第008話 隣にいるだけでは済まない
朝は、来た。
眠れた気はしない。
それでも、黒い石に薄い月光が残る旧宮の廊下には、夜とは違う冷たさがあった。
聖夜は、重い体を椅子に預けていた。
ここなが茶を配っている。
「はい、聖夜。顔、昨日よりは生きてる」
「比較対象が死んでる顔だからな」
「進歩じゃん」
ここなは笑ったが、目元には疲れが残っている。
美羽は、机の端でメモをまとめていた。
昨夜の侵入者。
市場の少年。
王配候補。
正室。
側室候補。
儀礼歌。
彼女の紙は、昨日よりさらに細かい文字で埋まっている。
ラヴィニアは不機嫌そうに髪を整えていた。
不機嫌というより、眠りが浅かったのを認めたくない顔だ。
イリヤーナは入口近くに立っている。
影の位置。
もう、そこにいることを誰も驚かなくなっているのが少し怖い。
ユリアは窓辺にいた。
黒月街の屋根を見下ろしている。
その背中は細い。
けれど、昨日までより遠い。
殿下と呼ばれる者の背中だった。
扉が叩かれた。
クローナが入ってくる。
今日は旧臣たちを連れていない。
一行だけの場だ。
彼女は深く頭を下げた。
「昨夜の件、旧宮の責任です」
最初に謝った。
言い訳ではなく、責任の所在を置く言葉だった。
「侵入者は拘束しました。現時点では口を割っておりません。旧宮内部の経路を知っていた可能性があります」
聖夜は拳を握った。
「つまり、ここも安全じゃない」
「安全であるべき場所です」
クローナは昨日と同じ言い方をした。
そして、今度は続けた。
「ですが、現実として、反対派は動きます」
部屋の空気が締まる。
クローナは全員を見た。
「整理いたします。ユリア殿下は帰還されました。神酒聖夜様は、殿下の隣に立つ者として見られています。美羽様、ここな様、ラヴィニア様、イリヤーナ様は、殿下と聖夜様の契約圏にいる者として扱われ始めています」
契約圏。
また新しい言葉だ。
聖夜は嫌な顔をした。
美羽が即座に書き留める。
「その言葉、あとで定義を確認します」
クローナは頷いた。
「必要でしょう」
「反対派って、何に反対してる」
聖夜は聞いた。
クローナは誤魔化さなかった。
「殿下の帰還そのもの。人間であるあなたの存在。王配候補という仮称。側室候補として扱われる方々。黒月礼拝堂の儀礼への関与。三年前の記録が開かれる可能性」
多い。
多すぎる。
聖夜は頭を抱えたくなった。
だが、今日は抱えなかった。
「俺がここから逃げたら、どうなる」
自分で聞いた。
部屋の全員が、わずかに息を止める。
ユリアが振り返った。
「聖夜、あなたは」
「ユリア」
聖夜は、初めて彼女の言葉を遮った。
怒りではない。
突き放すためでもない。
自分で聞くためだった。
「聞かせてくれ」
ユリアは唇を結んだ。
クローナは、少しだけ目を伏せてから答えた。
「あなたが去れば、殿下が人間に惑わされ、捨てられたという解釈が生まれます」
聖夜の胸が冷える。
「美羽様たちの扱いも不安定になります。殿下の承認で旧宮内に置かれた方々ですので、あなたとの関係が断たれたと見なされれば、保護の根拠が揺らぎます」
「つまり」
聖夜は喉の奥で言った。
「俺が逃げたら、ユリアとみんなに返る」
「はい」
クローナは、容赦なく頷いた。
ユリアが一歩動きかける。
今度はここなが先に言った。
「ユリアちゃん、今は止めないで」
ユリアは立ち止まった。
ここなの声は優しい。
けれど、ここでも彼女は空気を読んでいる。
聖夜が自分で聞く場だと、わかっている。
美羽が紙を置いた。
「逃げるか受けるかの二択にされるのが、一番危険」
「昨日の続きか」
「うん。逃げればユリアさんたちの立場が弱くなる。受ければ聖夜が制度に固定される。だからまず、知ること」
美羽は三つの項目を指で押さえた。
「三年前の事件。ユリアさんの不在。デスゲームとの接続」
デスゲーム。
その言葉が出ると、部屋の温度が少し下がる。
「そこを知らないまま、王配候補を受けるも拒むも危ない」
「拒むのも危ないのか」
「拒み方を間違えればね」
美羽は真っ直ぐに言った。
「あなたの自由を守ることと、ユリアさんたちの立場を壊さないことを、同時に考える必要がある」
聖夜は、ゆっくり息を吐いた。
以前なら、たぶん叫んでいた。
知らない。
そんなつもりじゃない。
勝手に決めるな。
今でも、そう言いたい。
けれど、それだけでは足りない。
ここなが茶器を置いた。
「聖夜が見たいなら、うちも見るよ」
軽い声だった。
でも、そこに逃げはない。
「街の人たちのことも、ユリアちゃんのことも。怖いけど、見ないとわかんないし」
ラヴィニアが腕を組む。
「利用されるだけでは終わりませんわ」
彼女は、昨夜の儀礼歌の時と同じ顔をしていた。
「側室候補などという呼び名でこちらを縛るなら、その呼び名に伴う保護、発言権、礼節、すべて要求します。名を押しつける者には、名の責任を取らせればよろしいのです」
「強いな」
聖夜が呟くと、ラヴィニアは当然のように顎を上げた。
「今さらですわ」
イリヤーナは入口で指を組んだまま言う。
「影は、必要なら動きます」
聖夜は彼女を見る。
「ただし」
イリヤーナは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「聖夜様の命に従います。殺すな、も継続いたします」
「頼む」
「努力ではなく、実行で」
美羽が少しだけ笑った。
イリヤーナの危うさは消えていない。
けれど、止まる言葉はある。
それだけでも、昨日とは違う。
ユリアが、聖夜の前に立った。
「それでも」
声は小さい。
「隣にいる?」
第一幕の言葉が、そこに戻ってきた。
隣にいろ。
ずっといろ。
あの時の聖夜は、国を知らなかった。
王家も、黒月街も、旧宮も、三年前の事件も知らなかった。
正室も側室も、儀礼歌も、反対派も知らなかった。
知らないまま、ユリアへ言った。
それでも、あの言葉が軽かったわけではない。
聖夜はユリアを見た。
「国を選んだとは、まだ言えない」
ユリアの目が揺れる。
聖夜は続けた。
「王配になるとも言えない」
クローナも、美羽も、黙って聞いている。
「でも、ユリアの隣にいるって言った。何も知らないまま言った言葉を、知らないまま軽く捨てるのは違う」
自分の声が、少し震えている。
格好よくはない。
迷っている。
怖い。
それでも、言葉を続けた。
「だから、見る」
ユリアの手が、わずかに動く。
「お前が何を背負ってたのか」
部屋は静かだった。
勝利の空気ではない。
誰かが救われた音もしない。
ただ、逃げ道を見た上で、まだここに残ると決めた沈黙があった。
クローナが深く礼をした。
「そのように手配します」
その声は、前より少しだけ柔らかかった。
「では、第二章への入口を開きます」
「入口?」
「三年前、ユリア殿下が消えた旧宮の記録があります」
ユリアの表情が強張った。
聖夜も息を止める。
「閲覧には、殿下ご本人と、隣に立つ者の立会いが必要です」
隣に立つ者。
また役割だ。
だが今度は、聖夜はすぐに反発しなかった。
その言葉が何を意味するのか、確認する必要がある。
知らないまま拒まない。
知らないまま受け入れない。
そう決めたばかりだ。
聖夜は、黙って頷いた。
ヴェルナが、窓辺で小さく笑った。
「いいね」
全員の視線が向く。
彼女は肩をすくめる。
「選択肢が増えたんじゃない。逃げ道が見えるようになっただけ」
「相変わらず言い方が悪い」
聖夜が苦い顔をすると、ヴェルナは楽しそうに目を細めた。
「でも、逃げ道を見た上で残る方が、見えてないよりはまし」
その通りなのが腹立たしい。
聖夜は何も言い返せなかった。
クローナが旧宮の奥へ案内する。
廊下は朝でも暗い。
壁の翼蛇の紋が、薄い光の中で黒く浮かんでいる。
ユリアは聖夜の隣を歩いた。
手は繋いでいない。
それでも、離れてはいない。
美羽が少し後ろで記録紙を抱え、ここなが街の方へ一度だけ目を向ける。
ラヴィニアは背筋を伸ばし、イリヤーナは影に溶けるように歩く。
ヴェルナは最後尾で、何かを見ているようで見ていない顔をしていた。
旧宮の奥に、古い扉があった。
黒い封印紐。
月の中に翼を持つ蛇。
錆びた金具。
クローナが、その前で足を止める。
「この先が、三年前の記録室です」
聖夜は扉を見た。
三年前。
ユリア・ヴァルシュタインが、この国から消えた日。
その記録は、まだ開かれていない。
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