第七話 プロフェッサーウィザード
第七話 プロフェッサーウィザード
街の屋敷、その一室。
雨音が遠くで静かに鳴っている。
「……ベス、復唱して」
アシュリーの声に促され、エリザベスは背筋を伸ばし、小さく息を吸った。
『Michael domo festinans exiit, et foris pluvia erat…』
――『ミカエルは慌てて家を出た。外は雨だった……』」
発音を意識し、一語一語を丁寧に並べる。
言い終えると、アシュリーは顎に指を当て、少しだけ首を傾げた。
「うーん……合ってはいるのよ。意味も、語順もね」
「じゃあ、なにがダメなの?」
「抑揚、かしら。言葉が“並んでる”だけで、“流れて”ない感じ」
エリザベスは眉を寄せる。
「……どうすればいいの?」
「うーん……正直に言うとね」
アシュリーは困ったように笑った。
「私が満足できるくらいまで教えるのは、ちょっと難しいのよ」
エリザベスがアシュリーに聞き返す。
「え?」
「これはもう、耳と目で覚えるしかないわ。本とか」
一瞬考え、エリザベスの顔がぱっと明るくなる。
「それ、いいね。アシュリー」
「でしょう? 図書館なら、ちょうどいいのがあると思うわ」
そう言うと、エリザベスは椅子から立ち上がり、軽く伸びをして扉へ向かった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい。迷子にならないようにね」
――その言葉を背に、エリザベスは自室を出た。
⸻
街の屋敷は、比較的自由に出入りができる。
門番に軽く会釈をして外へ出ると、街はすっかり動き出していた。
最近は、また魔法技術が進歩したらしい。
街路には、魔力が尽きることなく灯り続ける街灯が並び、
子どもたちは膝ほどの高さまでふわりと浮く小さな絨毯に乗って、追いかけっこをしている。
通りの向こうでは、男が手のひらサイズの箱を開けた。
次の瞬間、箱の中から小さな樽が現れ、野菜売りの男からケースを受け取ると、再び箱へと収まっていく。
「……日々、魔法も進化してるんだな」
エリザベスは感心したように呟き、目的地へと歩を進めた。
――街の図書館。
⸻
図書館の扉をくぐると、空気が変わる。
高い天井から火の光が柔らかく差し込み、
太い石柱が整然と並ぶ、開放的でありながら重厚な空間。
そして――
エリザベスは、思わず上を見上げた。
本が、飛んでいる。
まるで鳥のように、ぱたぱたとページを揺らしながら、
それぞれが決められた本棚へと戻っていく。
「……すご」
感嘆を漏らしつつ、目的の棚へ向かう。
「……ン語……テン語、と……」
梯子に登り、背表紙を指でなぞしながら探していると、
向かいの本棚から声が飛んできた。
「お前の見ているのは、ケトル語だぞ」
「……?」
振り向くと、同じく梯子に乗った男がこちらを見ていた。
白い髭、丸眼鏡。
いかにも魔法士然とした風貌で、口元には薄い笑み。
「ケトル語が、十五にも満たなそうなお前に理解できるとは思えないが」
その言い方が、どこか癪に障った。
「……何よ」
エリザベスは短く返し、視線を合わせないまま梯子を降り始める。
(なんだ、このおっさん……)
小さく心の中で毒づきながら。
⸻
「よしよし……いい感じ、いい感じ」
夜気の冷たさが屋敷の高塔を包み込む中、エドワードは望遠鏡から目を離さずに呟いた。
レンズの向こう、暗闇に浮かぶ淡い光。その周囲を囲む、はっきりとした輪。
「……見えた! 本当に輪っかがあるなあ……」
息を潜めるような声だった。
その背後から、控えめな足音が近づく。
「エドワード様、今日は何をご覧になっているのですか?」
侍女がそう問いかけると、エドワードは振り返らずに答えた。
「今は土星だよ。ガリレオが見つけたと言われている星さ」
「まあ……楽しそうですこと」
侍女は柔らかく微笑みながらも、少しだけ声色を変えた。
「それよりあなた、そろそろ服や冠の寸法を測るお時間ではありませんか?」
エドワードは一瞬だけ黙り込み、やがて小さくため息をついた。
「……ごめん。体調が悪いってことにして、明日にしたいな」
「今日は、どうしても土星の輪に集中したいんだ」
「まったく……国王様になるお気持ちは、あるのかしら?」
その言葉に、エドワードはようやく振り返り、困ったように笑った。
「もし国王にならなくていいなら、喜ぶね」
「僕はこうして、ずっと星を見ていられる。それが何より楽しいんだ」
侍女の視線を一瞬だけ受け止めると、エドワードは再び望遠鏡に顔を寄せた。
⸻
屋敷の裏庭は、すでに戦場の匂いがしていた。
踏み固められた地面、焦げた芝、ところどころに残る魔法痕。
「聞いたぜ、ベス」
ロバートは槍を肩に担ぎ、ゆっくりと距離を詰める。
「アシュリーさんとやり合って、訓練場を半壊させたってな」
「責任はどうやって取ったんだ?」
エリザベスは炎を灯した剣を構え、口元だけで笑う。
「反省文一万文字くらい?」
「ははっ!」
ロバートが地面を蹴る。
風が一気に集まり、彼の足元で渦を巻いた。
「それ、出版できるな」
「タイトルは――『ベスは反省してます』だ!」
ロバートが踏み込むと同時に、風が爆発的に加速する。
直線的な突き。だが速度は、ただの槍のそれではない。
エリザベスは即座に横へ跳び、剣を振り抜いた。
「基礎魔法:火...あああっ!」
炎が刃を包み、衝撃波として前方へ弾ける。
だがロバートは槍を回転させ、風の膜でそれを弾いた。
「甘い!」
風が刃となって庭を切り裂く。
地面が抉れ、エリザベスの足元が崩れた。
「っ……!」
体勢を崩した瞬間、ロバートは間合いに踏み込んでいた。
槍が喉元へ迫る。
エリザベスは咄嗟に剣を逆手に持ち替え、炎を一点に集中させる。
「燃えなさい!」
火花が炸裂し、視界を覆う。
だが――風がそれをすべて巻き取り、消し飛ばした。
ロバートは一歩も退いていない。
「行くぜ!」
彼の全身を風が包み、槍先に渦が収束する。
「基礎魔法:木――
竜巻槍!」
圧縮された旋風が解放された瞬間、
エリザベスの炎の剣は正面からねじ伏せられた。
刃が弾かれ、宙を舞う。
回転する剣が、エリザベスの目の前で止まったように見えた。
頬を撫でる風。呼吸が、止まる。
ロバートの槍先が、ぴたりと彼女の目前で止まっていた。
視線が合う。
だがロバートは、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
そして、槍を下ろす。
「今日は俺の勝ちだな」
風が静まり、庭に夜の音が戻る。
「俺は帰るぜ」
「今度はさ、バトルの前におやつでも食おうぜ……」
エリザベスは転がった剣を拾い上げ、睨みつける。
「珍しいじゃん……バトル以外に誘うなんて」
「あんた、ただの脳筋だと思ってたわ」
ロバートは頭をかきながら、照れたように笑った。
「俺もな……親父に言われてんだよ」
「デートの作法くらい身につけろって」
振り返り、軽く手を振る。
「ベスは練習だ。一番やりやすいからな」
侍女を呼び、ロバートはそのまま去っていった。
夜の教会は、息をひそめたように静まり返っていた。
高い天井から垂れ下がる蝋燭の光が、石床に淡く揺れる。
⸻
メアリーは祭壇の前に膝をつき、胸元のペンダントを強く握りしめていた。
中には、母の肖像画。
そしてもう片方の手には、小さな十字架。
「……前にも言った...」
小さく、誰に向けるでもなく言葉がこぼれる。
「お母様と、同じ名前のお姉様がいるでしょ?」
「本当に……いい人だわ……」
祈りは、どこか迷いを帯びていた。
聖典を静かに閉じ、メアリーは左手側に視線を移す。
赤い十字架に貼り付けられた、クエスト様の絵画。
苦悶の表情と、流れる血。
一度視線を外し、そしてもう一度見つめたあと、正面を向く。
目を閉じる。
「お母様は……」
「血の繋がっていない人を、家族として……一緒に過ごせますか?」
問いに、答えは返らない。
メアリーは静かに目を開け、立ち上がると、教会を後にした。
扉が閉まる音だけが、夜に残った。
⸻
ここは宮廷、エリザベスの自室。
宙に浮かんだ数冊の本が、ゆっくりと円を描きながら回っている。
エリザベスは目だけでページを追い、次々と読み進めていた。
コン、コン。
ノックの音。
「誰?」
「私よ、ベス。アシュリー」
「いいよー」
扉が開き、アシュリーが顔を出す。
「ちょっと今、空いてる?」
「おう……いいけど」
案内されたのは、書斎だった。
もともとヘンリーが集めていた出版物を保管していた部屋。
整理中のヘンリーには気づかれないよう、ここだけは手つかずにしてある。
扉を開けると、そこには一人の男がいた。
「ほっ……」
「ずいぶんと貴重なものばかりだ」
「研究に役立つものしかない……」
アシュリーが声を上げる。
「ウィリアムさん!」
男が振り向く。
白い髭、眼鏡――
あの時の男だった。
「……あ」
「あの時のおっさん!」
「失礼な」
「ほぼ初対面でおっさん呼ばわりとは」
「はいはいはいはい」
アシュリーが間に入る。
「この人がウィリアムさん」
「王立魔法大学校で講師と研究している方よ」
「通りで……」
「おっさんはいかにも魔法使いなわけか……」
「こいつ……」
「おっさん呼ばわりで、人の話を聞く態度じゃないぞ」
「まあまあまあ……」
空気が、わずかに軋んだ。
⸻
アシュリーは一歩前に出た。
「ウィリアムさん」
「少しお話ししたとは思いますが、この子の魔法を見てほしいんです」
「いかがでしょう?」
ウィリアムは眼鏡を押し上げ、エリザベスをじっと見つめる。
エリザベスは露骨に嫌そうな顔をした。
「タダではやらん」
「小娘を相手にする時間まではない」
「では……」
アシュリーは、にこりと微笑む。
「この書斎の書物を、大学校にお貸しすると言ったら?」
「――その言葉を待っていた!」
ウィリアムは即答した。
「良かろう。引き受けようではないか」
そして、再び眼鏡をかけ直し、エリザベスを見据える。
「お前、魔法を甘く見ているな」
「そんな生意気な小娘に、どんな方法で指導すれば痛い目を見るか……」
「考えておくとしよう」
踵を返し、
「ではな」
「ほっほっほっほっ……!!」
笑い声を残して、去っていった。
「何なの、あのジジイ」
「相変わらず嫌なヤツ」
エリザベスが吐き捨てる。
「ハッタリよ」
アシュリーは肩をすくめた。
「子供相手に、熟練の魔法使いが本気を出すわけないじゃない」
エリザベスは、深くため息をついた。




