第二十話 後解任
第二十話 後解任
エリザベスは、水面の上にいた。
小さな舟の周囲を、数人の兵士が取り囲み、息を合わせてオールをかく。そのたび、舟はゆっくりと前へ進む。
エリザベスは仰向けに近い姿勢で空を見上げ、久しぶりに浴びる朝の日差しを、胸いっぱいに吸い込んだ。
自然と背筋が伸びる。
「……うーん。やっぱ朝日はいいね!」
小さくあくびを漏らし、両腕を思いきり天へ伸ばす。
冷たい石の天井も、鉄格子もない。
ただ、光があるだけだった。
⸻
「エリザベス様! エリザベス様!!」
「お帰りなさい……お帰りなさい!」
「我々の希望の光だ!!!」
岸が近づくにつれ、声が波のように押し寄せてきた。
歓声は、船が進むほどに大きくなっていく。
その中で、ひときわ高い声が響いた。
「おーい!! お姉ちゃんっ!!」
「……ラルフッ!!」
先頭にいたのは、ラルフと、その姉だった。
二人は必死に手を振っている。
エリザベスも、舟が揺れない程度に、控えめに手を振り返した。
岸に着くと、兵士の一人が小さく頭を下げた。
「……すまなかった。これからのご幸運を」
「怒ってないですよ。あなたたちは、役目を果たしていただけですから」
兵士たちが足を揃えて敬礼し、去っていく。
振り返ると、そこには見渡す限りの人々がいた。
旗を振り、声を揃え、ひとつの名前を叫んでいる。
「エリザベス様! エリザベス様!!」
「お帰りなさい! お帰りなさい!!」
「頑張ってください! 応援してます!!」
荒んでいた街の一角に、まるで光が差し込んだかのようだった。
――そのとき。
ヒヒーンッ!
馬の嘶きとともに、ゆっくりと馬車が進み出て、エリザベスの前で止まった。
扉が開く。
中から飛び出してきたのは――
「アシュリーッ!!」
「ベスッ!!」
二人は、言葉もなく、互いに飛び込むように抱きしめ合った。
何度も、何度も、強く。
アシュリーの肩が震えている。
「ベス……おかえり。あなたのこと、本当に心配してたのよ……今日は、あなたの大好きなシチューを用意してるから……」
「ただいま、アシュリー。……シチュー、早く食べたいな」
「こーら、食いしん坊。ふふっ」
民衆の歓声は、最高潮に達した。
「ありがとう!! 本当にありがとう!!」
「頑張れっ! お姉ちゃんっ!!」
「エリザベス様! 最高!! 最高!!」
エリザベスの頬を、涙が伝った。
アシュリーと抱き合ったまま、朝日に照らされ続ける。
その涙の滴は、まるでダイヤモンドのように輝いていた。
⸻
しばらくして、二人は体を離した。
「ベス。義兄さんの屋敷へ行く前に、私の家に寄って。……いろいろ、話したいの」
「うん……」
そう答えながら、エリザベスは周囲をきょろきょろと見回す。
「ベス? 落とし物?」
「いや……その前に、挨拶したい人がいて」
エリザベスは、息を吸い込み、大声で叫んだ。
「おーい! ラルフッ!! ラールフ!!」
少し離れた場所で、小さな手が振られる。
「お姉ちゃん! ここだよ!!」
ラルフは、姉に肩車されているらしかった。
人々に促されるように、前へ前へと進み出てくる。
人影の中から姿を現したジョンは、誇らしげに手を差し出した。
「お姉ちゃん! お礼を渡したいんだ! 受け取ってくれ!!」
その手の中にあったのは、袋に入っている黒くてごつごつした塊だった。正直、少し不気味だ。
「……何これ?」
「俺もよく分かんないけど! お墓の前で拾ったんだ! あげるよ!」
エリザベスは一瞬戸惑ったが、子どもの無邪気な贈り物を、素直に受け取った。
「頑張ってくれ!! これはきっと、役に立つから!!」
ラルフはそう言い残し、群衆の中へ消えていった。
アシュリーが、そっと近づく。
「……友達がいたのね。友達の贈り物は、きっと意味があるわ。大切にしなさい」
「……そうだな」
エリザベスは黒い塊を服の中にしまい、アシュリーとともに馬車へ乗り込む。
馬車は、人々の間を抜け、ゆっくりと走り出した。
⸻
アシュリーの屋敷にて。
エリザベスが義兄アンソニーの屋敷ではなく、アシュリーの屋敷に身を寄せていた理由は単純だった。
アシュリーはすでに侍女の仕事を引退し、今は母として家庭に入っている。ここには余計な目も、余計な立場もない。
長い廊下を二人で歩いていると、背後から小さな声がした。
「あ。てっかめん」
「誰が鉄仮面ですって!」
エリザベスが即座に振り返ると、女の子はびくっと身をすくめた。
「ひえええ!てっかめんがおこったぞ……にげろおお!」
笑いながら逃げ出すその背中を見て、アシュリーが苦笑する。
「ごめんなさいね。うちの娘が……」
「いいんです。それにしても、大きくなりましたね」
「もう……あの子も五歳ですから」
アシュリーは引退後に正式に結婚し、今ではすっかり母親の顔だった。かつてエリザベスの姉が女王になる前、頻繁にこの屋敷を訪れ、子どもの世話や家事を手伝っていた頃とは、もう時間の流れが違っている。
「ベス。入って入って」
促されて部屋に入ると、そこには見慣れた背中があった。
「小娘。首がないまま帰らんでよかったな」
「おっさん!!今ちょうど会いたかったんだよ!!」
エリザベスは勢いよく駆け寄った。
ウィリアムは以前よりも明らかに痩せ細り、手足の震えもひどくなっていた。一人で立つこともままならず、ここへ来るのもアシュリーの肩を借りたという。
それでも彼は、いつものように草を燃やし、煙を吸い込んでいる。
「うほっ……うほっ……相変わらずだね」
エリザベスは椅子に腰を下ろし、ウィリアムの目を正面から見据えた。
それから数時間。
彼女は、メアリーとの出来事、裁判、不可思議な力、血のように見えたもの、切断と再生、雷も氷も効かなかった理由――
知っている限りのすべてを、順序立てて語った。
「……だったわけ。おっさん。ここまでの話はわかった?」
珍しく、ウィリアムの目がきらきらと光っていた。
「おう。大丈夫だ。まさか質問がないわけではないだろ?」
「私が立てた仮説、メアリーが血を操る力ってやつ。おっさん、何か知ってない?」
ウィリアムは右手を伸ばしたが、途中で力尽きた。
「すまん小娘!その本を取って欲しい!」
「分かった。私が取るから!座ってな!!」
指定された棚から取ったそれは、出版物というより、埃をかぶった日記の束だった。
「これじゃ!小娘の言ってるものは!」
勢いよくページをめくるウィリアム。
だが、そこに並んでいるのは、記号とも落書きともつかない文字の羅列だった。
「おっさん。字汚くて読めない。説明してよ」
「バカには説明した方が早いな。そうしよう」
ウィリアムは、改めてエリザベスを見据えた。
「小娘の言ってる血を操る力。しかしわしはお前の姉までは知らない。血を操る力だとは断言できない。まずこれで答えだ」
「つまり……おっさんは知らない。分からないってこと?」
「このハヤトチリが最後まで聞けっ!」
「ひいいいい!」
「……だがこういった道具魔法や体系・基礎魔法で説明できない力は過去の記録から存在する。お前の話を聞いた限りだと姉は“能力魔法”の可能性が非常に高いっ!」
「能力魔法っ!!」
「能力魔法には鉄則が五つある」
震える右拳を突き出し、小指を立てる。
「一つ目は基本的に一人につき一つまでだ。お前の姉が血に関連する能力なら、多くの場合で血を操れるだけだ。もし血以外の能力を使っているように見えるなら、それは姉が何かしらのトリックでお前を騙している可能性が高い!一人につき一能力だ、覚えとけ!」
薬指が立つ。
「二つ目は、一つ目に関連している。トリック次第で能力が複数あるように見えることがある。能力魔法は我々の人智を遥かに超える。応用性や可変性が高いと思え!複数に見える能力にも必ず共通点があるはずだ」
中指。
「三つ目だ。能力魔法は〇〇の能力と呼ばれたり、能力者自身が異名を名乗ることが多い。お前は姉を何と呼んだ?」
「……鮮血のメアリー」
「そうだっ!確実に彼女は鮮血の能力の魔法使いの可能性が高い。能力魔法使いの異名は注意深く見ろ!」
人差し指。
「四つ目。これは確実とは言えんが、能力魔法は王家の血を引く者に多い。原因は分からん。だが魔力が怪しいとは感じている……とにかく!お前に擦り寄ってくる王や権力者は疑え!場合によっては殺されるぞ!」
最後に、すべての指を開いた。
「最後だ。能力魔法は無敵ではない。姉は小娘に急所を見せていないだけだ。必ず弱点がある。そして必ず倒す方法がある」
「前にも言ったな??相手を理解しろ……いや、この場合は姉を正しく理解しろ。お前が考えろ。理解した先に見えてきた、姉が嫌がることを全力で叩き込め。それが対能力魔法使いの最適解だっ!」
エリザベスは息を呑んだ。
「ありがとう。おっさん。内容はすごく分かった。だけど……何で九年前、私が十四の頃にそれを教えなかった?」
ウィリアムは視線を逸らした。
「……実はな。初めてお前とアシュリーに会った頃、ワシは能力魔法の秘密を追って宮殿の書を読み漁っていた。しかしな……」
「能力魔法はワシが一番詳しいと自負しているが、細かい理論は何一つ分かっていない。理論になっていない魔法を十四のガキに教える訳にはいかない...」
エリザベスは、静かに微笑んだ。
「ありがとう。おっさんの言う通りだよ。お姉様、止めてくる」
立ち上がった彼女を、ウィリアムが呼び止める。
「待て!もう一つあるっ!お前の足がくっついた話だ!」
「……!」
「お前自身にも能力魔法がある可能性を考えろ!姉だけじゃない。自分自身も理解しろ!!」
「分かった。行ってくるよ。おっさん」
エリザベスは、静かに部屋を後にした。
⸻
エリザベスは、久しぶりのシチューを前にして完全に浮かれていた。
牢屋での日々は、豆、豆、豆。煮ても潰しても豆。そんな生活だったせいで、テーブルに並ぶ牛肉と野菜の湯気だけで、喉が鳴る。
アシュリーが皿を置いた瞬間、エリザベスは身を乗り出した。
「いただきますっ!!」
勢いよくスプーンを口に運ぶ。
「最高! 美味しすぎる〜う。もう豆はこりごりだあ!」
夢中で頬張るエリザベスを見て、アシュリーはくすりと笑った。
「ふふっ……相変わらず、豆は嫌いね」
あっという間に皿を空にすると、エリザベスは急に何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ! アシュリー! 紙と筆記具ある?」
「ええ。どうしたの?」
「ロバートに伝えたいことがあるんだ!」
差し出された紙とインク、筆を受け取ると、エリザベスは迷いなく書き始めた。
勢いは止まらず、紙いっぱいに文字が走る。
「ベス。ロバート君になんて書いたの?」
「お姉様を止めてくる。今は準備中だけど、絶対ロバートを檻から出すって」
アシュリーは静かに頷いたあと、表情を曇らせてエリザベスを見つめた。
「馬車の中でも言ってたけど……お姉様がとんでもない化け物だって……。
いえ、ベスが嘘をついてるって意味じゃないの。ただ……それでも命を賭けるの?」
エリザベスはスプーンを置き、アシュリーの目をまっすぐ見た。
迷いはなかった。
「うん。おっさんに聞いたら、魔法使いの可能性が高いってさ。魔法使いには、魔法で立ち向かうしかないよ」
その言葉を聞いて、アシュリーは静かに息を吸った。
「……了解。これだけは約束して。一人で宮殿に行かないで。やるって決めたら、必ずまず私のところに来なさい。あなたと一緒にお姉さんと戦うから」
エリザベスは椅子から立ち、深く頭を下げた。
「ありがとう。そして……よろしくお願いします」
その真剣な顔を見て、アシュリーは肩の力を抜いたように微笑んだ。
「ふふふっ。まあまあ。まだ今すぐじゃないんだし。
シチュー、おかわりいる?」
「いります」
差し出された皿は、エリザベスの手から、再びアシュリーの手へと渡った。
⸻
釈放されたとはいえ、エリザベスの生活は完全な自由ではなかった。
国の管理下に置かれ、指定された屋敷での“幽閉”という名の生活が始まったのである。
もっとも、それは肩書きだけのものだった。
エリザベスの意思でアシュリーの屋敷へ行くことも、義兄アンソニーの屋敷へ足を運ぶことも許されていた。
ただし、唯一にして絶対の禁止事項がある。
——政治への介入と口出し。
それだけは、どんな形であれ許されなかった。
⸻
屋敷の庭。
木の棒に板を打ち付け、地面に突き刺した簡素な的が風に揺れている。
エリザベスはその前に立ち、人差し指を突き出した。
空気が削られるような音とともに、土と岩を抉る空っ風が放たれ、的の周囲の地面が削れる。
(……お姉様を倒す方法。
一つだけ、どうしても分からない)
雷。
氷柱。
頭に直撃させたはずだ。
胸を貫いたはずだ。
(……なんで、動いてるのよ)
今度は両手に火の球を作り、的に向かって投げつける。
乾いた爆ぜる音。炎が散る。
(基礎魔法が効かない……?
基礎魔法が効かないから……能力魔法でしか倒せないってこと?)
エリザベスは手を止め、足元を見下ろした。
(私の能力魔法で……お姉様を倒せる?
足をくっつけるだけの能力で……無理でしょ)
再び顔を上げ、人差し指を的に向ける。
火花が散る。
(まずは……私自身を理解しないと)
「失礼いたします。エリザベス様。少々お時間、よろしいでしょうか」
振り返ると、屋敷付きの執事が立っていた。
アンソニーの命で派遣されたのだろう。
「あ、どうも。わざわざここまで」
「実は……お姉様の件でして」
⸻
「……はあ??? ご懐妊???」
あまりの言葉に、エリザベスは思考が止まった。
「はい。女王様ご本人が、そう仰っています」
「……で? ただの状況報告でしょ?」
執事は一瞬、言い淀んでから続けた。
「それが……女王様より直々に、出産に立ち会ってほしいと……」
「はああああああああああ????????」
エリザベスは、生まれてから二十三年で一番大きな声を出した。
「メアリーの奴、何考えてんの???
私のこと芋……あっ……いやいや、
散々嫌ってたくせに!!
なんであいつの一番大事な時に、
私が立ち会わなきゃいけないのよ???」
執事は淡々と、しかし逃げ道を塞ぐように言った。
「……勅命です。
行かない、という選択肢は……ないかと」
エリザベスは深くため息をつき、執事を睨んだ。
「……行きたくないけど、行くわ」
そして、低く、はっきりと告げる。
「執事さん。
この言葉、そっくりそのままクソメアリーに伝えて」
エリザベスは踵を返した。
「悪態つけてやるわ」
そう言い捨て、裏庭を後にする。
宮殿へ向かう準備を始めるために。




