第十八話 M(U+1D4DC)
第十八話 M(U+1D4DC)
「おい……立て……か……しっかり……しろ……」
声が、遠い。
水の底から聞こえてくるように、歪んで、千切れている。
エリザベスの意識は濁っていた。
それでも、わずかに光の差す方角だけは分かった。
誰かに腕を掴まれている感触がある。
「……リー様の……レイ……塔へ……」
再び光が揺れた。
視界が開くと、そこは木箱のように狭い空間だった。
石を踏み上げた衝撃で、体がぐらりと跳ねる。
「……鉄扉……あ……ろ……」
次に見えた光の周囲には、水面が広がっていた。
エリザベスは小舟の上に横たえられている。
兵士たちが無言でオールを操り、舟はゆっくりと進んでいた。
——ガシャンッ。
激しい音と共に、世界が途切れた。
「……クソ……」
闇の中で、エリザベスは目を開いた。
覗き込むように見えた光の先には、丸石を隙間なく敷き詰めた天井。
そこから、一本だけ細い光線が差し込んでいる。
左を向けば、錆びついた鉄格子。
右を向けば、黒光りする汚虫。
こちらに気づいた汚虫は、慌てたように石陰へと消えた。
そして——
エリザベスは、無意識に“無いはずのもの”へ手を伸ばした。
……いや。
右手が、ある。
さらに、左手も。
右手を天井にかざし、手首をぶらぶらと揺らす。
指も、関節も、思った通りに動いた。痛みはない。
左手も同じだった。
次に、右手を腰の方へ伸ばす。
——無いはずの、右脚。
……ある。
慌てて、左脚へ。
……左脚も、ある。
エリザベスは仰向けのまま、右脚を持ち上げた。
膝が、自然に折れる。
左脚も同じように曲げてみる。
痛みはない。
違和感もない。
歪みも、欠損もない。
そこにあるのは、完全な生足だった。
「……嘘……」
息を詰めたまま、エリザベスは起き上がった。
理解が追いつかない。
麻でできたパンツの裾を、震える手で捲り上げる。
切断面があるはずの場所を、確かめる。
「…………え……?」
右脚腿の付け根に、
残っているはずの傷は——なかった。
彼女の視界に映ったのは、
きめ細かく、まるでシルクのような、白い生足だけだった。
⸻
宮殿の執務室は、どこか熱を帯びていた。
書類の山に囲まれながら、メアリーは真剣な表情で目を走らせている。
外の喧騒も、背後に近づく気配にも、まるで気づいていなかった。
「メアリーちゃん♪」
突然、両肩にぽん、と軽い衝撃。
その瞬間、メアリーの全身にびり、と痺れが走る。
「はあっ!!なによっ!!」
勢いよく振り返ると、そこには——
全力の笑顔を浮かべたフェリペが立っていた。
「なあに♡ フェリペさんだったのね♡」
一瞬で声色が変わる。
フェリペは満足そうに頷き、そのまま語り始めた。
「そうだよ!メアリーちゃん♪
実はさ、ちょっと真面目な話をしに来たんだけど、聞いてくれるかなあ?
聞いてくれたら俺、ハッピー♪」
「ふふっ♡いいわよ。付き合ってあげる」
そう答えると、フェリペは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ありがとー♪♪
実は!今うちの国がさ!ちょっと戦争中でさあ??」
そう言いながら、フェリペは両手を合わせ、拝むようにメアリーを見る。
「ちょっとでいい!……ほんのちょっとでいいから、兵士貸してちょうだいよ♪♪」
メアリーは眉を上げ、静かに問い返した。
「ほう……どのくらい出せばいいのよ??」
フェリペは自信満々に、即答する。
「ざっと1万くらいかな♪」
「はあ??? 1万ってっ!!
ちょっと冗談じゃないでしょ???」
メアリーは深く息を吐き、額に手を当てたままフェリペを見上げた。
「勘弁してね……フェリペさん♡
……で、勝算はどのくらいあるわけ?」
フェリペは、両肘を軽く曲げ、胸の前で両手を構える。
「ワンチャンって感じだわん♪♪♪」
その言葉に、メアリーはとてつもなく深いため息をついた。
「はあ……わかったわ。
これはフェリペさんのこと、愛してるからだからね。
きちんと結果、出して……」
次の瞬間だった。
フェリペが勢いよくメアリーに飛びつく。
「ありがとー!!
マジ大好きって言っていい??
チューしょ♪ チューーーー♪♪」
メアリーは抵抗するふりをしながら、まんざらでもない表情を浮かべる。
「まって!フェリペさんったら♡
……もう、大好きっ♡♡♡」
執務室には、甘く、熱い空気だけが残った。
⸻
---フェリペの提案を承諾したその日から、
我が国は兵を動かした。
海を越え、
大海原へと進み、
やがて数多の国々を巻き込む大海戦へと引きずり込まれていく。
結果は、無残だった。
敗退。
撤退。
そして——喪失。
この戦争をきっかけに、
異国に存在していた唯一の我が国の領土、
カレーと呼ばれる土地は、完全に失われた。
それが、
たった一つの、二人の会話の“結果”だった。
⸻
エリザベスは天井にへそを向けて仰向けになり、右手の人差し指をまっすぐ前に突き出した。
周囲の空気が張りつめ、指先から火花が散る。
ピカッ――
ビリッ!!
人差し指から放たれた稲妻は、一直線に天井へと走った。
だが、石造りの天井はひび一つ入らず、崩れ落ちる気配もない。
「……?」
エリザベスは眉をひそめ、今度は体を起こすと床に手をついた。
地面の奥に魔力を流し込み、岩を生み出そうとする。
手を床から空へと引き上げた。
――何も起きない。
音もなく、振動もなく、床は沈黙したままだった。
「これは……バリアードが貼られてるね」
エリザベスは天井と床を交互に見上げる。
魔法を防ぐための魔法――バリアード。
しかも一重ではない。何重にもエンチャントされ、牢全体を包み込んでいる。
この構造は、明らかに彼女を想定して作られていた。
エリザベスの魔力量では、破壊は不可能だ。
「……壊すのは無理だなあ」
石の床に体を戻し、エリザベスはそのまま目を閉じた。
冷たい床の感触を背中に感じながら、いつの間にか浅い眠りに落ちていく。
――ガシャリ。
金属の擦れる音で、意識が引き戻された。
「……ん……」
目を開けると、鉄格子の向こうに鉄甲冑の兵士が立っていた。
兵士は無言のまま、石の床に皿とスプーンを置く。
「飯だ。食え」
短くそう言い残し、兵士は一歩下がった。
「なっ……によ……」
エリザベスは上体を起こし、頭を左に傾ける。
兵士はすぐそこにいる。
「ねえ!……私はこの先どうなるのっ!?」
問いかけても、兵士は反応しない。
鉄の仮面越しに視線だけが向けられている。
「質問が悪かった!!今のは忘れて……まず……ここはどこなの??」
少し間を置いて、兵士は低く答えた。
「……レイトン塔だ」
「……だとは思ったけど」
エリザベスは小さく息を吐き、さらに問いを重ねる。
「私は何の罪の容疑なの??」
「……国家転覆未遂。女王暗殺未遂」
「……予想通りね」
冷静にそう言ったあと、エリザベスは一瞬だけ視線を落とした。
そして、最後の問いを投げる。
「いつ裁くのっ??……いや。答えるわけないか……」
兵士は何も言わず、踵を返した。
重たい足音が遠ざかり、牢は再び静寂に包まれる。
エリザベスは床に置かれた皿に近づいた。
中に入っていたのは、トマトで煮込まれた豆のスープ。
「うわっ……1日目から最悪……」
牢屋の生活は、どうやら初日から彼女の神経を逆撫でしてくるらしい。
⸻
エリザベスは暇だった。
明くる日も、また明くる日も、石の床に寝転がりながら、ただひたすら自分の体のことを考えていた。
だが、いくら考えても説明がつかなかった。
「右脚……切られたはずだよな……」
確かに、あの瞬間、メアリーの鎌は自分の右脚を断ち切った。
あの痛みも、感触も、錯覚のはずがない。
それなのに、今の体には――傷ひとつ、残っていない。
日中は考え続け、夜になると疲れて眠る。
だが結論は出ない。
やがて、エリザベスは自分の体について考えるのをやめた。
次に考え始めたのは、メアリーのことだった。
あの戦いを、記憶の中で何度も、何度も再生する。
細部を削ぎ落とさず、一瞬一瞬をなぞるように。
「……まず」
エリザベスは握った拳から、小指を立てた。
「兵士の体から、棒が伸びて……いつの間にか、私の腿を刺した。これが一つ目」
次に、薬指を立てる。
「次。お姉様が自分の右手を噛んだ。血が出て……それが、塊になる。二つ目」
中指。
「その塊が棒へ変わって……やがて鎌になる。三つ目」
人差し指。
「その鎌で……私の右脚を切断する。四つ目」
最後に、親指。
「……雷も、氷柱も、直撃してるのに無傷。これが五つ目」
左手の指がすべて開いた。
「怪しいのは……兵士の体と、伸びた棒が鎌になる」
エリザベスは天井を見つめながら呟く。
「……なんで、伸びる?」
伸びるもの。
縮むもの。
過去の記憶を、片っ端から掘り返す。
伸びるもの。
伸びるもの――。
「あっ!!」
思わず声が漏れた。
「トマスといた時の……化け物っ!!」
あの時、見たもの。
狐のような姿。
異様に長く、伸び縮みする尻尾。
「そうだよ!!あれ……伸びてた!!」
だが、すぐに首を振る。
「……でも、なんで伸びるの?」
相違点か。
それとも、共通点か。
エリザベスは目を閉じ、思考をさらに深く潜らせる。
「……あっ」
再び、ひらめきが走る。
「伸びるやつは...全部体と繋がっている」
息を呑む。
「つまり……体に関係してる」
確信が、ゆっくり形を持ち始める。
「体……体……」
頭の中で、映像が繋がっていく。
「……自分の右手を歯で噛む。血が出る」
「お姉様は……右手を、掻きむる癖があるけど、あの時も私に倒された後ものすごい勢いで掻きむしっていた」
「掻きむしると……傷ができて……血が出る」
その瞬間、すべてが一本の線になった。
エリザベスは勢いよく手を叩いた。
「わかったぞっ!!」
息が荒くなる。
「お姉様は……血を、伸ばしたり、縮めたりできる!!」
「鎌……だから、血を武器にできる!!」
そして、さらに思考は広がる。
「じゃあ……あの時の化け物の翼も!」
「狐みたいな、何本もある尻尾も!!」
「血を伸ばして、縮めて、硬くして……翼や尻尾を作ってたんだ!!」
エリザベスの目が見開かれる。
「鎌も……兵士から伸びた棒も……翼も、尻尾も……全部」
「全部……人型の体に、繋がってる……!!」
気づけば、周囲は闇に沈んでいた。
小さな窓から、月明かりだけが差し込んでいる。
エリザベスは体を硬直させたまま、その光を見つめた。
「……間違いない」
喉が、ひくりと鳴る。
「お姉様は……血を操る力……」
一瞬、言葉を選び、そして静かに続けた。
「……いや」
「号外で呼ばれていた……“鮮血のメアリー”」
「……もしかして……」
「そのままの、意味……?」
月光だけが、牢獄の中で静かに揺れていた。




