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ELIZABETH Magical Kingdom  作者: せっきー
第一章 女王誕生篇

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第十二話 For the First Time in Forever

第十二話 For the First Time in Forever


 宮殿の正門前には、冷たい空気が張り付いていた。

 朝とも昼ともつかない時間帯。石畳の隙間を抜ける風が、鎧の隙間に入り込む。


「聞いたか……化け物の話」


 右側に立つ兵士が、声を落として隣に話しかけた。


「ああ。上部に翼、狐の尻尾が何本もだろ。しかも二本足で立ってたとか。どうせ酔っ払いの見間違いだ」


 左側の兵士は鼻で笑う。


 そのとき、さらに低い声が割り込んだ。


「...しかも目撃者はトマスらしいぞっ」


 二人の視線が、一瞬だけ交差する。


「今も、その化け物を探すために、俺の部隊が周辺に散ってる。役人連中は正体を突き止めるのに必死だ。……妙な話だよ」


 沈黙が落ちた。

 正門の奥から、金属が擦れる音が微かに響く。


「……俺たち、仕事増えそうだな」


「だろうな」


 二人が同時に、重いため息をついた――その瞬間だった。


ヒヒーンッ!!


「おい、何をしている! とぼけてないで、さっさと中に通せ!!」


 馬車の中から、苛立った怒声が飛ぶ。

 御者の鞭が空を切り、馬が不安げに嘶いた。


⸻


 薔薇の屋敷では、夕食の後に暖炉を囲んで過ごす時間が、いつの間にか習慣になっていた。

 キャサリンは肘掛け椅子に腰掛け、エリザベスとトマスは絨毯の上に並んで座る。

 それが、自然な配置のように思えていた。


「トミー〜。今日はイタズラしちゃうよ」


 エリザベスが両手を鷲のように構え、身を乗り出す。

 その瞬間、トマスは悪戯っぽく、彼女の胸元に軽く触れた。


「やだあ。さいてー」


「ははははっ」


「ふふふっ」


 暖炉の火が弾け、笑い声が重なる。

 キャサリンはその様子を、言葉を挟むこともなく、少しだけ眉をひそめて見守っていた。


 それは、咎めるほどではない。

 だが、見過ごすには近すぎる距離だった。


⸻


 夜も更け、エリザベスが寝床に入った後。

 テーブルには、湯気の立つココアが一杯残されていた。


 トマスがそれを口に運んだとき、キャサリンが声をかける。


「ねえ……あなた。ベスのことなんだけど」


 トマスは口元を拭い、顔を上げる。

 キャサリンはテーブルの端にそっと手を添えた。


「最近、あなたとベスが……少し近すぎる気がするの。あの子、もう歳も歳だし……分かるでしょ?」


 訴えるような言葉だった。

 トマスは一瞬も迷わず、淡々と答える。


「彼女は、私のことが好きなんだ。私はその恋心に乗っているだけだよ。悪いことはしない」


 キャサリンは視線を伏せ、少し考えてから言った。


「……まあ、実の親子ではありませんからね。ベスの気持ちは尊重します。」

「でも、大人であるあなたが……付き合い方を、少し変えてみては?」


「はいはい。分かりました」


 軽い返事だった。

 トマスはそれ以上何も言わず、「おやすみなさい」とだけ告げて席を立つ。


 その背中を、キャサリンは黙って見送った。


⸻


 クエスト様が抱える十字架の絵。

 そこから差し込む光が、色とりどりに教会の内部を照らしている。


 静まり返った空間に、ひとり。

 メアリーは、胸に十字架とペンダントを抱きしめていた。


「……お母様は」


 かすれるような声で、問いかける。


「大切な人が……奪われてしまった瞬間……何を、思いますか?」


 答えは返らない。


 コーン……コーン……コーン……コーン……


 正午の鐘が天井に反響し、

 同時に、羽音が重なった。

 鳥たちが、一斉に空へ舞い上がる。


「……メアリーは、ここにいるよ」


 彼女は微笑む。


「いつでも……会いに来てね。お母様……」


 その頬を、透明な雫が伝った。

 冷えてもいない空気の中で、

 まるで窓ガラスの結露のように。


⸻


 街の屋敷の中庭は、もはや庭の体を成していなかった。

 芝生はえぐれ、黒く焦げ、土はぬかるみ、その上に霜が張り付いている。

 まるで、何度も戦場として使い回された場所のようだった。


 砂埃の向こうから、ウィリアムの影が現れる。


「前にも言ったな、小娘。魔法の基本は理論だと」


「ええ。覚えてるよ、おっさん」


 ウィリアムは鼻で笑い、杖を構えた。


「基本は、もう形になった。だがな――」


 杖先が火花を散らす。


「戦闘魔法の本質は、そこじゃない」


 光が走る。


「いいか、バカ娘。今日の授業だ。

 戦闘で勝ちたければ――相手を理解しろ。

 そして、相手に嫌がらせをしろ!」


 稲妻が一直線に放たれる。


「――っ!」


 エリザベスは反射的に腕を交差させ、岩石の魔法で表面を硬化させた。

 衝撃が全身を打ち、足元の土が抉れる。


「相手を理解するって……どういうこと!!」


「知らんっ!」


 ウィリアムは即答した。


「そんなのは、自分で考えろ!!」


 さらに稲妻が降り注ぐ。

 エリザベスは踏ん張り、両腕を交差させたまま、ただ耐える。


 考える余裕も、逃げ道もない。

 あるのは、理解しろという命令と、容赦のない現実だけだった。


⸻


 エリザベスは扉を開けた。

 長い、長い廊下を歩き、左の角を曲がる。


 そこに、トマスがいた。


 暖炉の前。

 椅子に手をかざし、今まさに火を灯そうとしているところだった。


「ただいま、トミー」


 彼は振り向く。


「ああ。おかえり」


「ふふふっ」


 エリザベスは、嬉しそうに笑った。


 しかし今日のトマスは少し様子が変だ。

一歩、一歩と距離を詰める。

 その指先が、彼女の肩に触れかける。


「……最近、ベス」


 視線が、わずかに下がる。


「女性として……美しくなったね」


「……えっ」


 エリザベスは、その視線に気づいて顔を上げた。


「まあね……」


「それに……髪も、前より綺麗だ。

 いや、綺麗にしてる」


 今度は、エリザベスが目を伏せる。


「ねえ、トマス」


 小さな声だった。


「私のこと……家族として好き?

 それとも……」


 言葉の先を、彼女自身が拒むように止めた。


 トマスは、少しだけ間を置いて答える。


「ベスと一緒に過ごしてきて……

 俺は、君を“家族”って線を、もう越えた場所にいると思ってる」


 エリザベスは頬を赤くしたまま、視線を合わせない。


「……私は……その……」


 一度、息を飲む。


「……いいよ。

 家族の先の関係。

 本当の親子じゃないって……

 皆、分かってるし……」


 トマスは天井を仰ぎ、大きく息を吸った。


 そして、俯いたエリザベスの顎に指を添え、

 そっと持ち上げる。蒼月の壺を触るように左エラに沿えると


「じゃあ……行こうか」


 彼の手が、彼女の背中に回る。

 導くように、強すぎない力で。


 二人は向きを変え、

 再び廊下へと戻っていった。


⸻


 トマスがエリザベスを連れて入ったのは、書斎だった。

 書物と図面、古い記録用の紙束が無秩序に積まれ、ここが彼の生活の中心であることがすぐに分かる。


 扉が閉まり、エリザベスはトマスの横顔を眺めると二秒ほど、口元で何かを囁いた。

 彼女には意味が取れなかった。ただ、その声の近さだけが妙に印象に残る。


「こっちだよ」


 彼女の背面に手を添えるトマスに軽く促され、エリザベスはデスクの前へと導かれる。

 やがて背後の気配が離れ、彼女は言われるまま椅子に腰を下ろした。


 椅子の軋む音が、やけに大きく聞こえた。

 書斎は静かで、外の気配は完全に遮断されている。


 エリザベスは、自分が今どこにいるのかを改めて意識し、なぜか胸の奥が落ち着かないことに気づいていた。


やがてトマスはその手をももから腰、胸へと伸びると上から麓を覗くように眺める。


頬を赤くするエリザベスは視線をトマスに向ける。彼女は抵抗することもできるがされるがままを選択した。


そしてトマスが灯火に反射して輝くものを見つけると、胸の袋から取り出したものはペンダント。


トマスは迷いなくボタンを押す。


パカッ...


やがて帆立貝のように開いた中身はシクシクと泣く三日月と光を跳ね返すように輝き続ける星の紋様であった。


「...君は月の女神って言われたことはあるかい?」


「......ないよ。誰も知らないし」


「この形見は君を映し出す鏡だ...本当はお父さんとお母さんに愛されたかったんだよ...」


エリザベスは何故か湧き出る思いを空気感から抑えた。今湧き出すのは情熱ではないと。


「......うん。...私を受け入れて」


彼女はその場の空気と認められたい思いから最後の決断をトマス自身の心に委ねた。


「...正直な子だね」


トマスは頭を撫でると、彼女は声には出さないがそっと目を閉じ子猫のように甘える。


そうして彼はエリザベスの見下ろした麓の眺めから、今度は麓から山へ登るように手を運びつつ...彼女の顔へ近づけると...


 (ドンッ!!)


 突然、音はわずかだが、衝撃が扉を揺らした。


(「ちょっと……鍵もないのに開かないってどういうことよ……!」)


(ドンッ、ドンッ)


扉には振動を与える波がうごめく。

 次の瞬間、魔力の奔流が走る。


(「これは……魔法ね。

 だったら――吹き飛ばす!」)


 ドガンッ!!


 扉は粉々に砕け、砂埃が書斎に雪崩れ込んだ。

 その向こうから、ゆっくりと現れたのはキャサリンだった。


「……あなたたち」


 冷えた視線が、室内を一撫でする。


「私が、何も知らないとでも思った?」


 彼女は一歩踏み出し、淡々と告げる。


「サイレンス。フィックスド。

 ずいぶん用意がいいじゃないっ!」


「ちっ……違うんだ、これは――」


 トマスが弁明しようと近づいた瞬間、


「触らないで。気持ち悪いっ!!」


 短く、鋭い拒絶。


 エリザベスははっとして椅子から身を起こし、キャサリンと目が合った。

 その視線に、なぜか逃げ場がないと感じる。


「あれも、これも……全部ダウトッ!!」


 キャサリンは深く息を吐き、言い切った。


「二人とも、今すぐ下へ降りなさい。

 私から話があるわ」


 一拍置いて、低く続ける。


「――今のあなたたちに、人権はないわ」


 そう言い残すと、キャサリンは踵を返し、廊下へと去っていった。


 かつて扉があった場所には、砕けた岩石の粒だけが、ころころと転がっている。

 書斎には、取り返しのつかない静けさだけが残っていた。


⸻


 暖炉は、もう冷え切っていた。

 火の入っていない炉は、冬の厳しさを隠すこともなく、部屋の隅々まで冷気を這わせている。


 昨日までそこにあったはずの家族の温度は、外側から音もなく剥がれ落ちていた。

 残ったのは、形だけの食卓と、逃げ場のない沈黙。


 キャサリンの指示で、席は決められた。

 テーブルの一方にエリザベス。

 対になる位置に、キャサリンとトマス。


 それだけで、この場が裁きの席であることは明白だった。


「先に言っておきます」


 キャサリンが口を開く。声は震えていない。


「私は、すべて知っています。

 私がいない間に、何が起きていたのかも」


 トマスが顔を上げる。


「……なぜ、それを——」


「クズはお黙りっ!!」


 鋭い叱責が、空気を切り裂いた。


「黙って、聞きなさい」


 トマスは口を閉ざした。


 キャサリンは一度、深く息を吸う。


「その前提で、ベスに聞きます」

「三人で、この生活を続けますか?」


 一瞬の沈黙。

 答えは、考えるまでもなかった。


「……続けられないです」


 キャサリンは、わずかに目を伏せた。


「今から言うことは、感情や愛情の話ではありません」


 言葉を選ぶように、しかし迷いなく続ける。


「この先、三人で生活できない以上、

 クソ野郎か、ベス。

 どちらかには、この屋敷を出て行ってもらいます」


 キャサリンの目が赤くなる。

 涙が溢れ、声がわずかに崩れる。


「……ベスは、幸いなことに、宮殿や他の屋敷に居場所がある人」


 喉を詰まらせながらも、言葉を止めない。


「だから……最も合理的な判断は……」


 しばしの沈黙。


「……ベス。あなたに、出て行ってもらいます」


 その瞬間、椅子が軋んだ。


「そんなのを、子供に決めさせるな!!」

「まだ十四だぞ!!」


キャサリンが即座に叩きつける。


「野郎は喋るなっ!!」

「口に岩、詰めるわよっ!!」


 トマスはそれ以上何も言えず、視線を落とした。

 エリザベスと、目を合わせることはなかった。


「ベス」


 キャサリンが、静かに呼ぶ。


「ここまでの話、理解できましたか?」


 エリザベスは少し考え、言葉を選んだ。


「……お母様が言いたいのは……」


 一度、息を整える。


「私に、お母様の代わりに面倒を見てくれる人を探してほしい……

 もしくは、お母様が見つけてあげる……ということ、ですよね」


 キャサリンの顔が、崩れた。


「……そう」


 涙をこぼしながら、微笑もうとする。


「嬉しいわ……こんなに賢く育ってくれて……

 本当は、褒めたいのよ」


 大きく息を吐き、続ける。


「ベスの中で……あなたを面倒見てくれる人に、心当たりはある?」


 エリザベスは俯き、記憶を辿った。


(——辛くなったら、戻ってきなさい。私を探して。)


「……アシュリー」


 小さく呟く。


「ケイト・アシュリーです」


「ああ……」


 キャサリンが頷く。


「分かったわ。すぐに手紙を書く。

 ベスは、身支度をしなさい」


 エリザベスが動かないのを見ると、続けて告げる。


「偶然だけど……アシュリーさんの居場所、知っているの。場所も一緒に渡すわ」


 一拍置いて。


「今は夜だけど……歩いて行く?

 それとも、明日の昼に馬車で?」


「……近いんですか?」


「三時間から五時間くらい、歩く距離ね」


 エリザベスはキャサリンを見るが、すぐに視線を落とした。


「…………分かりました。歩いて行きます」


 部屋の空気が、完全に冷え切る。


 キャサリンは、すべてを終わらせるように言った。


「話は以上よ。

 クソ野郎は、私と二階へ来なさい」


 エリザベスは、下を向いたまま動かなかった。

 椅子に座り、ただ呆然と、その場に残り続けていた。


⸻


 エリザベスは自室に戻ると、棚の奥から羽織を取り出した。

 鳥の羽で丁寧に包まれたそれは、身体の線を隠すように、そして寒さを拒むように軽い。

 足元では、扉の脇に置かれた革のブーツを履く。


 荷物は、アシュリーとの話が決まってから送るという。

 だから今は、生きてこの夜を越えるための身支度だけを整えた。


 玄関の扉を開けた瞬間、冷気が一気に屋敷の中へ流れ込んできた。

 息が白くなる。


 キャサリンは何も言わず、二枚の紙を差し出した。

 一枚は、アシュリーへの手紙。

 もう一枚は、居場所が記された簡単なメモ。


 エリザベスは、赤くなった手でそれを握り締める。

 一瞬だけ、キャサリンの顔を見た。


 それ以上は、何もしなかった。

 屋敷を振り返ることもなく、エリザベスは夜へと歩き出した。


⸻


 しばらく歩くと、宮殿前の街路から外れた、サイドストリートの東側に出る。

 空は曇り、雲は目で追えるほどの速さで流れていた。


 家々の扉には、樹木の輪が釘で打ち付けられている。

 どこも、同じ印。


「……そうか」


 小さく呟く。


「そろそろ、クエスマスか……」


 クエスト様の誕生を祝う日。

 一年で最も特別な夜。


 エリザベスは、ただ前へ進む。

 夜のストリートに、人影はない。

 まして、こんな真冬に外を歩く者などいない。


 見上げると、雲はさらに厚くなり、空が低くなったように感じられた。


⸻


 城下町の西へ差し掛かった頃、肩に何かが当たる。

 羽毛の上で弾いた、小さな雫。


 気づいて空を見ると、雲の隙間から、白い粒がふわりと落ちてきていた。

 妖精が地上に降り立つような、柔らかな雪。


 エリザベスは、それを無視するように前を向く。


 ――そして、見たくもない光景が、視界に入った。


「お父さん! 見て見て! 雪だよ!

 明日、積もるといいな!!」


「そうだな……明日、一緒に雪球を当て合いっこでもするか」


「うん!」


 扉が開き、彼女より二回りほど小さな男の子が、父親と一緒に外へ飛び出してくる。

 空を指差し、はしゃぐ声。


 エリザベスは、それを見なかったことにする。


「……見たくもない」


 そう呟き、ただ歩き続けた。


⸻


 やがて、キャサリンが残したメモの場所へ辿り着く。

 そこにあったのは、宮廷が所有する別荘のような屋敷だった。

 常住の者はいない。必要な時だけ使われる、静かな建物。


 門前に立つ警備兵が、訝しげに声をかける。


「子供だぞ……君。大丈夫か?」


 エリザベスは足を止め、兵士に視線を合わせた。


「私は、エリザベス……って言えば、分かる?

 ケイト・アシュリーに、会わせてほしい」


 兵士は息を呑み、すぐに姿勢を正す。


「……間違いない。エリザベス様だ」


 そして、ほとんど駆けるように屋敷の扉へ向かった。


 雪は、いつの間にか土の上に積もり始めていた。

 石段の上だけが、まだ露出している。


 一段、一段と進むうちに、雪は次第に強くなる。


 玄関に辿り着いた、その瞬間。


 扉が、内側から開いた。


 現れたのは、アシュリーだった。

 防寒着に身を包み、手には紙。

 そして、はっきり分かる――泣いた痕の残る、赤い目。


 彼女は、エリザベスの姿を見て、すべてを察した。


「久しぶりね……ベス」


 声は静かだった。


「詳しいことは、後で聞くわ。

 さあ、中へ。入って、入って」


 アシュリーは、降り積もった雪を払うように、エリザベスの肩に触れる。

 二人は、そのまま扉の奥へと進んでいった。


⸻


 屋敷は、誰も使っていないとは思えないほど整えられていた。

 埃一つなく、空気は澄み、まるで人を迎え入れる準備だけが続けられてきたようだ。


 エリザベスは暖炉の前に座り込み、両手を差し出して炎を見つめていた。

 揺らめく光が、指先を照らす。

 何も考えていないようで、何もかもを考えている目だった。


 アシュリーは空中にお盆を浮かせたまま、カップを一つ取る。


「寒かったでしょう……ほら、飲んで」


 エリザベスは手を伸ばす。


「いいから。飲みなさい」


 半ば強引に、アシュリーはその手にカップを握らせた。

 指先が、まだ冷えているのが分かる。


⸻


「……だいたいのことは分かったわ」


 アシュリーは暖炉からわずかに距離を取り、隣に腰を下ろした。


「三人の間で起きたことも。

 正直に話してくれて、ありがとう」


 エリザベスは炎に向けていた手を、ゆっくりとアシュリーの方へ向け直す。


「ねえ、アシュリー」


 声は、弱かった。


「八年前みたいに……私を抱きしめてよ。

 今は、そういう気分なの」


 アシュリーは何も言わずに立ち上がり、近づいた。

 広げた腕の中へ、エリザベスの身体が入る。


 エリザベスが、その胸に顔を埋めようとした――その瞬間。


パンッ!


 乾いた音が、部屋に響いた。


 アシュリーの右手が、大きく振り下ろされ、エリザベスの頬を打った。

 衝撃で、彼女は暖炉とは反対側へ倒れ込む。


「ベス……」


 アシュリーの声は、震えていた。


「自分が、何をしたか分かってるの?」


 エリザベスは起き上がれず、床を見つめたまま聞く。


「あなたを大切に受け入れようとした継母の心を……

 踏みにじったのよ」


「……でも、お母様もだけど……トマスだって……」


「トマスは、そんな人じゃないっ!」


 アシュリーの声が、鋭くなる。


「あいつはね、自分が上に立つためなら、何でもする男よ。絶対に信じちゃいけないっ!!」


「みんな、そう言う!」


 エリザベスが叫ぶ。


「ロバートだって……!

 すぐ悪い人だって決めつけて!」


「見えてないのは、あなただけよっ!」


 アシュリーは一歩も引かなかった。


「ロバート君も、周りのみんなも、分かってるのよっ!」


 やがとエリザベスは盛り上がった気持ちを消失し、かすれた声で言う。


「……じゃあ……トマスは……

 なんで、私を……」


「さあね」


 アシュリーは即答した。


「理解したくもないけど……

 あなたが、次の女王にでもなると思ったんでしょうね」


 エリザベスは、さらに顔を伏せた。


 アシュリーは彼女の両肩を掴み、目を合わせさせる。


「いい、ベス。

 もう少し、周りを見なさい」


 言葉を、噛みしめるように続ける。


「あなたの気持ちは、私は理解したいわ。

 でもね……周りは、あなたを“大人”として見てくる」


 両肩に込める力が、強くなる。


「何が正しくて、何が間違っているのか。

 それを、自分で判断できる大人になりなさい」


 一拍置いて、念を押す。


「……返事は?」


 エリザベスの目から、涙が溢れた。


「返事は?」


「……うるさい……」


「返事もできない大人は、最低よ」


「…………はいはい……」


 息を吐くような、小さな声。


 その瞬間、アシュリーは何も言わず、エリザベスを引き寄せた。

 胸に強く押し付け、体ごと包み込む。


 エリザベスは声を殺して泣いた。

 アシュリーの胸元は、彼女の涙でひどく濡れていた。

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