第十一話 リバーシ
第十一話 リバーシ
外は凍えるような風が吹き、枯れた葉が木々からはらはらと降り注ぐ季節だった。
屋敷の窓越しに見える庭は色を失い、冬の気配だけが静かに広がっている。
「うううっ……寒い寒い寒い……」
エリザベスは暖炉の前にしゃがみ込み、両手を擦り合わせていた。
揺れる炎に顔を近づけ、少しでも温もりを逃すまいと身を丸める。
「あらあら。薄着でいるからよ」
呆れたように、けれどどこか優しい声でキャサリンが言った。
指先を軽く動かすと、空中でふわりと毛布が浮かび上がり、そのままエリザベスの肩に落ちる。
「わっ……あったか……」
エリザベスは目を細め、毛布に包まりながら炎を見つめた。
キャサリンはその様子を確かめてから、背後に立つ人物へと視線を移す。
「あなたも、いりますか?」
声を向けられたトマスは、少しだけ間を置いて答えた。
「ああ……ありがとう、キャサリン。でも、いいかな」
そう言って、軽く首を振る。
彼の視線は、暖炉の前で丸くなり、満足そうに温まるエリザベスへと向けられていた。
炎の揺らぎに照らされるその横顔を、トマスは言葉もなく、ぼんやりと眺めている。
暖炉の火が、ぱちりと小さく音を立てた。
⸻
天球儀が、勝手に静かに回っていた。
淡い光を受けながら、星々が規則正しく巡る。
エドワードは本を空中に浮かせ、その動きをじっと眺めていた。
「……これが蠍座か」
指先で星をなぞりながら、独り言のように呟く。
「そろそろ射手座と、オリオン座の季節だな……」
その静寂を破るように、背後から控えめな声がかかる。
「国王陛下。少々、お時間よろしいでしょうか」
振り返ると、そこに立っていたのは摂政だった。
亡き母ジェーンの兄であり、そしてトマスの兄でもある男。
「ん? 摂政さん。どうかしたの?」
「前国王、ヘンリー様がお決めになっていた件についてでして……」
「ああ……それか」
エドワードは本を閉じ、ため息混じりに立ち上がる。
「すぐ行くよ」
その声に、少しの迷いと、少しの諦めが滲んでいた。
⸻
向かった先は、議会の場だった。
左右に分かれた席には、それぞれの利権を背負った男たちが並び、低い唸りのような空気が漂っている。
黄金の玉座に座るエドワードと摂政は、彼らを見下ろす位置にあった。
沈黙を破ったのは、右側に立つ重鎮だった。
「前国王がお決めになったのは、再婚の件だけだ!
国家としての方針まで、ユニバックを変える必要はない!」
その言葉を合図に、右側が一斉に騒ぎ出す。
「そうだ!」
「混乱を招くだけだ!」
「今以上に暴動が起きたらどうする!」
拳が振り上げられ、怒号が飛ぶ。
すると今度は、左側の重鎮がゆっくりと口を開いた。
「では、ユニバック教皇様から破門された件については、どうお考えで?」
ざわり、と空気が変わる。
「国教会はすでにユニバックから追放されている」
「戻れない立場である以上、レジスタントへ切り替えるべきでは?」
「おい、他国とやり合うつもりか!」
「戦争になるぞ!」
「それが通るなら、破門なんてされてねぇ!」
怒号と怒号がぶつかり合い、議会は完全に混乱していた。
その光景を、玉座の上からエドワードは黙って見つめている。
やがて、摂政が一歩前に出た。
「……この話を聞いて、国王陛下はどうお考えでしょうか」
エドワードは顎に人差し指を当て、しばらく考え込んだ。
数分にも感じられる沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「僕の父さんは……」
その声は、意外なほど静かだった。
「生前にやった行いを、もっと反省するべきだったと思う」
「こんなふうに、たくさんの人に迷惑をかけて……」
視線を落とし、白熱する会議の中エドワードは摂政に向けて思いを続けた。
ざわめきが再び広がりかけた、その瞬間。
「静粛に!!」
摂政の声が、議場に響き渡った。
一斉に視線が、玉座のエドワードへと集まる。
「皆の意見は、十分に聞かせていただいた」
「これより、国王陛下より直々に、国教会の方針を決めていただく!」
摂政は小さく声を落とす。
「……国王様。お出番です」
エドワードは、ゆっくりと立ち上がった。
「国教会についての意見、確かに聞かせてもらった。まず、皆ありがとう」
そして、まっすぐに前を見据える。
「結論だ」
「国教会は、レジスタントの方針へ切り替える」
一瞬、空気が凍りつく。
「理由は、父ヘンリー前国王が残した形だ」
「朕を含め、周囲は誠実に責任を取るべきだと考える」
「破門された事実を、真摯に受け止める」
「そして未来は、新しい形としてレジスタントを採用する」
「以上だ」
沈黙が、破裂する。
右と左、双方から怒号が噴き上がり、誰かが椅子を蹴倒した。
最初に拳を振り上げた男の腕から、炎が噴き出す。
燃え上がる拳が、そのまま相手の顔面へと叩き込まれた。
「ぐっ――!」
だが、殴られた男は即座に両腕を交差させる。
空気が凍りつき、腕の前に氷柱が瞬時に生成され、炎の拳を受け止めた。
氷が砕け散り、床に転がる。
別の場所では、男が指を一本立てた瞬間、鋭い稲妻が走った。
雷光が一直線に伸び、逃げ遅れた者の肩をかすめる。
「くそっ!」
回避しようとした足元から、今度は土が盛り上がる。
大地を纏った脚が、そのまま蹴りとして放たれ、相手を吹き飛ばした。
議会の場は、もはや言葉の応酬ではなかった。
魔法と魔法がぶつかり合い、
火、氷、雷、土が入り乱れ、
机は砕け、床は抉れ、天井から粉塵が舞い落ちる。
怒声、悲鳴、魔力の爆ぜる音。
――完全な混戦。
その光景を、黄金の玉座から見下ろしながら、
エドワードは座ったまま、そっと頭を抱えた。
「……これだから……」
小さく、吐き出すように呟く。
「国王は嫌なんだよ……」
「全員が幸せになる方法なんて、ないんだ……」
その背後から、摂政の穏やかな声がかかる。
「そんなことはありませんよ」
「国王様は、ご自身の役目を、きちんと果たされました」
エドワードは顔を上げ、摂政を見た。
魔法が飛び交う議場とは対照的に、その表情はどこか幼く、疲れている。
「細かいことは、摂政さんに任せるよ」
「僕は……こういうことより、天文学に没頭したいんだ」
困ったように、笑う。
「はい。承知しました」
摂政はそう答え、再び議場へと視線を戻した。
魔法で荒れ狂う人々と、
そのすべてを背負わされている、若き国王。
その背中を、摂政は静かに、そして確かに見守っていた。
⸻
日が沈み、屋敷は静かな夜に包まれていた。
暖炉の前。
毛布にくるまったエリザベスは、いつの間にか眠りに落ちている。顔の上には、読みかけの本がぱたりと伏せられたままだ。
トマスは椅子に腰掛け、湯気の立つココアを一口すすった。
視線の先では、エリザベスが毛布から少し腹を出したまま、無防備に寝息を立てている。
「……ベス。風邪引くよ」
そう呟いて、毛布をそっと引き上げた、その時だった。
――パキッ。
乾いた音が、暖炉の奥から響いた。
トマスは一瞬だけ眉をひそめたが、気のせいだと判断し、再びココアに口をつける。
しかし次の瞬間。
パキ、パキパキッ――!
薪が割れる音が連続し、暖炉の火が一気に跳ね上がったかと思うと、
ボワッという音と共に、火が弾け飛んだ。
次の瞬間、部屋は闇に沈んだ。
「……?」
灯りが、消えている。
暖炉は、灰だけを残して完全に沈黙していた。
「何かがおかしい……」
トマスは立ち上がり、部屋の隅に置いてあった箒と、予備の薪を掴む。
「……ん……寒っ……」
微かな声と共に、エリザベスが身じろぎした。
ゆっくりと目を開き、暗闇の中で辺りを見回す。
「あれ……? お母様は? トマスは?」
「ベス。俺はここだ」
闇の中からトマスの声が返る。
「どうなってんの? これ……」
「今は分からない。でも……怪しい」
エリザベスはすぐに理解したように、指先に意識を集中させた。
「暖炉は……灰だけか。……イグナイト」
パチッ、と小さな火が指先に灯る。
二人は指の火を頼りに暖炉の前に戻り、薪を組み直した。
「お母様は?」
「今は出かけてる」
トマスが答えてすぐに
「基礎魔法――火……」
エリザベスが手のひらを薪へ向けた瞬間、
ドガッ! ガゴォン!!
轟音と共に、天井が爆ぜた。
木屑が雨のように降り注ぎ、二人は思わず顔を上げる。
そこには――
天井と壁の境界を食い破るように開いた、巨大な穴。
そして、その奥から覗く、黒い影。
翼のようにも見える異形の輪郭。
狐のような尻尾が、一本、二本、三本――影の背後で増殖するように蠢いている。
「……っ!」
「くそっ!! 化け物だ!!」
トマスが叫んだ瞬間、
影から伸びた一本の尻尾が、一直線にトマスへ襲いかかった。
「基礎魔法:水 結晶盾!」
右腕を覆うように、氷の盾が瞬時に形成される。
ガンッ!
尻尾が盾に叩きつけられ、氷が悲鳴を上げた。
間髪入れず、二本目の尻尾が迫る。
「基礎魔法:火……!」
エリザベスが火を放とうとした、その瞬間。
――ドンッ!!
三本目の尻尾がエリザベスの身体を弾き飛ばした。
「うわっ……!」
背中と肩を壁に強打し、床に転がる。
「ベスッ!!」
トマスは歯を食いしばり、氷の盾に加えて左腕を岩石化させた。
だが――
四本目、五本目の尻尾が次々と叩きつけられる。
氷に亀裂が走り、腕に鈍い痺れが広がった。
「はっ……はっ……ベス……!」
息を荒げながら、必死に耐える。
「……トマス……私は……立てる……」
エリザベスは震える身体を起こした。
トマスは叫ぶ。
「逃げろ!! たぶん、こいつは俺目当てだ!!
ベスは……生き延びろ!!」
「そんなこと……!」
「いいから!! 逃げろ!!!」
エリザベスは歯を噛みしめ、四つん這いの姿勢から、前を見据えた。
「...基礎魔法:木
疾風走」
次の瞬間。
エリザベスの全身を風が包み込み、床を蹴った。
放たれた尻尾を――
一本目、低空で滑るように回避。
二本目、身体を捻ってかわす。
三本目、その勢いのまま、一直線にトマスへ。
四本目が迫る中、エリザベスは空中で身を翻し、
両腕を広げ――
トマスを抱きしめた。
「基礎魔法:火!!」
暖炉へ火球を叩き込む。
ドンッ!!
爆ぜる炎の衝撃で、二人は反対側の壁へ叩きつけられた。
燃え上がる火を前に、黒い影は一瞬、動きを止め――
尻尾を引き戻すと、飛蝗の脚のように伸ばし、闇の中へ消えていった。
壁際。
手と足が絡み合ったまま、二人は荒い息をついている。
「……ベス。ありがとう……
逃げればよかったのに……」
「家族だから……
見捨てられないよ……」
エリザベスの声は、震えていた。
「……怖かった。
トマス……すごく……怖かった……」
涙を滲ませるエリザベスを、トマスは静かに抱き寄せる。
「大丈夫だ。
家族である君を守るのは……当然だ」
「……トマス……
英雄みたいで……かっこよかったよ……」
暖炉の残り火が、二人を照らしていた。
⸻
明くる日。
街の屋敷の庭では、今日もいつもの光景が繰り広げられていた。
土がえぐれ、氷が砕け、草木が弾け飛ぶ。
何度も、何度も。
繰り返すうちに、エリザベスの身体には基礎魔法の理論が染み込んできている。
巨大な氷柱の頂点。
そこにつま先だけで立ち、見下ろすようにウィリアムが言った。
「小娘。前よりは動けるようになったな。少しはバカなお前も学習したようだ」
「うるせえ、クソジジイ。こっちは何時間練習してると思ってんだ」
エリザベスは吐き捨てるように言い、両腕を地面と平行に広げる。
(……地中に眠る石ころを、かき集めるんだ)
次の瞬間。
彼女の両手の下、中心から広がるように――
ガチガチッ!
岩がせり上がり、二つの塊となって姿を現す。
「基礎魔法:土――岩石弾!」
エリザベスはそのまま、二つの岩をウィリアム目掛けて放った。
直撃。
氷柱は大きく傾き、音を立てて倒れ込む。
だがウィリアムは崩れない。
「基礎魔法:木――飛蝗の機動」
空中で足元に波動が生まれ、それをバネのように蹴る。
次の瞬間、ウィリアムの身体は一直線にエリザベスへと飛び込んだ。
一気に距離が詰まる。
エリザベスの目前で、杖が突き出される。
「基礎魔法:水――高圧水噴射!」
轟音。
岩さえ削る勢いの水流が、一直線に放たれた。
エリザベスは跳び、身を捻り、水流をかわす。
(ウィリアムが言ってた……琥珀を擦ると埃がつくやつ)
不思議な力が、何かを引き寄せる。
それが――発動条件。
彼女の指先から、パチッと火花が散った。
火花は水流の中へと突っ込み、光りながら突き進む。
水を割り、流れを超え、一直線に――ウィリアムへ。
光が、彼の目前で弾けた。
ウィリアムは一歩、後退する。
燃え盛る火の向こうから、呆れた声が響いた。
「危ない危ない……バカ娘の金属性にやられるところだった」
彼の顔の前には、岩の壁。
それはすでに砕け、屑のように粉々になり、パラパラと地面に落ちていく。
⸻
「ただいまー」
エリザベスがいつもの温かな屋敷に戻ると、すぐに声が返ってきた。
「おかえり、ベス」
迎えてくれたのはトマスだった。
その奥の部屋から、鍋を両手に持ったキャサリンが顔を出す。
「ベス。早かったわね」
「今日の晩ご飯♪」
「今日は豆の煮込みよ」
「ちぇっ。シチューじゃないのかよ」
不満を口にしながらも、エリザベスは上着を脱ぎ捨てる。
新鮮なトマトの匂いが部屋いっぱいに広がっていて、それを胸いっぱいに吸い込みながらテーブルに腰を下ろした。
⸻
「ねえ、聞いてよ」
食卓につくなり、エリザベスは堰を切ったように話し始める。
「ウィリアムがさあ……いっつも小娘とかバカとか言ってくるの。大人気ないよね!クソジジイのくせに!!」
「はっはっはっ」
「ふふふふっ」
トマスとキャサリンは、笑いながらその愚痴を受け止める。
「それはさ」
トマスが穏やかに言った。
「ベスに強くなってほしいから、愛を持って接してるんだと思うよ」
「……愛?」
エリザベスは一瞬、言葉を噛みしめるように固まる。
「ないない。あるわけない」
「立場の弱い人を虐めるのが好きなだけでしょ。あいつ」
そう言って、ぶんぶんと手を左右に振ると、二人はまた笑い出した。
その光景の中で、エリザベスはふと気づく。
自分がもう、すっかりこの家の一員になっていることに。
⸻
別の日。
宮殿の庭を歩いていると、メアリーの姿が目に入った。
頭を抱え、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
「お姉様……元気でしょうか?」
「いつも顔色悪いですけど、今日は一段と悪いですよ」
そう声をかけると、メアリーはちらりとこちらを見て言い放つ。
「何よ。負け犬はさっさとあっちで吠えてなさい。ハウス!」
そして、また考え事に戻る。
「……ハウスの意味、わからないの?」
「ハ!ウ!ス!しっしっ」
エリザベスは思わず呆然としたあと、くすくすと笑ってしまった。
「お姉様、ちょっと変で……面白くて……」
「何なのよ!!!」
メアリーは声を荒げる。
「あんたの方が顔おかしいわよ!!」
「消えなさい、クソガキ!」
強く肩を押され、エリザベスが体勢を崩した瞬間、メアリーはその場を去っていた。
⸻
その夜。
屋敷の部屋で、暖炉の前。
毛布にくるまり、トマスとエリザベスは二人きりで並んで座っていた。
「聞いてよ、トミー〜……」
甘えるような声でエリザベスが言う。
「お姉様さ、顔色悪そうだったから話しかけたのに……」
「クソガキってボロクソに言ってくるんだけど」
「優しい妹ちゃんにめっちゃ酷いこと言うよね!本当、小根が腐ってるわ」
「はっはっ」
トマスは楽しそうに笑う。
「面白いお姉様だねえ。言葉の端々に知性を感じるよ。頭いいよ、お姉様」
「どこが?」
エリザベスはすぐに返す。
「前だってコーヒーと紅茶、間違えてたよ??どこを間違えるの?」
「はっはっはっ」
「頭いいのに天然って、ギャップがあっていいじゃないか」
そう言いながら、トマスはエリザベスをそっと抱き寄せる。
毛布ごと包み込み、胸の中へ。
そして、胸の奥から響くような声で、耳元にささやいた。
「なあ、ベス」
「お姉様のこと……俺とベスの二人だけの秘密にしてくれないか」
「……へっ?なんで?」
「キャサリンはね」
「まだお姉様のことを家族だと思っている」
「彼女は信じてるんだ」
「だから、あまり良くない話は聞かせない方がいい」
エリザベスは、しばらく黙ったままだった。
やがて、小さく頷く。
「……そうだね」
「わかった。二人だけの秘密」
そう言って、二人はそのまま、静かに抱きしめ合った。
⸻
「失礼します」
宮殿の広大な部屋に声が落ちる。
本を閉じたエドワードが顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「あ。お姉さん。来てくれたんだね」
左手で空を掻くようにして、エリザベスを招き入れる。
「エドワード。話って何よ?」
本棚を物色しながらエリザベスが言うと、エドワードは少し考えてから問いを投げた。
「お姉さんはさ。この星が太陽の周りを回ってるって話、信じてる?」
エリザベスは振り向く。
「昔、偉い人が言ってたやつでしょ」
「じゃあ、お姉さんはどう思うの?」
「私は信じてるよ。まあ……お姉様はさ。クエスト様信じてるから、死んでも言わないだろうね」
少し間が空く。
「それが何と関係あるのよ?」
「僕の周りの話さ」
エドワードは視線を落とし、淡々と続ける。
「影響力のある人間の周りを、どれくらいの人がぐるぐる回っているのか。
その例えみたいなものだよ」
「昔からそうよね。エドワードの話」
エリザベスは肩をすくめた。
「小難しいことばっか考えて。もっと気楽に生きればいいのに」
本棚に囲まれたまま、二人はしばらく互いの目を見つめ合った。
⸻
「ねえ聞いてよ。エドワードがさ……」
屋敷の書斎。
エリザベスの話に、トマスは笑った。
「はっはっは。弟くんも面白いね。ユニークな国王様だよ」
「トミーはさ?なんでエドワードがあんなこと言うと思う?」
トマスは椅子から立ち上がり、エリザベスと目線を合わせる。
右手が、彼女の輪郭をなぞるように触れた。
中指と薬指で顎をくいと持ち上げる。
「彼には彼の使命があるんだ」
低い声。
「太陽のように国の前に立つ人間の周りを、星である君たちがちゃんとついてくるのか。
それを確かめたかったんだよ」
顎を持ち上げていた指が、口元へ移る。
唇のひびをなぞるように、そっと。
エリザベスは訳も分からないまま、目を閉じ、顎をトマスへ向けた。
頬が、熱を帯びる。
「ベス。そういうことだ」
耳元で囁く。
「俺の言ってる意味、分かったかな?」
エリザベスは目を開けた。
「……まあ。エドワードも。王様には王様の事情があるのね」
「仕事を思い出した」
トマスは手を離し、椅子に戻る。
「すまない。部屋に籠って集中したい」
エリザベスは何も言えず、書斎を飛び出した。
扉の裏で、エリザベスは胸に手を当てる。
込み上げる感情を、必死に押さえ込む。
(家族……だよね)
そう分かっているのに。
家族ではない、何か。
彼女はその想いを胸の奥に閉じ込め、
扉から離れるように、暗い廊下を歩き出した。
⸻
氷が弾ける音が庭に響いた。
エリザベスが手のひらから生成した氷塊を、勢いよくウィリアムへ投げつける。だが次の瞬間、風がうねり、氷は空を切った。
「小娘。それで終わりか?」
巨大な氷柱の影から、ウィリアムの声が落ちてくる。
「猿真似で覚えた技を放つだけでは、所詮猿レベルの技だぞ」
歯を食いしばり、エリザベスはもう一度構えた。
⸻
背後から、ふいに腰を支えられた。
「えっ?」
よろけた体が、そのままトマスの胸に当たる。
低い声が、すぐ耳元に落ちてきた。
「そのおじさんはね、本当は君を褒めたいんだ」
トマスの左手が、しっかりと後ろ腰を支えている。
「だけど色々あって、素直になれないだけだよ。ベスはよく頑張ってる」
頭に、ゆっくりと重みが乗る。
「偉い偉い」
深く、何度も撫でられた。
⸻
街の憩いの店。
ロバートが紅茶を飲みながら、ちらりと視線を向ける。
「なんだよ、ベス……じっと見んなよ」
「ロバート」
エリザベスが指を差す。
「口にパン粉ついてる」
「えっ、えっ!? 嘘だろ!」
慌ててナプキンを掴み、口元を拭くロバートに、周囲が小さく笑った。
⸻
「トミー。私にもステーキちょうだい」
エリザベスは目を閉じ、口を開けたまま待つ。
トマスはフォークで刺したステーキを運び、静かに口元へ。
エリザベスが唇を閉じる。
フォークが引かれた。エリザベスが閉じたまま咀嚼すると
「ベス。ソースついてるよ」
「...うふふふっ。わざとだし」
エリザベスはナプキンで口元を拭き、悪戯っぽく笑った。
⸻
「おい! クソ虫! 聞いてないわよそんな事!」
宮殿の廊下に、メアリーの怒声が響く。
「三時間後に季節の慣わしですって!?」
「でも……」
「でもじゃねえよ!」
振り向きざま、八つ当たりのように言葉が投げつけられる。
「私の侍女も侍女だが、どいつもこいつも役立たずね!」
エリザベスは、それ以上何も言えず、立ち尽くした。
⸻
夜。
トマスの部屋で、櫛の音が静かに響く。
トマスはエリザベスの後ろ髪をとかし、前髪を探るように、ゆっくりと分けた。
「辛かったな、ベス」
低く、落ち着いた声。
「俺はいつまでも、ベスの味方だ」
櫛が止まり、指が髪に触れる。
「困ったら、いつでも相談しておいで」
一拍置いて、囁きが続く。
「それに……今日の髪、とてもいい匂いがする。綺麗だよ」
再び、頭が撫でられる。
エリザベスは何も言わず、顔をトマスの首元へと近づけた
⸻
外は空っ風が吹き始める頃だった。
木々はすっかり葉を落とし、雲ひとつない青空が広がっている。
窓ガラスの内側には、かすかに結露が浮いていた。
廊下に立つロバートが、その景色を眺めているエリザベスに声をかける。
「なあ、ベス。バトルしようぜ」
返事はない。
エリザベスは外を向いたまま、微動だにしなかった。
「聞いてるのか、ベス!」
「……ロバートか」
ようやく返ってきた声は、ひどく平坦だった。
「なあ、そんな退屈そうな顔すんなよ。バトルしようぜ」
「ごめん。今、そんな気分じゃないのよね」
彼女は再び外へ視線を戻す。
「珍しいな。何かあったのか?」
「あなたには関係ないでしょ」
軽く、あっさりと。
切り捨てるような言葉だった。
ロバートはすぐに言葉を返せなかった。
しばらく間を置き、意を決したように口を開く。
「……なあ。まさかとは思うけどさ。トマス……あいつに会おうとか、思ってるんじゃないよな」
エリザベスの目が、わずかに動いた。
退屈そうに細められていた視線が、はっきりとこちらを向く。
「は? 誰それ。知らないわよ、そんな人」
あからさまな誤魔化しだった。
ロバートの表情が変わる。
堪えていたものが、抑えきれなくなったように。
「あいつはやめた方がいい……トマスは、自分が成り上がるためなら何でもする男だ。お前を……ベスを、餌にしてるだけだ」
説得するように言った、その瞬間だった。
エリザベスが、勢いよく振り向く。
「――あなたが、トマスの何を知ってるって言うの?」
声が鋭くなる。
「王の手元にも入れない一般貴族の分際で、トマスを語らないで!!」
「違うんだ! 俺は……俺は……」
「じゃあ何よ!」
「……あいつのことなんて、どうでもいい……」
「だから、何なのよ!」
「だけど……ベスは……いや、ベスのことを……!」
言葉が詰まり、視線が泳ぐ。
「もじもじしてんなよ。情けない」
エリザベスは冷たく言い放った。
「私は、もっと落ち着いてる男が好きなの。あなたとは正反対ね」
それだけ言うと、彼女は背を向けた。
迷いも、振り返りもなく、廊下の奥へと歩いていく。
その場に残されたのは、ロバート一人だった。
「……クソッ」
自分の腿を叩き、歯を食いしばる。
「どうしてだ……十何年も一緒にいるのに、どうして彼女の乙女心ひとつ掴めない」
かすれた声で、吐き出す。
「あんな、ぽっと出の男に……奪われるなんて……」
服を掴み、胸元を引き寄せる。
答えの出ない問いを抱えたまま、ロバートはその場でもがき続けた。




