第十六話:優しい香具師
夕方の廊下は、少しだけ湿った風が通っていた。
そういえば昨日、梅雨入りしたってニュースに書いてあったな…
そんなことを思い出しながら階段を上がって鍵を取り出した瞬間に隣のドアがいつものように開く。
「おかえり〜。今日も生存確認よろ〜」
白いゆるニットにロングスカート。
いつ見ても見た目だけなら、どう見ても落ち着いた大人の女性だ。
いつものように口を開かなければ。
「……ただいまです」
「ん?学校でなにかあったの?」
「えっ?」
「お姉さんが聞いてあげよう!」
「えっと……」
俺は少し迷ってから、さっき学校で見かけた言葉を思い出した。
「あの~カグシ?って、何ですか?」
お姉さんの動きが止まった。
「……は?」
「クラスの奴が黒板に香具師?
匂いの香るに、具材の具、教師の師って書いてあったんですが…
なんか、人のことを話しているようだったんですけど…」
お姉さんは笑いをこらえているようでプルプルと身体を震わせながら顔を真っ赤にしている。
「大丈夫ですか?そんなに面白いことをいいました?」
「ごめん!ごめん!それはカグシ!じゃなくてヤシ!って読むの!」
「ヤシ?」
「漢字で書くと香具師!」
「香具師でヤシですか…」
「そう!」
「どんな意味ですか?」
お姉さんは廊下の壁に手をついて、深く息を吐いた。
「香具師ってのはね」
「はい」
「昔、ネットで“やつ”とか“あいつ”って意味で使われた言葉」
「やっぱり、人のことなんですね」
「そう。しかも、ちょっと茶化す感じ。見下しすぎず、でも距離もある感じ」
「ほぉ!でも使うの難しそうですね!」
「そう。だから面白いの」
お姉さんは、なぜか少し嬉しそうだった。
「たとえばさ、『いまだにガラケー使ってる香具師おる?www』とか」
「それも書いていました!ところでガラケーってなんですか?」
「そこから???パカパカ携帯!見たことない?」
「ネトフリにあった昔のドラマで見たことあります!」
「ネトフリで古いドラマ?」
「はい!Netflixで観ました!」
「そう…まあいいや!あれ!パカパカ携帯!」
「多分、分かっていると思います…」
「で!『いまだにガラケー使ってる香具師おる?www』って言うの!」
「wwwも一緒にですか?」
「そう!一緒につけるの!書かないと殺伐とするでしょ!なんか、付いてると空気が柔らかく見えるでしょ!」
「そうなんですか…」
「いろいろ脱線したけど『いまだにガラケー使ってる香具師おる?www』って言うの!」
「なるほど……」
「あと、『釣りと見抜けずにマジレスしてる香具師大杉www』とか」
「あっ!それも見ました!」
「“香具師”って書くとちょっとふざけた空気が出るの」
「へえ……」
お姉さんはそこで、ふっと俺を見た。
「で、君はそれを見て何を思ったの?」
「え?」
「香具師って、誰だろうって思った?」
その言い方が、少しだけ近い。
俺は変な汗をかきながら答えた。
「……正直、最初は人のことを雑に呼んでるのかな?って…」
「うん!そうだよね!」
「でも、なんか……ちょっと楽しそうで」
お姉さんは、少しだけ目を細めた。
「そうそう。そこがポイント」
「空気、ですか」
「うん。『日曜の夜なのに2ちゃんねる監視してる香具師www』って書いてあると、自虐っぽいノリもあるでしょ?」
「ありました」
「自分も“香具師”って設定で笑う感じ。ああいうノリ、嫌いじゃないんだよね」
「……お姉さんも、そういうの使ってたんですか」
「失礼な!また私を古代遺跡扱いする気?」
怒られるかと思ったのだが、お姉さんはピタッと止まって急にスマホを操作し始めた。
「はい!」
「えっ?」
「スマホを見る!」
『授業中にスマホいじってるのバレて、没収されてる香具師www』
「こんな書き込みあったら、君のことだと思う?」
「思いません!俺そんなことしてないです!」
「だよね〜。君は真面目だもんね」
ニコっとしてる。なんだこの尋問。
「じゃあ次!これは?」
『休み時間ずっと廊下で女子と喋ってる香具師www』
「だから俺じゃないですって!」
「即答だね。怪しい」
「怪しくないですって!そんなことしませんって!」
お姉さんはケラケラ笑ってから、急に真顔になった。
「……でもさ」
「はい?」
また何か打ち込んでいる
『テスト前なのに夜更かししてる香具師を勝手に心配してる香具師www』
「だから俺じゃないですって!……ん?えっ?え~!心配している?」
「これって…私のことなんだよね…」
「えっ?」
「本人じゃないの。横から勝手に見守って勝手に気にしてる側」
「自覚あるの…私ってね」
お姉さんはスマホを両手で持ったまま、少し視線を落とした。
「テスト前の君のことが気になって、ついヲチしちゃうタイプの香具師なんだよね」
「えっ?」
「君が『明日はテストで』なんて言った日は『ちゃんと準備できたかな?』『テストは大丈夫かな?眠れるかな?』って本当はめちゃ気になってるの!」
「……それ、俺のTwitterとか見てるんですか?」
「見てない!見てない!それに君はやってないでしょ?もしかして裏アカあるの?」
「やってないですよ!裏も表もありませんよ!」
「本当?本当にやってないの?」
「やってませんって!」
「つまんないの…だからね!ヲチするものがなくて、結局は君の部屋の電気がついてるかだけチェックしてる香具師」
「それって、もっと怖いですよ!」
「ちがうよ!ストーカーじゃないから!ただの生存確認!生存確認!」
お姉さんは慌てて両手を振った。耳がじんわり赤くなっている。
「……でも」
「はい?」
「君が一生懸命にテスト勉強してるって思うとね…」
「はぁ…」
「なんか、ちゃんと頑張ってるんだなって思ってね…私も仕事しよ!って元気出るんだよね!」
その言い方が、いつもの軽口と少し違う。
「……お姉さんも、ちゃんと頑張ってるじゃないですか。仕事」
「えっ?」
「いつも夜中まで作業してるの、知ってますよ!たまに電気ついてるの見えますし…」
お姉さんがピタッと止まった。
「……それ、見てたの?」
「お互い様じゃないですか?」
数秒、廊下が静かになった。
それから、お姉さんはふっと笑った。
「そうね!ダメな大人ね!」
「普通に心配してるだけです…」
「それが一番、効くんだって」
お姉さんは小さく息を吐いて、スマホをポケットに入れた。
「じゃあ、一回まとめてみるね」
「まとめ?」
お姉さんはまたスマホに何か打ち込み始めた。
『君は、人のこと真面目に心配する優しい香具師』
「で…」
続けてスマホに打ち込み始めた。
『私は、君のこと心配しすぎて夜更かしする駄目な香具師』
「分ける意味、あります?」
「あるよ。香具師にも種類があるの。古代ネットの社会学」
そんな学問は存在しないと思う。
「で、今日の最終結論」
お姉さんは人差し指を立てて、いつもの調子に戻った。
「テスト前なのに夜中までヲチしている香具師にならないよう!
だから君は今日はちゃんと早く寝ること!」
「お姉さんが言うんですか?それ!」
「私はいいの。大人だから」
「理屈になってないです」
「いいから!はい、勉強しに帰った帰った!」
お姉さんはそう言って俺の背中をぽんと押した。
「今日は仕事、頑張り過ぎないでちゃんと早めに寝てくださいね!
それと、駄目な香具師じゃないです!
優しい香具師です!」
「ぐはぁっ!」
お姉さんが何かに撃たれたように仰け反る。
そして耳が真っ赤だ!
いや耳だけでなく、顔全体が一気に赤くなっていく。
「お姉さん? どうかしました?」
「……君さぁ、それ本当に反則だから!突然、優しい言葉を計算なしで言ってくるところ。本当に、香具師として反則!ギルティ!」
「香具師に反則とかあるんですか」
「あるの。今、君は反則レベルの香具師認定」
「それ褒めてます?」
「最上級の褒め言葉だよ」
そう言って、お姉さんはドアの陰に半分隠れながら、最後にもう一言付け足した。
「じゃあ、また明日。生存確認させてもらうから」
「無理しなくていいですから」
「無理はしない!生存確認はするけど」
ドアが閉まる。
俺は鍵を握りしめたまま、しばらく廊下に立っていた。
たぶん、今夜も少し遅くまで電気をつけたまま勉強すると思う。
隣の電気が消えるまでは。
見られてもいいから…
逆に見られたい…




