第二十一話 Mataternity Madness
第二十一話 Mataternity Madness
「お姉様っっ!!!」
エリザベスが駆け寄った先には、寝台に横たわるメアリーの姿があった。
白いシーツに埋もれるようにして、彼女はぐったりと身を預けている。周囲には何人もの侍女が付き添い、慣れた手つきで額を拭き、声をかけ合っていた。その空気は張りつめているはずなのに、どこか奇妙な期待感が混じっていた。
「あら……ベス。元気にしてた?」
微塵も実感のこもらない声だった。
まるで廊下で再会した遠い親戚にでも投げるような、軽い問いかけ。
エリザベスは一瞬だけ立ち止まり、それでも体に命令するように一歩前へ出た。
ベッドのそばに寄り、メアリーの腕をそっと揺する。
「お姉様……私は元気ですよ。それより、お身体は大丈夫でしょうか? 私も、何か手伝います」
「大丈夫よ。気持ちは嬉しいけど、周りのことはもう成り立ってるの。あなたの優しさだけ、ありがたく頂戴するわ」
(コイツ……本当、狂ってるな。中身もバケモンだろ)
その言葉は、心の奥に静かに沈めた。
エリザベスは何も言わず、メアリーの手を握ったまま、じっと様子を見つめる。
「今……痛いですか? お姉様」
「まあ……痛いけど……今じゃないような気がするわ……」
それを聞いた瞬間、エリザベスは見限るように手を離した。
背を向け、誰にも見えない位置で、服の裏に手を押し当て、ぱっぱと拭う。
「ごめんなさい。少し……トイレに……」
「いってらっしゃい、ベス」
エリザベスは振り返らず、そのまま部屋を後にした。
⸻
扉を抜けた廊下。
右手の壁に寄りかかるように立っていた男が、こちらを見た。
フェリペだった。
「どうも。こんにちは」
「ええ。こんにちは」
形式的に言葉を返すと、フェリペは少し間を置いてから、興味深そうに首を傾げた。
「あの……ちょっと気になったんですけどね」
「あっ……はい」
「僕らって、そこまで年離れてないっていうか……まあ、同じ境遇みたいなものなので……幼馴染というか……」
「まあ……見方によっては、そうですね」
フェリペは満足そうに頷き、軽い調子で続けた。
「なので……エリちゃんって呼んでいいですか? 親しみをこめて!」
「あああん??」
思わず素が出た。
エリザベスが睨むと、フェリペはまったく気にした様子もなく、笑顔で手を振る。
「いいじゃん♪ いいじゃん♪ 幼馴染って感じ、いいじゃん♪何でも情報共有できるし♪」
この男は、もう王だ。
ここで拒めば、話は別の方向へ転がる。
直接的な害はない――それだけは分かっていた。
エリザベスは深く息をつき、呆れた顔で答えた。
「……いいですよ。勝手にどうぞ」
「ありがとう♪ ありがとう♪
友達記念日、一日目だね♪」
(何なの、この夫婦……)
妻もイカれていれば、夫もイカれている。
エリザベスは心の中でそう吐き捨て、されるがままにその場に立っていた。
⸻
エリザベスが完全に場を支配されている、その空気のまま
フェリペは楽しそうに声をかけてきた。
「エ〜リちゃん♪」
「……はい。なんですか」
「今からさ♪ 仲良くなった記念パーティってことで、お茶でも飲みにいかない??」
次の瞬間、エリザベスは反射的に二歩、後ろへ下がった。
「はあああああああ????
なんでそんなこと言えるのよ??」
するとフェリペは、まるで距離感など存在しないかのように、二歩、詰めてくる。
「まあまあまあまあ♪
ここじゃなんだし、ちょっとこっちへ♪」
有無を言わせない空気。
人目の少ない場所へ誘導されると、フェリペは満足そうに口を開いた。
「ぶっちゃけた話なんだけどさ♪
僕も年頃の、いちロイヤルボーイとしての話なんだけど……」
「……何ですか」
「君のお姉ちゃん、ゲロほど興味ないのね♪」
「ああああああんん???」
怒りより先に、引きが来た。
エリザベスは二歩、三歩と後退する。
「だってそうじゃん♪♪♪
アラフォーでヒスっちゃうガチ恋おばさんよりも♪
お肌ツヤツヤ、ピチピチの若々しいエリちゃんの方が♪
百倍かわいいわけで♪♪」
「……」
「だって男の子だもん♪」
意味不明な口調。
理解不能な理屈。
エリザベスは四歩目を下がり、完全に距離を取った。
「んでどう? エリちゃん♪♪
俺とお茶しない???」
答えは一瞬だった。
「最低。論外。
二度と顔見せんな」
吐き捨てるように言い残し、エリザベスはその場を離れた。
フェリペは去っていく背中を、愉快そうに見送りながら呟く。
「ふ〜ん。
滑稽な女♪♪♪」
⸻
逃げ場がないと悟ったエリザベスは、この日のために呼んでいた助っ人のもとへ駆け込んだ。
「アシュリーッ!!」
「ベス! 大丈夫??」
アシュリーはすぐに駆け寄り、エリザベスの腕や背中に触れて、その体温を確かめるように包み込んだ。
⸻
「……狂ってる。
あの夫婦……頭がイカれてる……」
俯いたエリザベスの前に、そっと紅茶が置かれる。
顔を上げると、そこにいたのはアシュリーだった。
あまりにも――
あまりにも天使のように見えて、エリザベスは思わず微笑んでしまう。
「本当ね……
誰が客観的に見ても、イカれてるわね」
アシュリーはため息混じりに続けた。
「フェリペって人、色々話は聞いたことあるけど……
結構アレな人らしいからね……」
エリザベスは真っ直ぐ彼女を見る。
「アシュリー。
アレって?」
アシュリーは珍しく言葉を選び、髪を指でくるくると弄りながら答えた。
「なんて言うのかな……
変ではあるんだけどね。
あなたのお姉さんみたいに、別に悪い人かって言われると……そうでもないのよ」
「……」
「だから……アレなのよ」
「……よく分かんないけど、なんか分かった気がする」
エリザベスはジトっとした目でアシュリーを見つめた。
するとアシュリーは、急に表情を変えて言い放つ。
「ベス。それでもやる??
私はやる気よ!!
パーっと、やっちゃいましょうよっ!!」
昔から変わらない、戦闘狂の一面。
正直、この宮殿で一番楽しんでいるのは彼女かもしれない。
エリザベスはそのままの目で、しかし冷静に言った。
「……まだ早い気がする。
それに……大切な命まで奪うのは、やっちゃいけないと思う」
アシュリーは何も言わず、エリザベスの白い頬にそっと手を伸ばす。
「あなたって、本当によくできた子ね。
立派な女王様になるって、私は思ってるわ」
「……アシュリー」
血の繋がりはなくとも。
偽りであっても。
母と娘のような、その固い絆は――
幾年を経ても、変わることはなかった。
⸻
「……痛い、痛い痛い痛いっ!!」
悲鳴に近い声が、部屋に響き渡った。
「大丈夫ですか、メアリー様っ!!」
侍女たちが一斉に駆け寄り、ベッドの周囲を囲む。
額に浮かぶ汗を拭い、背をさすり、必死にその身をなだめる。
エリザベスとフェリペは、少し離れた場所から、その光景を黙って見守っていた。
「……ふう……大丈夫……痛みは、治ったわ……」
その一言に、侍女たちはほっと息をつく。
——が。
「ああっ……痛たたたたたたっ……!!」
「メアリー様っ!!」
まただ。
この日、何度も何度も、同じ光景が繰り返された。
痛みを訴え、騒ぎになり、そして何事も起こらず収まる。
推定される陣痛。
だが、出産の兆しは一向にない。
エリザベスは、胸の奥にわずかな違和感を覚え始めていた。
(……おかしい)
苦しむ姉の姿。
それ自体は、嘘には見えない。
だが——。
隣に立つフェリペの顔。
焦りも、不安も、責任も感じさせない、どこか他人事の表情。
この二つが、どうしても噛み合わなかった。
(……なんなのコイツ)
そんな考えを、エリザベスはすぐに振り払った。
目の前で苦しむ人間に、嘘を疑うなど、できるはずがない。
⸻
その夜。
容態が「安定した」と判断され、侍女たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。
部屋に残されたのは、ベッドの上のメアリーと、エリザベスだけ。
重たい沈黙が、空気を支配する。
「……すみません。もう帰ります」
エリザベスは、息を止める勢いで踵を返そうとした。
「ねえ、負け犬」
冷たい声が背中に突き刺さる。
「女王様の御言葉に逆らって帰るつもり?
今から首が飛んでも、おかしくないわよ」
エリザベスは、立ち止まるしかなかった。
ゆっくりと振り返り、ベッドの方を見る。
「本当に負け犬になりそうね♡
私の愛の結晶ちゃんが生まれちゃったら……
あなたは野良犬みたいに、フラフラするしかなくなるわ」
甘ったるい声。
残酷な言葉。
「生ゴミを漁る未来しか、残ってなさそうね♡」
一刻も早く、この場を離れたい。
エリザベスは感情を押し殺し、温度のない笑顔を作った。
「そうですね。
可愛いお子様、私もぜひ見たいです。
きっと、愛らしいお子様でしょうね」
そして、一礼。
「では、失礼します」
「待ちなさい」
再び、引き止める声。
「結晶ちゃんが生まれたら……
名前、どうしようかしら……」
陶酔したように、メアリーは語り始める。
「ヴィクトリア、ヴィクター、ニケ、ニコラス……
まあ、何でもいいわね」
うっとりとした笑み。
「だってこの子は、生まれた瞬間から期待されて育つんだもの……」
エリザベスは、帰りたい一心で、わずかに皮肉を込めて言葉を返した。
「素晴らしいですね。
栄光に満ちた人生を、歩ませてあげてください」
「私は日陰で結構ですので。失礼します」
それでも、メアリーは止まらない。
「ママはね〜、結晶ちゃんの味方でちゅよ♡
雷を落とそうとする悪いモンスターは、ママが退治しまちゅ♡」
甘ったるい幼児言葉。
狂気が、にじみ出る。
「ママ、がんばりまーす♡♡」
エリザベスは、胸の奥で何かが切れかけるのを感じた。
だが、それでも踏みとどまる。
「モンスター退治は、お子様が生まれてからにしてください」
静かな声で、きっぱりと。
「今は、元気なお子様を産むことが、あなたのやるべきことだと思います」
「……失礼します」
今度こそ、振り切るように部屋を出た。
背後で、くすくすと笑う声が聞こえる。
「怖い人でちゅね〜♡
氷みたいに冷たくて、ひどいでちゅね〜」
囁くような声。
「でもね……
君は、誰にでも優しくて、あったかい心を持つ子になるんでちゅよ……」




