第四話 仕宮人のお母様
第4話 仕宮人のお母様
「アシュリーの……大嘘つき!」
「お母様は病気で亡くなったって言ったじゃん! あんたもお姉様と同じ! みんな、みーんな大嫌い! 死んじゃえばいいのに!」
「じゃあ離してよ! 大嘘つきの顔なんて、二度と見たくない!」
その言葉が落ちきる前に、アシュリーは掴んだ左手を強く引いた。
距離が一気に詰まり――
パァンッ!!
手を大きく振り、エリザベスの頬に乾いた音が、雷鳴を裂いた。
アシュリーは胸元から、白金のペンダントを取り出した。雷光を受けて、冷たい光を放つそれを、そっとエリザベスの首に通す。
「私は、あなたの言う通り大嘘つきです」
「とても重い罪を背負っている。……いい、ベス。今からあなた自身で考えなさい」
「そんな私、アシュリーが、これから語る話を……聞きたいですか?」
「……うん。教えて」
アシュリーは、ほっと息をつくように、再び彼女を抱きしめる。
「あなたは、とってもいい子ね……」
そして、ゆっくりと告げた。
「いい、エリザベス。これから話すことは、あなたにとって辛いことばかりだわ。でも...真実にきちんと向き合う大人になりなさい」
⸻
馬車の中は、静かだった。
車輪が石畳を踏む音だけが、一定のリズムで響いている。
向かい合って座る男と女。
男は身なりの整った青年で、緊張を隠すように背筋を伸ばしていた。
女――アンは、質素だが清潔な服を身にまとい、膝の上で手を重ね、やや俯いている。
外套の袖口は擦り切れているが、洗濯は行き届いていた。
靴も磨かれている。
だが、それでも彼女は自分が“場違い”であることを、誰よりもよく理解していた。
男はそんな妹の様子を横目で見て、柔らかく声をかけた。
「大丈夫だ。上手くいく」
アンは小さく頷いたが、顔は上げなかった。
そのとき、御者の声が馬車の前方から飛んできた。
「そろそろ着きますぞ」
馬車は速度を落とし、やがて重々しい音を立てて止まった。
⸻
次の瞬間、二人が立っていたのは、宮廷の奥に設えられた重厚な扉の前だった。
磨き上げられた扉は分厚く、取っ手には金属の装飾が施されている。
ここが、選ばれた者だけが通される場所だということは、一目でわかった。
男が一歩前に出る。
「約束の件です。失礼します」
扉の向こうから、低く威圧的な声が返ってきた。
「……いいぞ。入れ」
扉が開く。
中には長机があり、その向こうに五人の役人が並んで座っていた。
皆、肘を机につき、値踏みするような目で二人を見る。
男は一礼し、用意していた言葉を慎重に選びながら話し始めた。
「こちらが妹のアンです。宮廷に侍女としてお仕えさせていただきたく――」
役人の一人が、鼻で笑う。
「アン、ね……お兄さん」
視線が男からアンへと移る。
「田舎貴族出身の妹に、教養があるとは思えないがね?」
男は一瞬も怯まず、即座に答えた。
「大丈夫です。読み書きと作法は一通り。知識や教養に関しては、人以上です」
役人たちは顔をしかめ、互いに視線を交わす。
「……ふむ」
沈黙。
やがて、中央に座っていた年嵩の役人が口を開いた。
「ほう……ならば、侍女であれば受け入れよう」
アンの胸が、わずかに跳ねる。
「だが、能が無いと分かれば、すぐに切り捨てる。それでもいいな?」
「もちろんです」
男は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
アンも遅れて頭を下げる。
額が、冷たい床に触れた。
⸻
その後、アンは別の侍女に連れられ、さらに奥へと案内された。
廊下は先ほどよりも豪奢で、絨毯が敷き詰められ、壁には絵画が並んでいる。
一歩進むごとに、自分が場違いな存在になっていく感覚が強まった。
やがて、一段と豪華な部屋の前で立ち止まる。
「失礼します。新しく受け入れる侍女の件で」
中から、女の声。
「いいわよ。入って」
扉が開くと、そこには二人の女性がいた。
一人は若く、気位の高そうな少女。
もう一人は年を重ね、冷たい眼差しをした女性だった。
侍女が一歩前に出る。
「こちらがアンです。身の回りのことをサポートいたします」
アンは深く頭を下げた。
「精一杯お仕えいたします」
顔を上げた、その瞬間。
「……なんか、匂うわ」
老いた女が鼻を鳴らす。
「畑の土の匂い。正門の前で土を落としてきなさいって、言わなかったかしら? メアリー」
若い少女――メアリーが、少し困ったように答える。
「お母様、今日は部屋から出てないよ」
「じゃあ誰かしらね?」
女は侍女とアンを一瞥する。
「土臭いのを連れてきたのは」
侍女が小声でアンに囁いた。
「……もう、引き返しましょう」
二人は、何も言われないまま部屋を後にした。
アンの胸に、重たいものが沈んだ。
ヘンリーの私室は、宮殿の中でもひときわ豪奢だった。
高い天井には細密な紋章画が描かれ、厚手の絨毯は足音を吸い込むほど柔らかい。壁際には磨き抜かれた木製の棚が並び、その上には魔導具や書物、金細工の装飾品が無秩序に置かれている。
その中心で、ヘンリーは気取らない様子で椅子に腰掛けていた。
空中に浮かぶ一本のガラス瓶が、静かに傾く。
魔法によって操られた白ワインが、音もなく杯へと注がれていった。淡い金色の液体が揺れ、微かな果実の香りが部屋に広がる。
ヘンリーはそれを一瞥すると、次の瞬間には皿の上のミートパイを両手で掴み、豪快にかぶりついた。
「――ほっほっ、やはりこれだよっ」
頬をいっぱいに膨らませ、満足そうに目を細める。肉汁が溢れ、香ばしい香りが立ち上るのも気にせず、次の一口を押し込む。
傍らに控えていた付き添い人が、遠慮がちに声をかけた。
「国王陛下、何かお急ぎでいらっしゃるのですか?」
ヘンリーは口を動かしたまま、頷いた。
「その通りだよ。急がねば集まりに間に合わないからね」
「それでしたら、お食事は後ほどにされても――」
「絶対にありえん!腹が空いては何もできぬよ」
そう言ってから、自分で言った言葉に少しだけ笑い、杯を手に取る。白ワインを一口含み、満足そうに息を吐いた。
「ミートパイは何個あっても飽きぬ。最高だっ!」
やがてヘンリーは立ち上がり、外套を掴む。
「行くぞっ!」
付き添い人が慌てて後に続く。
彼は早足で廊下へと出た。
長く続く回廊を抜けるたび、壁の燭台が規則正しく並び、足音が反響する。広い宮殿の中を、まるで戦場へ向かうかのように歩いていく。
そして、視界が開けた。
屋外の広場には、すでに数頭の馬が並べられていた。
その傍らで、たてがみを撫でながら待っていた男が、ヘンリーの姿を認めて声を上げる。
「おお、国王陛下。お待ちしておりました」
「すまないな。少し遅れてしまった」
ヘンリーがそう言うと、男はにやりと笑った。
「では、国王様がお見えになりましたので――始めましょうかね。
陛下も、どうぞ馬にお乗りください」
ヘンリーは一瞬だけ馬を見つめ、それから当然のように手綱へと歩み寄った。
⸻
アンはメアリーの母に仕え、彼女の身の回りの生活を支えていた。アンはたしかに知性に満ち溢れた女性であったが、宮廷が求める“完璧な侍女”の型には、すぐには収まらなかった。
次第に、侍女たちは彼女をこう呼ぶようになる。
――芋女。
廊下に撒かれた水を、一人で拭かされる。
わざとワインをこぼしたシーツを押し付けられる。
果ては、汚された寝巻きの責任まで背負わされた。
「芋女には芋女の場所があるのよ」
「小麦畑に帰った方が幸せなんじゃない?」
「芋女には麦男がお似合いよ」
陰口は日常だった。
アンは歯を食いしばり、何も言わず、ただ作業を続けた。
⸻
ある日の夜の刻、三日月が、静かに夜空に浮かんでいた。
ヘンリーの私室には、いつもと同じ灯りがともり、同じ机、同じ椅子、同じ香りが満ちていた。
皿の上には焼き色のついたアップルパイ。
杯には淡い白ワイン。
ヘンリーはそれを頬張りながら、珍しく一人きりで部屋にこもっていた。
机の上には政書が積まれ、本棚から引き抜いた巻物や書簡が無秩序に広げられている。
彼は指で行をなぞりながら、ぶつぶつと独り言を漏らした。
「これはこうで……それは、そうか」
パイを一口。
「ふーん……合わんなあ……」
ページをめくる音と、食器が触れ合う小さな音だけが、部屋に響いている。
誰かに見られている気配はない。
付き添い人も下がらせていた。
――そのはずだった。
キュイイイ……
金属が軋むような、いや、木が悲鳴を上げるような音が、部屋の奥から聞こえた。
ヘンリーは顔も上げず、口の中のパイを咀嚼したまま言った。
「今は取り込み中だよ」
視線は政書に落とされたまま。
「アップルパイのおかわりなら、自分で取りに行く。今は要らないよ」
返事はない。
ヘンリーは眉をひそめ、苛立ちを込めて声を強めた。
「聞こえてないのか?」
ページを閉じ、椅子に深く腰掛けたまま言い放つ。
「アップルパイは欲しい時に行くと言っている!!」
その言葉と同時に、彼はようやく視線を上げた。
政書から。
机から。
そして――扉へ。
たしか扉は、閉めたはずだ。
そういえば鍵も、掛けたはずだった。
「.....ああっ......あっ」
ヘンリーの顔から、血の気が一気に引いていた。
同時刻、アンが割れた皿を箒で集めていると、奥から突然声がしたので驚き、取り乱す。
「まだ終わってないの??」
「……ん...まだ途中でございます」
近づいてきた女が、床の破片を見下ろす。
「これ、落とした皿じゃないわね」
アンは一瞬迷い、それでも答えた。
「落とした皿は、中心から放射状に割れます」
「...」
「“放射状”って言葉……センスいいわね」
女はじっとアンを見つめ、口元を緩めた。
「さては頭がいいな?」
「……」
「私、アシュリー。あなたみたいな女を探してたの」
彼女は手を差し出す。
「これは運命ね」
アンはその手を見つめ、ゆっくりと握り返した。
⸻
それから二人は相棒になった。
アンの知恵と、アシュリーの手際。
増え続ける仕事を、夜遅くまで支え合いながらこなした。
しかし母の罵声は消えなかった。
それでも、アンの目は次第に強さを帯びていった。
⸻
ある夜。
「アン! 私もう帰るね! あとはよろぴく!」
一人で作業を続けていると、背後から声がした。
「……お姉さん、アンだよね?」
振り返ると、そこにはメアリーが立っていた。
「どうしたのですか、メアリー様」
「あなた、頭がいいって聞いた」
少し間を置いて、彼女は言う。
「あなたの言葉選びにすごいと思ったわ。もし本気で口喧嘩したら私、負けると思う」
それだけ言って、メアリーは去っていった。
アンは再び作業に戻る。
だが、背中に刺さる視線に気づく。
扉の影。
そこに立っていたのは、大柄の体格で真紅の液体を入れたいをグラスに入れた男であった。
彼は、じっとアンを見つめている。
「あの娘は……」
その視線が、やがて国を揺らすことを、
この時のアンはまだ知らなかった。
翌日、アンはメアリーの母と娘がよく祈りに訪れる教会へと呼び出されていた。
王城の本殿から外れたその教会は、石畳の坂をいくつも越えた先にあり、辿り着く頃にはアンの息は上がっていた。
「お待たせ致しました。お母様」
そう声をかけると、冷え切った空気が一層重くなる。
メアリーの母はちらりとも振り返らず、ゆっくりと息を吐いた。
「ええ。時間も大切にしない生意気な小娘ね」
その言葉に、隣にいたメアリーの口角がわずかに下がる。
先ほどまで浮かべていた余裕の表情が、見る見るうちに陰っていった。
「――あんたに話があって呼んだの」
母はそう言うと、胸元から一枚の紙を取り出した。
厚手の羊皮紙に、紋章と日付、そして舞踏会の招待を示す文言。
「芋娘。これに私の付き人として参加しなさい。
当然あんたは黒子よ。表に出しゃばってくるんじゃないわ」
紙を突き出すように渡され、さらに吐き捨てるように言われる。
「さっさと出てってちょうだい。娘との大切な時間を奪わないで」
アンは小さく一礼し、何も言わずに教会を後にした。
⸻
城へ戻るなり、アンはアシュリーを探し出した。
「アン!やるじゃん。いいチャンスよ!」
声を弾ませるアシュリーに、アンは首をかしげる。
「チャンス、とは?」
「決まってるでしょ。
一番いいのは将来の旦那さんが見つかること。この仕事、辞められるわよ。
まあそれがなくても、侍女としての待遇が良くなるのは間違いない」
「……なるほど」
「だから、このチャンス逃しちゃだめよ」
アンは少し考え、控えめに笑った。
「んー……やってみますね」
「その意気!」
アシュリーはそう言って手を振り、残った仕事を片付けるために元の持ち場へと駆けていった。
⸻
舞踏会の夜。
大広間は、まるで別世界だった。
天井から垂れる無数の燭台が、金と白の光を床に落とし、磨き上げられた大理石がそれを反射する。
壁を覆うタペストリー、柱に絡む装飾、遠くで響くオーケストラの調律音――すべてが華やかで、息をのむほどだった。
メアリーの母と娘、そしてアンは人の波を抜け、中央の特等席へと向かう。
その途中、メアリーの母がふと視線を斜めに逸らした。
アンもつられて目を向ける。
そこにいたのは、煌びやかな衣装に身を包んだヘンリーだった。
赤ワインの杯とロースト肉を手に、役人たちと朗らかに談笑している。
「……お母様」
メアリーが小さく呟いたが、すぐに口をつぐんだ。
特等席に着くと、メアリーの母が低い声で言う。
「分かってるわよね。主役は国王様と、私と娘。
あなたは私たちを輝かせるのよ」
「はい。仰る通りです」
アンは静かに答え、母娘の背後に控えた。
⸻
やがて合図が鳴り、舞踏会が始まる。
オーケストラが一斉に音を奏で、男女が中央へと進み出る。
ヘンリーとメアリーの母は、自然と人々の視線を集める位置に立った。
優雅に手を取り、音楽に合わせて一歩、また一歩。
二人の動きは洗練され、まるで舞台の中心に据えられた主役同士のようだった。
絹のドレスが翻り、宝石が光を弾く。
人々はその様子を称賛の眼差しで見つめていた。
――それが、この場の“正しい姿”なのだと示すように。
⸻
音楽が変わり、ペアは次々と入れ替わる。
人の流れに紛れながら、ヘンリーはゆっくりと中央を離れ、端へ、さらに端へと移動していった。
役人と何事か言葉を交わした後、その姿は人影に溶けるように消える。
一方アンは、特に役目もなく、白ワインを口に含んでいた。
優雅な旋律に気分が少しだけ軽くなり、知らず頬が緩む。
その時だった。
肩を、とんと叩かれる。
「君……君だよ」
振り向くと、そこに立っていたのは――
「ふえええ。何でしょうか? 只今お取り込み中でーす」
「ほっほっほ。面白いことを言う女だなあ」
男は楽しげに笑う。
「私が誰なのか、分かっているのかな?」
「まあ。どうして隣にヘンリー国王がいらっしゃるのかしら。
夢でも見ているみたいですね」
「君は実に面白いっ!最高だ」
ヘンリーはそう言い、アンの左手を取った。
「ここから抜け出そう。お気に入りの場所へ連れて行こう」
抗う間もなく、二人は大広間を後にした。
⸻
廊下を進みながら、アンは半ば呆れたように言う。
「待ってください、大柄なお兄さん。
まさかですけど、あなた国王様ではないですよね?」
「そうだが。朕は紛れもなくヘンリーだよ」
「……ふふっ……ん……あははは」
アンは一瞬考え、そして笑った。
辿り着いた先は、月明かりに満ちた吹き抜けだった。
ステンドグラスに描かれた月と太陽の紋様が、淡く輝いている。
「美しいだろう。私のお気に入りの場所だ」
ヘンリーは続ける。
「君は月のようだ。不思議で、可憐で……
まるで天から降りてきた使いのようだ」
「ふふ。あなたも太陽のような方です。
多くの人に影響を与える、偉大な存在」
その言葉に、ヘンリーは初めて見せるような柔らかな笑みを浮かべた。
「君の名がアンであることは知っている。
ずっと、ずっと君を見ていた。
好きだ。この夜だけでも、君を愛したい」
⸻
ヘンリーが魔法で音を広げると、誰にも気づかれぬまま、二人は月光の下で踊り始めた。
ステンドグラスを通した光が、カーペットに、ローブに、大理石の手すりに反射し、きらめく。
オーケストラの旋律に身を委ね、時間を忘れるほど、二人は舞い続けた。
やがて音楽が最高潮に達する。
ヘンリーは、あまりにも美しいアンの横顔に見惚れていた。
アンは静かに目を閉じ、身を預ける。
「アン。朕は、君を愛している」
そのまま、熱を帯びた口づけが交わされた。
⸻
導かれるまま辿り着いたのは、寝室だった。
ベッドに腰を下ろし、抑えきれぬ想いが距離を縮める。
「アン……君を見た時から、胸が高鳴っていた。
真面目に働くその姿は、まるで月の女神のようだ。
今夜は、すべてを知りたい……君の内側まで」
アンはくすりと笑う。
「面白いことを言いますね。でも、ダーメ。
私の内側を知りたいなら、王妃にしてください。
王妃でなければ、心の底までは分かりませんわ」
「約束しよう」
ヘンリーは囁き、そっと灯りを魔法で消した。




