第006話 ラヴィニア、歌姫として見られる
旧宮の外から聞こえた歌は、低かった。
水路の底を撫でるような声。
夜の石畳に染み込むような旋律。
聖夜には、それがただ古い歌に聞こえた。
けれど、ラヴィニアだけは違う顔をした。
「この旋律」
彼女は窓辺へ歩いた。
「ただの民謡ではありませんわ」
黒月街の細い道を、祈りの列が進んでいた。
黒い衣をまとった数人の歌い手。
手に小さな灯りを持つ礼拝堂の者たち。
市場の喧騒とは違う、儀礼のための歩みだった。
歌は大きくない。
人を集めるためではなく、道を清めるために置かれているような声だった。
ラヴィニアは窓を少し開ける。
冷たい夜気が入ってくる。
彼女は目を閉じた。
「三拍目の沈み方が妙ですわね。音階は古い月祈りに近い。けれど、言葉の区切りが王家の帰還歌と混ざっていますわ」
聖夜は、ほとんど理解できなかった。
ただ、ラヴィニアが本当に聞き分けていることだけはわかった。
歌を聞いているのではない。
歌の中にある構造を読んでいる。
音階。
魔力の揺れ。
言葉の切れ目。
それらを、彼女は当然のように捉えていた。
「ラヴィニア」
聖夜が声をかけると、彼女は目を開けた。
「これは儀礼歌ですわ」
クローナが、廊下側から静かに答えた。
いつの間にか、扉の近くに立っている。
「ヴァルシュタイン王家の帰還時に歌われる古い歌の断片です。黒月礼拝堂へ向かう祈りの列が、今夜から歌い始めました」
「帰還時」
ユリアの表情が少し硬くなる。
クローナは頷いた。
「王家の帰還。月の蛇への祈り。失われた血筋が戻ったことを街へ知らせるための歌でもあります」
ラヴィニアは腕を組んだ。
「断片、というのが気になりますわね」
「完全な形は、長く使われておりません」
クローナの声は慎重だった。
「古い形式では、正室と側室が声を重ねる箇所がありました」
聖夜は、嫌な予感がした。
またその言葉だ。
側室。
この国は、こちらが一つ片付けたと思うと、別の角度から同じ言葉を出してくる。
ラヴィニアの眉が、見事に吊り上がった。
「今、何と?」
クローナは逃げなかった。
「古い形式の説明です。現在そのまま適用するとは申し上げておりません」
「当然ですわ」
ラヴィニアの声が冷える。
「わたくしは誰かの添え物として声を重ねるために歌うのではありません」
その時、廊下の向こうから礼拝堂関係者が近づいてきた。
黒い礼装の男と、歌い手らしい女が一人。
彼らはクローナに礼をし、ユリアにも深く頭を下げた。
そして、ラヴィニアを見た。
見た、というより、聞いた。
声を出していない彼女の喉や姿勢を、品定めするように見た。
男が口を開く。
「その声なら、儀礼に耐えられる」
褒め言葉なのだろう。
たぶん、彼らの側では。
だが、言われたラヴィニアの空気が変わった。
「耐えられる?」
聖夜はまずいと思った。
止めようと一歩出る。
「ラヴィニア、待っ」
「お黙りなさい」
即座に切られた。
聖夜は止まる。
ここで庇うのは、たぶん違う。
彼女を守るつもりで前に出れば、ラヴィニアを守られる側に置いてしまう。
それは、今この場で一番してはいけないことだった。
ラヴィニアは礼拝堂の男をまっすぐ見た。
「わたくしの声は、値踏みされるためのものではありませんわ」
男がわずかに眉を動かす。
「値踏みではございません。儀礼に相応しいかを」
「それを値踏みと言いますの」
ラヴィニアは一歩も引かない。
「歌を必要とするなら、まず歌い手に礼を尽くすことです。側室候補という名札を見て、声を測るのではなく」
美羽が小さく頷いた。
ここなは少し緊張した顔で見ている。
ユリアは黙っている。
黙って、ラヴィニアに場を渡している。
ラヴィニアは窓辺へ戻り、外の祈りの列へ耳を向けた。
「それに、その歌は歪んでいますわ」
歌い手の女が目を見開く。
「歪んでいる、とは」
「古いからではありません。欠けたまま使っているからです」
ラヴィニアは、息を整えた。
そして、一節だけ歌った。
声は大きくない。
けれど、部屋の空気が変わった。
低く始まり、月の光を掬うように上がり、最後に柔らかく沈む。
黒月街の祈りの旋律をそのままなぞったわけではない。
歪みを正し、足りない間を補い、余計な飾りを削った一節だった。
魔力灯が、わずかに揺れた。
青紫の光が、窓の枠に波のような影を作る。
派手な魔法ではない。
壁が震えるわけでも、空が割れるわけでもない。
ただ、その場にいた全員が息を呑んだ。
聖夜も、何も言えなかった。
ラヴィニアの歌は、第一幕でも聞いている。
けれど、今の一節で初めてわかった気がした。
彼女の歌は、演出ではない。
気分を盛り上げるものでもない。
場の形を整える力だ。
歌い手の女が、深く頭を下げた。
礼拝堂の男も、遅れて姿勢を正す。
「失礼いたしました」
声の調子が変わっていた。
さっきまでの品定めではない。
交渉相手を見る声だ。
「改めて伺います。ラヴィニア・ルクレツィア様。儀礼歌について、ご助言をいただくことは可能でしょうか」
ラヴィニアは満足げに顎を上げた。
「最初からそう言えばよろしいのです」
聖夜は、こっそり息を吐いた。
強い。
本当に強い。
高慢に見える言葉の奥に、自分の価値を勝手に測らせない防衛線がある。
それを、彼女は自分で引いた。
聖夜は、余計なことを言わなくてよかったと思った。
ラヴィニアは聖夜へ振り返る。
「あなたもですわ」
「俺?」
「あなたの側室などという呼び名で、わたくしを安く見積もらないことですわ」
聖夜は真顔で頷いた。
「わかった」
「本当にわかっていますの?」
「今の歌で、だいぶ」
ラヴィニアは一瞬だけ目を逸らした。
「なら結構です」
それから、少しだけ声を落とす。
「必要なら、歌って差し上げます」
聖夜は彼女を見た。
ラヴィニアは窓の外を見ている。
「あなたが逃げないなら」
それは、甘い言葉ではなかった。
条件だった。
自分を安く見積もらず、制度からも逃げず、場に立つなら、歌う。
そういう宣言だった。
「逃げないようにする」
「ように、では弱いですわ」
「逃げない」
ラヴィニアは、ようやく少しだけ笑った。
ユリアが一歩前へ出る。
「ラヴィニア」
ラヴィニアは、少し身構えた。
正室と側室候補。
この国の言葉で言えば、そう分類される二人だ。
だが、ユリアはその上下で話さなかった。
「ありがとう」
短い礼だった。
ラヴィニアは目を瞬かせる。
「まだ何もしておりませんわ」
「立ってくれた」
ユリアの声は静かだった。
「それで、十分」
ラヴィニアは少しだけ頬を赤くした。
「当然のことをしたまでです」
ここなが小さく笑う。
美羽は記録紙に何かを書き込んだ。
おそらく、儀礼歌、礼拝堂、ラヴィニア、交渉対象。
また項目が増える。
聖夜は、その文字を想像して少しだけ頭が痛くなった。
だが、前よりはましだ。
ただ巻き込まれているだけではない。
こちらにも、立てる人がいる。
声で場を変えられる人がいる。
礼拝堂関係者が去った後、廊下の空気が少し静かになった。
祈りの列の歌は遠ざかっている。
その時、イリヤーナが聖夜の背後へ静かに立った。
いつからそこにいたのか、気配が薄すぎてわからない。
「声で守る者がいるなら」
彼女は、祈るように指を組んだ。
「影で守る者も必要です」
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