85話:猩々5
ナイトシュタインの保養地にある、先々代が療養のため起居する館。
その屋根は今、巨大な青黒い手に打ち払われていた。
赤く長い被毛、青黒い肌、紫の中に金色が光る獣の目。
牙を剥いて吠えるさまは荒々しいけだものでありながら、人間の感情として怒りが宿っていると感じられるものだった。
「なんだあの化け物は!? おじいさまは!?」
馬に押し上げられた若王は、後ろを振り返りながら冷遇してきたとはいえ身内を心配する。
今しも馬首を返しそうな雰囲気があるからこそ、俺は言わなければいけない。
「失礼ながらご報告いたします。最後に見た先々代の陛下は、髪が赤く体を覆い、体が異様に隆起し、紫と金の光る目の異形となっておりました。おそらく…………」
あの化け物が先々代なんて、どう言っても角が立つ。
ただ俺が濁しても、状況から、聞こえた者たちは察して息を呑んだ。
信じられないように、それぞれが巨大ボスと化した先々代を見上げる。
そこにルイーゼの比較的落ち着いた声がかけられた。
「神殿に伝わる記述には、魔王の配下は、魁夷なる異様を持つ魔人であるとありました。恐れながら、魔王と通じたことであのお方は、魔人という人を越えた存在になってしまったのではないでしょうか?」
俺が言ったら問題がある内容も、光の紋章を持つ聖女で、王女でもあるルイーゼだからこそ言えるもんだ。
もちろん立場があるからこそ、言ってしまえば撤回もできないんだが、今回は合ってる、はずだ。
不安しかないのは、そもそも魔人として巨大ボス化するのは先々代じゃないからだ。
本来そうなるはずだった王叔は、顔面蒼白で猩々を見上げ今にも倒れそうになってるし。
さらに言えば、このナイトシュタインで出てくるはずの巨大ボスは、熊だ。
猩々なんてボスは、ゲームに出てこない。
「ともかく一度、あの猩々の正体は保留にいたしましょう。現在確かなのは、共通した脅威がそこにあるということ。あれを倒す方策を考えるためには、一度、進行方向から逸れなければなりません」
エミール伯父さんは倒すべき敵として、猩々を意識させようとする。
けどナイトシュタイン側の人たちは、先々代かもしれない相手を倒すって言葉にショックを受けるばかりで、安全確保の提案さえ耳を素通りしているようだ。
だが、後を追うように両手を地面について歩き出した猩々の姿に、顔を引き攣らせた。
そして歩き出した猩々の行く先を案じたのは王叔だ。
「待ってくれ! このまま進めば王都だ。王都にあの巨体が到達したら?」
猩々はその体の大きさで館を突き破り、今も手足で建物を挽き潰すようにしながら進んでいる。
どんなに戦争や魔物の対策として堅牢な城壁を持っている王都でも、巨大ボスの大きさは想定外だ。
六階建てのビルが歩いてるようなもので、ゲームではナイトシュタインの西隣、トロイェンでの戦いの終盤、巨大ボス化した魔人によって王都は半壊状態に陥っていた。
「被害を最小限に抑えるために、まずは我々が対処に動かなければ全てが潰えるかもしれません」
エミール伯父さんの容赦ない言葉に、誰もが苦い顔になった。
つまり対処の時間、猩々は野放しで、打つ手がないから、被害が出ることは止められない。
それはただ逃げている今も同じだからこそ、被害は出るが、全てが猩々に潰される前に止める手段を講じなければ。
たぶん、この中で俺は比較的冷静な部類だ。
だって結局はゲームでも巨大ボスはいたし、倒したからこそエンディングを見た。
全てが潰える前に、打つべき手を知ってる。
だったら、個人的な罪悪感なんて、今は見ないふりをしなくちゃいけない。
「…………ユリウス」
「うん、魔人かもしれないなら、俺が行かないとね」
あまりにすんなり受け入れて笑うユリウスに、俺は思わず止めようと口を開いた。
けど、言えるわけがない。
他の誰が行くよりも、この絶望的な状況を覆す可能性を持つユリウスを引き留めるなんて意味がない。
だから俺は、ユリウスから目を逸らして、ウルリカに言った。
「ウルリカ、ユリウスを助けてやってくれ」
「あんなでか物相手によく言うわね」
「だからこそ、大きさを上回る数で潰すか、力で叩くしかない。紋章持ちのユリウスと打ち合えるウルリカだからこそ、助けられるはずだ」
実際発現こそしてないが紋章持ちで、ゲームでもナイトシュタインでの巨大ボスとの戦いにはウルリカも参加してた。
ユリウスが無事に解決するためにも、少しでも勝ち筋がほしい。
そのためにはゲームのシナリオっていう成功例をなぞるしかない。
俺は覚悟を決めた。
「無礼を承知で、王女殿下にも…………」
「皆まで言う必要はありません。これは私の意思であり、友であるユリウスとウルリカの助けとなる所存です」
ルイーゼは応諾はせず、自分から参加すると言ってくれた。
やることは一緒だが、その順番の違いで責任の所在がルイーゼになる。
というか、そもそも俺にそんな権限ないから、全部言ってたら無礼者ってことで後から罰されてたんだよな。
そう思ったのに、エミール伯父さんがとんでもないことを言い出した。
「これよりヴェーゼンの使節団は、特任指揮官のアーレントの指揮下に入る。徴集された者は速やかに応じろ」
突然のことに目を瞠ると、エミール伯父さんは呆れぎみに指摘する。
「クラレンツ公からの指揮権、返してないでしょ?」
「で、でもそれはヴェーゼンの話で…………」
「あれね、有事の際の指揮権だから、場合によっては敵国にそのまま攻め込むことも想定した権限なんだよ。駄目だよ、忙しさにかまけて基本的なところ疎かにしちゃ」
「まさか、こんな異常事態を想定していたとでも?」
俺に他国で軍事行動も許容される指揮権を持たせたまま、エミール伯父さんが帯同させたことに意図が?
指揮権を与えた王弟は、俺が他国で軍事行動可能と知っていたはずだ。
そんな危ない奴、普通は外交使節への胎動なんて許可しないけど、こうして今、それを使う機会が巡ってる。
「異常すぎるからさすがにないけど。一番は、勇者と聖女を動かすためだろう」
エミール伯父さんは声を潜めて教えてくれる。
つまり、二人が紋章の力を示すような場合、軍事行動と取られるような活動は普通できないが、指揮権がある者が徴収して命じるなら可能にできた。
その責任は全部俺だけど、権限あるから即処断じゃなく、命令は正しかったかっていう裁判になる。
無罪放免の可能性もあるが、改めて責任が段違いに重いことを痛感した。
「すぐに王都に置いてきた使節団の護衛任務にある騎士団も指揮下に入れるように」
「でもそれだと、外交官の守りが疎かになります」
「そこは立ち回りのしやすい身辺警護くらいの少数のほうが今はいいね」
逃げるには適してる、そんな声が聞こえるようだ。
けど外交官としては、この異常事態を確実に国へと届ける必要がある。
そしてその時間を稼ぐためにも、紋章持ちっていう戦力が対応すべきだ。
そう考えると若王も紋章持ちとして参戦してほしいが、どう言えばいいか。
そもそも俺は軍事関係は門外漢で、付け焼き刃。
こういう場合どう対応するか、意見を求められるレルナー先生がいてほしい。
「失礼、ローレンツどの。いや、指揮官どの。具申を」
決めかねる俺に馬を寄せてきたのはイジドラだった。
公爵令嬢なのにすごく慣れた様子で馬を操ってる。
「学院での学習内容でも、戦術戦略の類は専科を取ってはいらっしゃらないはずだ」
「そうです、いや、そうだ。少なくとも私よりも詳しい者がいれば推薦をしてくれ」
指揮官として口調も変える。
こういう雰囲気作りは大事だと、ダーリエフェルトの軍と相対した後、レルナー先生に言われた。
従える者たちの前で弱腰を見せる指揮官なんて、不安すぎてついていけないと。
信頼できない指揮官の下だと、兵は独自判断で勝手をするから、不安なんて出さず、へりくだるような真似もするなと。
それがたとえ高位貴族であっても、自らに付された権限より下なら下として扱えとも。
つまり、王女の護衛のようなことをしつつも、騎士でもなく学生で、実際の名目はただのおつきのイジドラは下だ。
正直心臓に悪いが、俺の無礼な口ぶりに、何故か嬉しそうにイジドラは応じた。
「では、僭越ながら私が。指揮官どのに劣る非才ながら、私を従えることで使える名目は多い。必要であれば適宜具申させていただく」
公爵令嬢が俺の下についた。
その姿勢だけでも、実績のない指揮官には権力の後ろ盾っていう助けになる。
「許す。…………イジドラ嬢、あなたは間が悪いわけではない。誰もが思いながらも動けない中で、言うべき時に言葉を発する誠実さが、周囲にとっては都合が悪く、悪しざまに言うだけだ。どうか、発言を躊躇わないでほしい」
今も状況について行けない中で、他の奴らの顔色なんて見ずに、自分が正しいと思うことをしてくれた。
その強さは、今の俺には心強い。
俺たちは混乱するナイトシュタインの一団を率いるようにして、猩々の進路から逸れる。
そしてまず俺が命じたことは、ユリウスを中心に補助役をつける程度で送り出すこと。
猩々を倒すのではなく、足を鈍らせることを指示したのだった。
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