第二十三話 インフィルテーション
第二十三話 インフィルテーション
「……アシュリー。決めたんだ。今、行くしかないって」
夜。
闇に沈み、音を失った屋敷の広間に、二人の姿だけがあった。
高い天井の下、暖炉の炎がぱちぱちと音を立てて燃え、揺れる橙色の光がエリザベスとアシュリーの輪郭をかすかに浮かび上がらせている。
「話は聞いているわ」
アシュリーは静かに言った。
炎に照らされたその表情は穏やかだが、迷いはなかった。
「ベス。あなたの心の中で、きっともう分かっていたはずよ。
今やらなければならない。これ以上先延ばしにすれば、すべてが終わる……そう思ったでしょう」
エリザベスは小さくうなずいた。
「うん。やるしかないんだ。
……そう、民衆に誓ったから」
その言葉を聞くと、アシュリーは三歩、前に出た。
ためらいなく距離を詰め、エリザベスの肩に両手を置き、軽く、しかし確かに叩く。
「いい。やると決めたなら、覚悟を持ちなさい」
一瞬の沈黙。
炎が弾ける音だけが広間に響く。
「死ぬ覚悟、という意味じゃないわ。
お姉さんを止める覚悟。
そして、明るい未来を切り開く覚悟」
アシュリーの目は、真っ直ぐにエリザベスを捉えていた。
「ベスは、最後までその覚悟を持って戦いなさい。……約束よ」
「ああ」
エリザベスは強く息を吸い、答えた。
「行くよ、アシュリー」
アシュリーは満足そうに微笑み、肩から手を離すと、くるりと背を向けた。
歩き出しながら、腕の裾を捲る。
「四時間後には屋敷を出て馬車に乗るわ。それまでに戦いの準備をして。
門の前で集合。十時に、また会いましょう」
そう言い残し、アシュリーは扉を開け、準備のために姿を消した。
⸻
エリザベスはアンソニーの屋敷へ戻り、静かに戦いの支度を始めた。
最初に手に取ったのは、黒いマントルだった。
深夜、宮殿に侵入する以上、姿を晒すわけにはいかない。
彼女はそれを肩にかけ、頭まで深く被る。
次は剣。
鞘に収められたまま、チェストの奥にしまわれていたそれを取り出す。
エリザベスは剣帯の紐を肩からくぐらせ、背中へと回した。
重みが、決意を現実へと引き戻す。
最後に、彼女は書斎の机の上に置かれた黒い塊へと近づいた。
月明かりが窓から差し込み、袋の中にある黒い塊を淡く照らしている。手に取ると、ひんやりとした感触が指先に伝わった。さらに手が黒く汚れる。
「……これ、何なんだろう……」
ラルフ。
まだ八つにも満たない子供から渡された贈り物。
――これはきっと、役に立つから!!
幼い声が、記憶の底から蘇る。
――友達の贈り物は、きっと意味があるわ。大切にしなさい。
今度は、別の声。
アシュリーの、穏やかな助言。
「……ラルフ……アシュリー……」
エリザベスはしばらく考え、黒い塊をそっと服の内側にしまった。
信仰ではない。
確信でもない。
ただ――子供の言葉には、可能性がある。
彼女はそう判断しただけだった。
やがて、窓の外に浮かぶ月を見上げる。
服の中から月のペンダントを取り出し、右手で強く握りしめた。
「……行ってきます。お母様……」
祈りを終えると、エリザベスは部屋を後にする。
アンへの挨拶を胸の中で済ませ、アシュリーの屋敷へ向かうため、一歩――左足を踏み出した。
⸻
馬車は夜道を進み、カラコロ、カラコロと規則正しい音を響かせていた。
揺れる車内で、エリザベスとアシュリーは向かい合って座っている。
小窓から差し込むのは、雲一つない夜空と、静かに輝く満月。
星々の光が、黒いマントルに包まれた二人の輪郭を淡く縁取っていた。
アシュリーは月を見上げたまま、ふと小さく呟く。
「ベス……覚えてるかしら。十七年前……宮殿へ向かう馬車の中で、月と太陽の物語を読み聞かせたこと」
エリザベスは一瞬、目を伏せる。
記憶は曖昧だったが、確かに残っていた。
「覚えてるよ。あれって最後……太陽を押した月が怒って……
それで、太陽がごめんって謝って、仲直りする話だよね?」
アシュリーは、かすかに微笑んだ。
「そう……懐かしいわ」
そのまま、少し間を置いてから、ひっそりと語り出す。
「……あの話、正直に言うとね。今の時代に、一番足りないことだと思うの」
「え?」
「どっちが正しいかで争うんじゃなくて……
お互いの思いを汲み取って、認め合うこと。
そんな国であるべきだと思ってる」
馬車の揺れが、わずかに強くなる。
「そうだね……」
エリザベスが静かに応じると、アシュリーは続けた。
「ベスが女王になったら……争うのではなく、話し合って解決できる人になってほしいな」
その言葉に、エリザベスは返事をしなかった。
ただ、前を見つめる。
やがて、馬車が減速した。
「着きました。降りるご準備を」
御者の声が外から響き、馬車はピタリと止まる。
アシュリーは視線をエリザベスに合わせ、小さく合図を送った。
その瞬間、アシュリーの肩が、わずかに震えた。
「……ごめんなさい、ベス……」
俯いたまま、声がかすれる。
「覚悟なんて……偉そうなこと言ったけど……
ベスが、いなくなっちゃうなんて……嫌だわ……」
エリザベスは、息を呑んだ。
一瞬だけ、言葉を探す。
そして、決めた。
「私は……お姉様を止めるって決めたから」
ゆっくり、はっきりと告げる。
「新しい未来を作るって、決めたから。
……もう、戻らない」
視線を逸らさず、続ける。
「私は、最後まで戦うから」
「……ベス……」
アシュリーは顔を上げ、かすかに笑った。
「最後かもしれないお願いを、聞いてくれる?
……最後に、私を抱きしめてほしい」
エリザベスは答えず、ただ立ち上がり、アシュリーを抱きしめた。
強く、強く。
二つの肩がぶつかり、体温が重なる。
言葉はなくとも、母娘の絆だけが、確かにそこにあった。
「……御者さん。降ります」
エリザベスが先に馬車の段差を降りる。
その手を取り、アシュリーも導かれるように外へ出た。
夜の宮殿が、二人を待っていた。
⸻
二人の視線の先、宮殿へ続く通路の入口に、二人の兵士が立っていた。
深夜の検問。
本来なら物資搬入の時間帯だが、この時間に通る者はほとんどいない。
「ベス。まずはサイレンスを使って」
「うん」
エリザベスが小さく息を整え、魔力を走らせる。
音を奪う魔法――サイレンス。
次の瞬間、二人の兵士の周囲から、足音も鎧の擦れる音も、すべてが消えた。
エリザベスは疾風走で左奥へ回り込む。
風に溶けるように姿がぶれ、気づけば死角。
一方、アシュリーは右手前、兵士から二十メートルほど離れた位置に立っている。
エリザベスが右手を上げる。
アシュリーが無言でうなずいた。
「夢見粉」
アシュリーの体が風に押されるように瞬時に移動し、兵士の背後へ。
右手をヘルメットの中へ差し込む。
兵士は声も立てず、その場で力を失った。
甲冑を着たまま、ぐったりと崩れそうになる。
二人が即座に魔法を重ねる。
「フィックスド」
鎧ごと、地面に固定される。
兵士は立ったまま眠りに落ち、外見上は何も変わらない。
「……よし。上手く行った」
二人は無言で合流し、そのまま奥へと進んだ。
⸻
庭園に出ると、空気が変わった。
苗木の周囲、噴水の縁、芝生の庭、中央の通路。
目視できるだけでも、六人から八人の兵士が広範囲を巡回している。
「アシュリー。いくよ」
「準備万端よ」
二人は同時に苗木の影へ飛び込んだ。
その瞬間、一人の兵士が人影に気づいたように足を止める。
周囲を見回し、首をかしげた。
「夢見粉」
「フィックスド」
兵士はその場で静かに眠り、甲冑に固定される。
まるで警備中の像のように、動かない。
「いいね。いいね」
苗木の影を伝い、低く身をかがめて移動する。
次に見えたのは、噴水のそばに立つ二人の兵士。距離はおよそ十メートル。
アシュリーが小さく囁いた。
「ベスなら、どうする?」
「……水属性しかないでしょ」
エリザベスは噴水の水たまり一点に意識を集中させ、右手を突き出す。
水がうねり、触手のように伸び上がった。
そのまま、右手を左へ薙ぎ払う。
水の塊が背後から二人の兵士を絡め取り、声を奪う。
「おい……なっ……ゔゔゔゔゔ」
「だいじょ……ゔゔゔゔゔ」
声にならない音を残し、二人は噴水の水たまりへ引きずり込まれた。
エリザベスは間髪入れずに詠唱する。
「基礎魔法:水 氷結界」
水面が一瞬で凍りつき、兵士ごと固まる。
氷像のように、完全に沈黙した。
「正解! 天才!」
二人は小さく笑い合い、そのまま裏庭へ向かって走り抜けた。
⸻
裏庭の警備が緩いことは、事前に把握していた。
ここが最も侵入しやすい場所。
「ここも、ベスじゃない?」
「……土属性がいいかも」
エリザベスは右手を前に出し、地面へ魔力を流し込む。
「基礎魔法:土 岩楼」
地面にひびが走り、ドンッという鈍い音とともに、
高さの異なる円筒状の岩が三本、突き出た。
「やっぱ天才だね! すごいよっ!」
「えへへへ……」
二人は岩の段差を駆け上がり、勢いのまま窓へ。
ガラスが砕ける音は、サイレンスの中で外へ漏れない。
そのまま、闇の中へ――
二人は宮殿内部へと侵入した。
⸻
宮殿の内部は、異様なほど静まり返っていた。
見回りの兵士の姿はなく、足音ひとつ響かない。
二人はイグナイトをかけると、人差し指に火を灯し、暗い宮殿を探索し始めた。
「……誰もいなそうね」
アシュリーが小声で言い、先導する。
二人は倉庫を抜け、重厚な扉の向こうへ出た。
そこには、奥まで見通せないほど長い廊下が続いていた。
壁際の柱に身を寄せ、角に隠れて様子をうかがう。
――気配、なし。
視線を交わし、阿吽の呼吸でうなずくと、二人は音を殺して前へ進んだ。
やがて、左手に大広間へと繋がる廊下が見えてくる。
赤いカーペットが敷かれ、天井の高い空間が闇の奥に口を開けていた。
「……ここよっ!」
アシュリーが小さく合図し、カーペットの上へ踏み出した、その瞬間。
カサカサ……
微かな、乾いた音。
エリザベスが違和感を覚えた時には、すでに遅かった。
「危ないっ!」
バタンッ――。
アシュリーの体が、左角で前につんのめるように倒れた。
布が擦れる音が、静寂の中で不自然に響く。
「アシュリー!」
エリザベスは暗闇の中、音を頼りに駆け寄り、しゃがみ込んだ。
床に手を伸ばした瞬間、指先に触れたものに息を呑む。
「……緑、だ」
目を凝らすと、そこには葉。
太く、絡み合う茎。
それらは床から伸び、壁を這うように、廊下の角を囲んでいた。
「……ツタ……?
なんで、ツタがこんなところに……」
室内。
石造りの宮殿の、しかも通路のど真ん中。
不自然すぎる。
アシュリーのマントルに視線を落とした瞬間、さらに違和感が重なった。
布地のあちこちに、細かなトゲが絡みついている。
「……オナモミ……?」
思わず声が漏れた。
宮殿の中にあるはずのない植物。
その種子が、アシュリーのマントルにいくつも食い込んでいる。
「ベス! こっち来てっ!」
「なに?」
「私の服についてる……その、オナモミを取ってほしいの!」
エリザベスは急いで近づき、マントルに手を伸ばす。
一つ外すたび、指先にチクッとした痛みが走る。
「……っ」
無言で、丁寧に取り除いていく。
「ありがとう、ベス……
でも、なんでオナモミが……?」
「さっき、ツタを見た。
建物の中に、植物がある……」
エリザベスは顔を上げ、廊下の奥を見つめた。
「……どういうことだろう」
答えは出ない。
ただ、嫌な予感だけが、はっきりと胸に残る。
エリザベスはアシュリーの手を取り、体を起こした。
「行こう。ここ、長居する場所じゃない」
二人は足早に、広い廊下の奥へと進んでいった。




