間は過ぎていそうだ。
ペオルの怒りももう鎮まったか、庵野の部屋に移動したかしてるだろう。自分たちだけでは昼飯が確保できないし、きっと庵野に…。
庵野…庵野。あれ?あそこにいるのは…
駅を背にして自宅へ向かう元気の視線の先に、見覚えのある人影が映り込む。
あまり長くないさっぱりとした髪。
無駄の少ない素早い動き。
出っぱりも引っ込みも目立たない細い身体つき。
庵野だ。
庵野が笑顔で話しながら歩いている。
隣りにいる壮年の男性と。
誰だっけ。
記憶のグーグル先生で検索をかけるもヒットしない。
会社の人間ではない。学校の先生?たまたま会って…
「ゆいも生活のためとは言え大変だよねー。」
「男に媚びて金を稼がんといかんのだからなぁ。」
ふと今朝のペオルとエレミヤの発言が耳に蘇る。
生活のため?男に媚びて金を稼ぐ?
元気の胸のなかでもやもやとした感情が蠢く。
なにをしたんだろう。
何だか嬉しそうに男と話す庵野を見て不安になる。
金のためって…。なんでそんなに金が必要なんだ?
あの部屋はたしかに家賃高そうではあるが…。
あとはコレクションたちか。ああいうグッズはなかなか高額と聞く。
しかし給料で賄えないものなのだろうか。
いや、そもそもなぜ給料で賄えないほどの生活をするのか。浪費家なのだろうか。
だとすれば借金なんかも…つまり、返済に窮して男に金をせびるようなことをしているのか。
不安はネガティブな思考を引き起こし、それがまた不安を呼ぶ。
いてもたってもいられない。
いつの間にか元気は庵野のもとへ駆け出していた。
聞かなきゃ。そして…守らなきゃ。
ガゴン!!
不意の衝撃が元気の左肩を襲う。
つぎに感覚が戻り、熱と痛みが脳を刺激する。
バスの停留所の時刻表にぶつかったのである。
くそっ、なんでこんなところに…と思うもののバス停だからしょうがない。
というより、何故そんなものにぶつかるのかが腑に落ちない。視界に入っていたろうに。
「あれ!木梨!?なんかすごい音したけど大丈夫!?」
声の先には庵野の心配そうな顔。
こちらに駆け寄って来ている。
一緒にいる男と…その後からひょこひょこついてくるのはペオルとエレミヤ。
にやにやしている。
庵野は元気のそばまで来ると、元気が右手でおさえている肩に触れる。
「折れてない?痛くない?」
優しい庵野。
明るい庵野。
笑顔の眩しい庵野。
姉のような庵野。
そうだ。いま言わなきゃ。
元気は庵野の両肩をひしと両手で掴む。
唾を飲み込み彼女の顔を見つめる。
「木梨…?」
「庵野。お前のことは俺が守る。一生守るから。」
庵野の表情を見まもる。
呆気にとられた顔。
大きく見開かれた目は元気の顔を映し、
ややあいた口から静かに吐息が漏れる。
「ゆい、お友達かい?」
追いついた男、ジャケットとスラックスを身に纏った上品そうな男、は元気と庵野を交互に見ながら怪訝そうに尋ねた。
庵野ははっと我に返る。
「う、うん。会社の同期。」
庵野は頭だけ男に向けるとそう答えた。
元気も視線を男に向けると目に力をこめて睨みつけた。
「あんたが庵野に何をしたかはしらない。知りたくもない。だがもう庵野はあんたを必要としない。俺が守るから。」
「よっ!男のなかの漢!元気!」
「見せつけるのう!」
ギャラリーの堕天使二人組が囃したてる。
男は驚いた表情を見せたがしばらくすると得心したとばかりに頷いた。
「そうか…。ゆいにも良い人が見つかったんだな。」
目を細め口角をやや上げて微笑む。
この優しい表情、誰かに似ている。
「ちょ、ちょっと!違うって!お父さん!」
お父さん。はじめまして。ゆいさんはぼくが…
え?お父さん?




