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第007話 イリヤーナ、影に立つ

 眠れなかった。


 当然だと思う。


 デスゲームを抜けた。


 ユリアが殿下と呼ばれた。


 王配候補という仮称を置かれた。


 正室、側室候補、儀礼歌、黒月礼拝堂。


 そこへ市場の少年の声が重なる。


 また、殿下を連れていくのか。


 眠れるわけがない。


 聖夜は、旧宮の離れの寝台から抜け出した。


 誰かを起こさないように、静かに扉を開ける。


 廊下は暗かった。


 黒い窓に、月光が細く映っている。


 遠くの街の灯りが、水路の揺れに合わせてかすかに瞬いていた。


 旧宮は静かだ。


 だが、静かすぎる。


 ダンジョンの静けさとは違う。


 ここには人がいる。


 人がいるのに、息を潜めている静けさだった。


 聖夜は廊下を歩いた。


 足音が黒い床に吸われる。


 手すりの向こうに、黒月街の屋根が見える。


 あの街も眠っているのだろうか。


 それとも、ユリアが戻ったことで、まだ誰かが起きているのだろうか。


 考え始めると、また眠れなくなる。


 もう眠れていないのだから、手遅れではある。


「眠れませんか、聖夜様」


 背後から声がした。


 聖夜は本気で跳ねた。


「うわっ」


 振り返ると、イリヤーナがいた。


 黒い廊下の影に、最初から溶けていたように立っている。


 白い指を胸元で組み、微笑んでいる。


「驚かせてしまいましたか」


「驚くに決まってるだろ」


 聖夜は胸を押さえた。


「いつからいた」


「聖夜様がお部屋を出られる少し前から」


「それはそれで怖い」


 イリヤーナは、なぜか嬉しそうに目を細めた。


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「恐れられるほど近くに在れたなら、祝福です」


「その解釈が怖い」


 軽口の形にはなった。


 けれど、聖夜は本気で少し怖かった。


 彼女の献身は深い。


 深すぎる。


 底が見えない井戸を覗いているような気分になる。


 イリヤーナは、聖夜の隣ではなく、少し後ろに立った。


 護衛の位置。


 祈る者の位置。


 影の位置。


「旧宮は、祈りの場所に似ています」


 彼女は廊下の奥を見た。


「静かで、古くて、秘密が溜まる」


「秘密」


「ええ。祈りの場所ほど、秘密が溜まります。誰かを救ってほしい願いも、誰かを罰してほしい願いも、同じ場所へ置かれるからです」


 聖夜は、黒い窓を見た。


「この宮にも、そういうのがあるのか」


「あるでしょう」


 イリヤーナの声は淡い。


「殿下の帰還を喜ぶ者もいる。恐れる者もいる。喜ばない者もいる」


「喜ばない」


「失われたものが戻ると、失われたままで得をしていた者は困ります」


 聖夜は息を止めた。


 その発想はなかった。


 ユリアがいなかった三年。


 その間に、誰かが何かを得ていたかもしれない。


 地位。


 利権。


 安心。


 戻ってきたユリアは、待たれていた存在であると同時に、誰かの都合を壊す存在でもある。


「信仰は、守る力にもなります」


 イリヤーナは続けた。


「けれど、縛る力にもなります。祈りが正しさを名乗る時、人は残酷になれる」


 その言葉を、彼女が言うことが少し怖かった。


 イリヤーナ自身も、信仰に近い何かで聖夜を見ている。


 聖夜はそう感じている。


 本人に言えば、たぶん否定しない。


 むしろ微笑むかもしれない。


 廊下の奥で、微かな音がした。


 布が壁を擦るような音。


 聖夜が反応するより早く、イリヤーナが消えた。


 本当に、消えたように見えた。


 次の瞬間、廊下の影から短い息が漏れる。


 聖夜が駆け寄ると、黒い外套の人物が床に押さえつけられていた。


 イリヤーナの膝が相手の腕を封じ、細い刃が喉元の手前で止まっている。


 派手な戦闘ではない。


 音もほとんどなかった。


 ただ、終わっていた。


「何者です」


 イリヤーナの声は低い。


 相手は答えない。


 口元に布を巻き、目だけがこちらを見ている。


 恐怖ではない。


 決意でもない。


 何かを隠す目だ。


「旧宮の者か」


 聖夜が問う。


 相手は黙ったままだ。


 イリヤーナの刃が、ほんの少し近づく。


「聖夜様が望まれるなら、闇の中の敵はすべて」


「殺すな」


 聖夜は即座に言った。


 自分でも驚くほど強い声だった。


 イリヤーナの動きが止まる。


「まだ何も知らない」


 聖夜は続けた。


「誰の命令かも、何をしに来たのかもわからない。殺すな」


 イリヤーナは、刃を止めたまま聖夜を見る。


 その目に、少しだけ恍惚に似た光があった。


 命じられたことを喜んでいる。


 それも怖い。


 だが、止まった。


 そこが大事だった。


「承りました」


 イリヤーナは刃を引いた。


 外套の人物は逃げようとしたが、彼女の手が肩を押さえたまま動かない。


「拘束は続けます」


「それは頼む」


 聖夜は息を吐いた。


 怒りが遅れてこみ上げてくる。


 自分が狙われたのかもしれない。


 それだけなら、まだよかった。


 よくはないが、まだ怒りの方向は単純だ。


 だが、もしユリアだったら。


 ここなだったら。


 美羽、ラヴィニア、イリヤーナ。


 誰かがまた奪われる可能性がある。


 その想像だけで、視界が熱くなった。


「ふざけるなよ」


 聖夜は低く言った。


 外套の人物は答えない。


 口を割るつもりはなさそうだった。


 その時、廊下の反対側から足音が近づいた。


 クローナだった。


 護衛を二人連れている。


 彼女は状況を一目で見て、表情を変えた。


「侵入者ですか」


「盗み聞きか、襲撃かはわからない」


 聖夜は答えた。


「イリヤーナが止めた」


 クローナはイリヤーナを見る。


「反応が早い」


 評価の声だった。


 同時に、警戒もある。


「ただし、旧宮内で刃を抜いた事実は記録します」


 イリヤーナは微笑んだ。


「必要でしたので」


「必要性も含めて記録します」


 クローナは護衛へ合図し、外套の人物を引き渡させた。


 相手は最後まで何も言わなかった。


「旧宮は安全じゃないのか」


 聖夜は聞いた。


 クローナは少しだけ沈黙した。


「安全であるべき場所です」


「答えになってない」


「はい」


 クローナは認めた。


「現時点で、安全であるとは申し上げられません」


 その正直さが、かえって重い。


 聖夜は拳を握った。


 受け身でいたら駄目だ。


 誰かが説明してくれるのを待っていたら、また遅れる。


 デスゲームで嫌というほど知ったはずなのに、ここに来てまた流されかけていた。


「全員を起こす」


 聖夜は言った。


 クローナが目を細める。


「今からですか」


「今からだ」


「疲労が」


「知ってる。でも、知らないまま寝る方が危ない」


 イリヤーナが、嬉しそうに微笑んだ。


「聖夜様のご判断に従います」


「従うなら、殺すなを継続で」


「……努力いたします」


「努力じゃなくて実行」


 美羽の言い方が移った。


 イリヤーナは少しだけ残念そうに、しかし確かに頷いた。


 廊下の暗がりの奥で、ヴェルナが一瞬だけこちらを見ていた。


 いつからいたのか、わからない。


 彼女は何も言わない。


 ただ、暗がりのさらに奥を見るような目をしていた。


 聖夜はそれを見なかったことにできなかった。


 けれど今は、問い詰める時間ではない。


 旧宮の離れに戻り、聖夜は全員を集めた。


 ユリアはすぐに起きた。


 美羽は眠そうな顔のまま記録紙を掴む。


 ここなは毛布を肩にかけている。


 ラヴィニアは不機嫌そうに髪を整え、イリヤーナは当然のように聖夜の背後へ立つ。


 クローナも同席した。


 聖夜は、全員を見た。


 今度は誰かに説明されるのを待たない。


 自分から言う。


「俺たちは、ただ泊めてもらってるだけじゃない」


 声は少し掠れていた。


 それでも、言い切った。


「この街で、もう何かが始まってる」



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