第二話 Dully
第二話 Dully
霧はいつの間にか晴れ、台地には夕空が差し込み始めていく。低く垂れた雲の切れ間から、鈍い橙色の光が地面を撫でた。エリザベスは兵士長に導かれながら、戦場跡をゆっくりと回る。
「ああ...」
「痛え...何とかならねえのか?」
「腹減った...俺の分まで持ってきてくれ...金ならある」
目に入るのは、麻布を地面に敷き、腰を下ろす兵士たちの姿だった。脛は赤く腫れ上がり、鎧を外した足元には泥がこびりつく。仰向けに倒れ、何も言わずに夕空を眺めている者。痛みを訴え暴れる者。瞳を閉じて死んでるのかわからない者。
それでも立てる兵士たちは、片手に樽のようなジョッキを持ち、肩を組み合いながら今日の戦果を語り合っていた。笑い声が上がり、互いの健闘を認め合う声が混在。
座り込んだ兵士たちも、その光景を眺めながら、そばに置かれたジョッキへ手を伸ばす。勢いよく中身を喉へ流し込み、苦そうに、そして満足そうに息を吐いた。
「…まあ...皆、頑張ったわね」
その言葉に、兵士長は一歩前へ出て深く頭を下げる。
「女王陛下が前線で我々をサポートしてくださったおかげです。北の国は一度、確かに退きました。誠にありがとうございました」
「いえ。お気になさらず」
「陛下が...将軍を倒されなさったとお聞きしました...それは左様なのでしょうか?」
「あ...ああ!それは...誰かがホラを吹いてるんですよ〜きっと...ねえ。こういう時は朕が伝説になりやすいというか...」
「そうでしょうか...まあ陛下が違うと言うのであれば」
「えへへへ...」
エリザベスは誤魔化しながら笑うと、再び歩き出した。兵士長はその後ろにつき、少し言いづらそうに声をかけた。周囲は焚き火がパキパキと割れる音と談笑する男の声が響き渡る。
「...陛下」
「何でしょうか?」
「もしよろしければですが……今宵は静かに、ささやかな宴をと思いまして。晩餐をご一緒されてはいかがでしょうか?」
エリザベスの視線の先には、黒い窯があった。焚き火の火力でぐつぐつと煮え、白い湯気。中からはじゃがいもや玉ねぎが透けて見える。兵士が木のお玉で中身をかき混ぜると赤く、どろりとした液体。その中に、黄色い粒が浮かんでいる。エリザベスは、無意識にその粒へと視線を留めた。
「……いえ」
突然嫌な顔をして、静かに首を振った。
「私はそろそろ王国へ戻らなくては。お気遣いありがとうございます」
「そう...ですか……」
兵士長はすぐに姿勢を正し、足をそろえて敬意を込めてお辞儀をし始めた。
「陛下がお忙しいことは承知しております。ごゆっくり宮殿でお休みください」
深い敬礼。兵士長は黒い窯の横を通り過ぎ、奥へと案内する。その途中、誰にも聞かれぬよう、耳を塞ぐ仕草で小さく何かを呟いた。
奥へ、奥へ。
やがて、かつてここまで乗ってきた馬車が、エリザベスの前で出発の準備を整えていた。馬は鼻を鳴らし、革具が小さく音を立てる。兵士長は最後にもう一度、真っ直ぐに立つ。改めて足を揃えて一礼。
「女王陛下。我々は必ず、北の国との統一に向けて、陛下のご期待に応えられるよう精進して参ります。またのご参観を、お待ちしております」
「では...ご健闘をお祈りいたします。」
エリザベスは穏やかに微笑んで手を振った。
「素晴らしい結果を期待して降ります。ご武運を...」
「はい!本日は誠に、ありがとうございましたっ!!」
兵士長が敬礼。エリザベスは、軽くぬかるむ泥の台地に左手を挙げ、足を持ち上げて馬車へと踏み込んだ。夕空の光が、ゆっくりと彼女の背中から離れていき、緑の台地へと再び戻っていった。
⸻
カラコロ...カラコロ...
次の日光が当たっている頃。馬車の中で暇そうにするエリザベス。宮殿に着くまでおよそ十日ほどかかるためだ。何もすることがない彼女は襟から月のペンダントを取り出した。ボタンを押して青く輝くラメを見つめて傍観するエリザベスは三日月模様を見て、パッと閉じた。
「はあ...あの...いつ頃着きそう?」
「七日はかかりますよ。まだ三日目です」
「嘘だ〜ろ...」
エリザベスは髪をくるくるさせながら目を閉じて考え事をした。長旅はもう少し時間がかかりそうである。
気づけば月と太陽は大地の上で走り始めた。空は暗くなり明るくなってはまた暗く。太陽の後に月が出て、月の満ち欠けが三日月から半月に変わっていった。
⸻
馬車の中で、エリザベスは壁に寄りかかる。揺れは穏やかで、戦地から戻る道としてはあまりにも静かすぎる、そう思った、そのときだった。外が、妙に騒がしい。ざわめき。拍手。どこか浮き立った空気。エリザベスは眉をわずかに動かし、カーテンを指先で押し上げ、窓を開けた。
そこに映った光景に、思わず目を細める。長閑な宮殿の庭。本殿へと続く道の両脇に、人々が並び、二本の線を成していた。まるで「ここを歩け」と言わんばかりに整えられた、人の道。皆に待たれていたのだった。馬車に気づいた瞬間、拍手と歓声が一斉に湧き上がる。エリザベスはそれを見て、馬車の中で小さく息を吐いた。
「…はあ」
女王になったとき、彼女が望んでいたのは、もっと静かな日常だった。過度に期待されず、必要以上に持ち上げられず、仕事をして、判断して、眠る。それだけでいいと思っていたはずなのに視線は常にこちらを向く。
百八十度、逃げ場のない角度。
エリザベスは諦めたように小窓から身を乗り出し、応えるように軽く手を振った。歓声はさらに大きくなる。
「...やれやれ」
馬車が停止。扉が開かれ、足元にはすでに召使いたちによってマットが敷かれていた。エリザベスは一瞬、眉をひそめたが、何も言わずに足を下ろす。赤い絨毯に、靴底についた。
「エリザベス様! お帰りなさいませ!!」
「我が国の象徴っ!!」
「心より感謝致しますっ!!」
庭は、熱気に包まれていた。戦地から戻った女王を讃える声、拍手、歓声。役人、軍人、侍女、幹部まで様々な立場で宮殿に関わる人たちによって凱旋されていたのだった。エリザベスは、再び小さくため息。
「…はあ。めんどいって」
一歩、また一歩。手入れの行き届いていない三角形の低木のオブジェの間を抜け、茶色い染みの浮いた白薔薇の花壇を横切る。人と人の間にできた道から、逃げることはできない。彼女は前だけを見て、何も言わず、水の出なくなった噴水を通り過ぎた。
——
本殿に入ると、背後にはいつもの護衛兵。今日は四人。
正面に一人、背後に二人、先導が一人。視界のほとんどは、鋼。鎧。武装。正直、うんざりであった。時刻は正午過ぎ。人々は食事を終え、それぞれの役目へと戻る時間帯だ。
鋼の隙間から、エリザベスの視界にはさまざまな人影が映る。急ぎ足で客間へ向かう侍女。議会にプロフェッサーとして招かれたであろう、黒いローブの魔法使い。議員に案内される異国の来賓。胸に無数のバッジをつけ、談笑する使節団。そして逆方向へ駆けていく役人たち。
この大廊下は、国に従える様々な立場の人が行き交う場、ここが変わると国、世界までが変わってしまう。
そんなことを思っていた時、正面から大柄な兵士に導かれ、若干小柄な兵士がついて歩いてくるのが見えた。
訓練兵だろう。宮殿の警備は、彼らにとって最初の任務だ。エリザベスは、何気なくその列に目を向けた。
「あ」
後列。鋼のヘルメットの隙間から覗く、金髪。そばかす。少し赤い頬。
(…どこかで、見たことある)
歩きながら首を傾げ、記憶。そして、ふと思い至った。あの子じゃないか?そう気づいた彼女は引き止める。
「ちょっと。そこの訓練兵たち!」
声を上げた瞬間、周囲が静まり返ると視線が一斉にエリザベスへ向く。先導していた大柄な兵士が、ぎこちなく振り返る。鎧が、かすかに音を出す。
「も...申し訳ありません、国王陛下…何か、御不快な点が…」
「いいえ。そうではなくて」
エリザベスは首を振って弁明した。
「あなたたちの中に一人...気になってる子がいるの。悪い意味じゃないわ」
スタ...スタ...スタ...
「ねえ...君」
「は...はい」
「これは命令よ。兜を脱ぎなさい」
訓練兵は無言で顎紐を外し、軽く頭を振る。右腰に兜を当てると、その顔がはっきりと現れた。
「…やっぱり。あんた...ラルフじゃない!」
ラルフは、女王を前にして言葉を失った。その様子に気づき、エリザベスは少しだけ声を和らげる。
「いいのよ。普通に話しなさい...あんたの話が聞きたいの」
ラルフの強張っていた表情が、わずかに緩む。
「…まあ…理由は、何となく分かってるけど...なんで兵士になったの?」
「ローレン…あ、いや…姉ちゃんが…兵士になれってうるさくて…」
へへと照れたように笑うラルフ。その答えに、エリザベスは一瞬、目を見開く。
「…そう。まあ、頑張りなさい」
ラルフの肩を叩いた後、振り向きざまに言葉を残した。
「訓練兵としての実績が良ければ、そのうち、この人たちみたいに私の周りにつけるわ。覚えてたら、名指ししてあげる」
「…はいっ!日々、精進して参りますっ!!」
エリザベスは軽く頷き、護衛兵へと向き直った。
「失礼。行きましょうか」
再び鋼に囲まれ、彼女は本殿へ向かって歩き出す。周囲は、何事もなかったかのように、再びざわめきを取り戻した。女王は、ただ前を向いて歩いていった。
⸻
エリザベスは重厚感のあるデスクに肘を乗せ、茶色の椅子にお尻を半分だけ預けて前傾になっていた。頭を抱え、退屈そうというより、思考を止めた顔をしている。
「はああああ〜やかましいっ!!!」
コンコン...
「誰よっ!!」
「セシルです陛下。入ってもよろしいでしょうか?」
エリザベスは顔を上げ、扉の方へ目だけを向けた。
「セシル??いいわよ入って!」
「失礼します」
扉が開き、姿を現したのは、やや白髪混じりの髭と髪を持つ男だった。黒く厚みのある衣装に身を包み、姿勢は崩れていない。代々王の側近に置かれてきた名臣、その名にふさわしい落ち着きがあった。
「戦地でのご活躍を当方も拝聴させて頂きました。まずはお疲れ様でした」
「ええ。いいのよ」
エリザベスは軽く手を振り、深く追及する気はないという態度を示す。セシルはゆっくりと接近。手元には数枚の紙が見えた。
「陛下がいらっしゃらなかった間、色々当方で整理したものがあります。ですので意思決定の方をお願い致します」
セシルはデスクの前に腰を下ろし、整えられた資料を静かに並べた。紙の端は揃い、余白も計算されている。エリザベスは資料を手に取り、上から下まで目を通した。一度目大体。二度目細部まで。いつものことだが、要点は無駄なくまとめられていた。
「まずは…北の国の出兵が一番陛下に馴染み深いと思います。北の国には我が国は約千八百から二千ほどの兵を配備する予定です。その理由と致しまして、どうやら…北の国は芸術の国から色々支援を受けてると伺っております。」
エリザベスは資料から視線を外し、眉をひそめた。
「何で芸術の国がわざわざ北の国に支援するわけよ?北の国と芸術の国って関係なくない?海を超えた先でしょ?」
セシルは一拍置いてから開口。
「メアリー様はご存知でしょうか?北の国の女王様です」
「ええ。名前だけ聞いたことある。確か...私の親戚でしょ。一度も会ったこともないけど」
「はい。その通りなのですが...北の国の事情に詳しい者の話によると...実はメアリー様は、フランソワ様と結婚なされています。そのフランソワ様が、芸術の国の国王です」
エリザベスは一瞬目を伏せ、理解が追いついたところで小さく息を吐いた。
「あー。なるほど理解した。妻がピンチだって分かってるから兵士やら物資やらこっそり送ってるわけね...かなり追い込まれてるじゃない?」
「はい。おっしゃる通りでございます」
セシルは淡々と頷く。
「では。北の国に二千ほどの兵を遣わせてよろしいでしょうか?」
エリザベスは迷う素振りもなく顔を上げた。
「まあ…私情で芸術の国から何人送り込んでくるか分からないからね…いいよ!念の為ってやつは大事だと思うわ」
「ありがとうございます。状況に変化があり次第ご相談させて頂きます」
一枚目の案件は、静かに片付いて次の話に遷移した。
「続いてですが、国教会についてです」
その言葉を聞いた瞬間、エリザベスは視線を落とした。
「出たーそれ。クソ親父...マジ死ねよ…死んでるけど」
エリザベスは下を向いたまま、しばらく動かない。顔を手の平で覆うと十秒ほど沈黙が流れた。
「…はあ」
腹に覚悟を決めるように息を吐き、セシルを見た。
「はあ…セシル。話って何?」
「国教会の方針をユニバックかレジスタントどちらの方向性で我が国として声明を出すかについてです。我が国はすでに北の国統一に向けて、ユニバックが主体である北の国と既に争っておりますが…」
エリザベスは即座に顔を上げ、指を向けた。
「そんなのレジスタントに決まってるでしょ?お姉様が正直あれはやりすぎよ!今さら...ユニバックにしますってもう無理でしょ!」
「はい。陛下の仰る通りですが…」
セシルは髭に手を伸ばし、言葉を選ぶように黙り込んだ。
「まず。現実なことを言います。これは陛下を非難してるわけではありません。レジスタントの準備をする過程で起こる障害について説明します」
「はいはい...」
「まず一つ目は議会です。ユニバックを支持する議員の中にはお姉様の統治していた時代の重鎮がたくさんいます。その中で最も影響力のある男はハワードです。ハワードは間違いなく国教会をレジスタントにする方針に反対するでしょう。彼は長年にわたって議会に座る言わば皇帝です。レジスタント派もかなり彼の威圧に影響を受けると思います」
「ハワードね…知ってたよ。だと思った...」
「当方はレジスタント側につき、陛下をお守り致します。命についてはご心配は不要かと思います」
「本当にそ〜れは助かるう〜」
「二つ目はユニバックの総本山です。皇王の国では間違いなく。教皇様は国教会およびレジスタント、さらには陛下まで非難されると思います。最悪お父様のように直々に教皇様から破門されることは可能性として視野に入れてください」
エリザベスは机を軽く叩いた。
「だよね…絶対言ってくるよね…しかも来もしないで」
「そして三つ目は諸外国です。さっき言った通り、間違いなく北の国と芸術の国は敵対します。さらに情熱の国も、皇王の国も我が国に対して制裁や緊張感のある状況が継続する可能性が高いです。外交に関しては不利になるでしょう」
「ちっ…あの不細工ならやりかねないんだよなあ…」
「いかがでしょうか?それでもレジスタントの方針に切り替えることで決定致しましょうか?」
エリザベスは俯いたまま、頭の中で思考を巡らせていた。指先がこめかみに触れ、やがて停止した。
「陛下。どうされますか?」
「セシル…国教会はちょっと考えるわ。あなたの言ってることは正しいし、今決めきれないのよ。」
「お気持ちは非常に分かります。できる限りはサポート致します。」
「たぶんだけど…もう少し違う切り口じゃないと決めきれないような気がする。セシル...お願いだから最初からユニバックとレジスタントが分かるもの長くていいからまとめてもらえる?」
「はい。承知いたしました。すぐに準備にかかります」
セシルは立ち上がり、椅子を引く音だけが室内に残る。
「当方は陛下を全力で支援します。必ず期待に応えて見せます。失礼いたしました」
バンッ...
扉が閉まる。
「はあ…..クソ親父…」
エリザベスはデスクに肘をつき、顔を覆ったまま動かなくなってしまった。




