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第005話 美羽、制度の危うさに気づく

 旧宮の離れへ戻った時、聖夜は本気で寝たかった。


 体は限界に近い。


 頭も限界に近い。


 市場で投げられた黒い木の実の感触が、まだ足元に残っている。


 人間。


 また、殿下を連れていくのか。


 その声は、怒りよりも先に疲れになって聖夜へ沈んでいた。


 寝たい。


 倒れたい。


 できれば、正室とか側室候補とか王配候補とか、全部いったん布団の外へ置いておきたい。


 そう思った瞬間、美羽が机に記録紙を広げた。


「寝る前にこれだけ聞いて」


「今?」


「今」


 委員長モードだった。


 逃げ道はない。


 ここなが水を置いてくれる。


「美羽ちゃん、顔が完全に会議の顔」


「会議にする。今しないと、明日にはもっと悪化する」


 聖夜は椅子に座った。


 ユリアは少し離れた場所に立っている。


 ラヴィニアは腕を組み、イリヤーナは窓際の影にいる。


 ヴェルナは、なぜか部屋の隅で壁の紋章を眺めていた。


 クローナの姿はない。


 ただ、扉の外に誰かが立っている気配はある。


 護衛だろう。


 そう思うことにした。


 美羽は、紙の上に四つの項目を書いた。


 クローナの言葉。


 部屋割り。


 住民の噂。


 市場での反応。


 その下に、線を引く。


「問題を三つに分ける」


「三つ」


 聖夜は水を飲みながら繰り返した。


「一つ目。聖夜の言葉が、契約として扱われる」


 美羽は容赦なく言った。


「隣にいる、ずっといる、手を離さない。私たちから見れば個人的な言葉でも、この国では魂の契約の痕跡とか、伴侶の宣言とか、そういうものに翻訳される可能性がある」


 聖夜は顔をしかめた。


「恋愛ゲームの数値みたいなものが、まだ尾を引いてるってことか」


「数値として出てないだけで、痕跡として読まれてる」


 美羽は頷く。


「二つ目。ユリアさんの隣に立つことで、聖夜は王配候補と見なされる」


「仮称だろ」


「仮称でも、周囲はその仮称に合わせて動く」


 ラヴィニアがそこで口を挟んだ。


「名を与えられた瞬間、周囲はその名に合わせて扱いますわ」


 彼女の声は、いつもの高慢さを含んでいる。


 けれど、今はそれが頼もしい。


「王配候補と記されれば、あなたは王配候補として監視されます。伴侶候補と記されれば、伴侶候補として部屋を用意される。側室候補と記されれば、わたくしたちもその名に沿った扱いを受ける」


「仮でも?」


「仮だからこそですわ。正式でないものほど、周囲の解釈で形が変わります」


 聖夜は黙った。


 言葉が形を作る。


 この国では、それが早すぎる。


 美羽は三つ目の項目を指した。


「三つ目。側室扱いは、私たちの居場所を作る一方で、政治的な囲い込みになる」


 ここなが小さく息を吐いた。


「居場所と檻が一緒に来るやつ」


「そう」


 美羽は頷く。


「旧宮の離れに部屋がある。排除されない。守られる。発言権も多少は出るかもしれない。でも同時に、私たちは聖夜とユリアさんの関係の中に配置される。自由な客人ではなくなる」


 聖夜は、頭を抱えた。


「じゃあ否定すればいいのか」


「否定だけでは駄目」


 即答だった。


「否定すれば、ユリアさんの判断を否定したことになる。私たちの居場所も弱くなる。王配候補を拒むだけなら簡単に見えるけど、その余波は聖夜だけに返ってこない」


 美羽は紙を叩いた。


「でも、受け入れれば、聖夜の自由が削られる」


 部屋が静かになった。


 聖夜は、その二択の悪さにうんざりした。


 否定すれば、ユリアと仲間の立場が弱くなる。


 受け入れれば、自分が制度の中に固定される。


 どちらも嫌だ。


「私のせい」


 ユリアが小さく言いかけた。


「違う」


 聖夜とここなの声が重なった。


 ユリアが目を瞬く。


 ここなが少し笑った。


「ユリアちゃん、それ言ったら、また全部ひとりで背負うでしょ」


 聖夜も頷く。


「選んだのは俺でもある。わかってなかったけど、言ったのは俺だ」


「でも」


「でも、で戻らない」


 美羽がそこを切った。


 冷たいのではない。


 今は、優しく溶かすより形を保つ方が必要なのだ。


「責任の所在を一人に集めると、この制度はもっと危なくなる」


 ユリアは唇を結び、黙って頷いた。


 イリヤーナが、窓際から静かに言った。


「では、反対する者を黙らせましょう」


 全員が彼女を見る。


 イリヤーナは真顔だった。


「祈りで沈黙を与えることもできます。必要なら、姿を消していただくことも」


「却下」


 美羽が即座に言った。


 本当に一秒も迷わなかった。


「早いですね」


 イリヤーナは少しだけ不満そうだ。


「早く却下する内容だから」


「聖夜様を守るためですが」


「それで聖夜が政治的に孤立したら守れてない。あと普通に怖い」


 ここなが小さく手を上げる。


「うん、普通に怖い」


 ラヴィニアも頷いた。


「美しくありませんわ」


「美しさの問題ですか」


「政治は見え方も問題ですの」


 聖夜は、少しだけ笑いそうになった。


 笑える状況ではない。


 だが、イリヤーナの危うさを全員で即座に止められることに、少しだけ救われた。


 イリヤーナは聖夜を見た。


「望まれませんか」


「望まない」


 聖夜ははっきり言った。


「俺を守るために誰かを消すな」


 イリヤーナは目を伏せる。


「難しい願いばかりです」


「それでも頼む」


 彼女は答えなかったが、今度は黙って引いた。


 ヴェルナが、壁の紋章を見たまま言った。


「選択肢が表示されないゲームほど、選ばされている」


 部屋の空気が、妙に冷えた。


 ゲーム。


 聖夜はその言葉に反応した。


 もう終わったはずの言葉。


 けれど、今の状況はたしかに選択肢のないゲームに似ている。


 受ける。


 拒む。


 どちらを選んでも罠がある。


 しかも、画面には何も表示されない。


「ヴェルナ」


 美羽が名前を呼ぶ。


「説明できる?」


 ヴェルナは肩をすくめた。


「説明したら、説明になりすぎる」


「何それ」


「刺すだけにしておく」


 本当に刺すだけだった。


 だが、妙に残る一言だった。


 美羽は深追いしなかった。


「方針を出す」


 彼女は紙の上に、新しい線を引く。


「一つ。すぐに王配候補を受けるとも拒むとも言わない」


 聖夜は頷いた。


「二つ。まず、魔の国の制度と三年前の事件を調べる」


 ユリアの肩がわずかに動いた。


 三年前。


 その言葉はまだ痛い。


 でも、避けて通れない。


「三つ。聖夜の言葉は、公的な場で軽く出さない。必要なら、私が確認するまで止める」


「俺、そんなに危なっかしいか」


 全員が一瞬黙った。


「そこで黙るな」


 ここなが申し訳なさそうに笑う。


「いや、危なっかしいっていうか、まっすぐすぎる?」


「それ、危なっかしいって意味だろ」


「まあ」


 美羽は遠慮しなかった。


「危なっかしい。あなたは感情で正しいことを言おうとする。でもここでは、正しい気持ちの言葉でも制度に回収される」


 聖夜は言い返せなかった。


 隣にいる。


 それだけの言葉が、ここまで大きくなった。


「わかった」


 聖夜は、紙の上の三つの方針を見た。


「俺、黙って流されるのだけはやめる」


 美羽の表情が少し緩んだ。


「黙らないことと、考えずに言うことは違うから」


「わかってる」


「本当に?」


「今から覚える」


 ここなが吹き出した。


 ラヴィニアは呆れたように笑う。


 ユリアも、ほんの少しだけ息を抜いた。


 その小さな緩みが、今は大事だった。


 美羽は紙を畳む。


「それと、ユリアさん」


「うん」


「三年前のこと、今すぐ全部話さなくていい。でも、調べることは許して」


 ユリアは少しだけ目を伏せた。


 沈黙。


 短い沈黙の後、彼女は頷いた。


「わかった」


 それは、許可というより覚悟だった。


 聖夜はユリアを見た。


 彼女が背負っているものは、まだほとんど見えていない。


 見えていないのに、もう自分たちはその周囲に立っている。


 扉の外で、布の擦れる音がした。


 聖夜が振り返る。


 クローナが、わずかに離れた位置に立っていた。


 盗み聞き、という感じではない。


 護衛の位置。


 けれど、聞こえていなかったとは言わない距離だった。


「失礼いたしました」


 クローナは深く礼をする。


「旧宮の警護確認に参りました」


 美羽を見る目が、少しだけ違っていた。


 評価している。


 そんな気配があった。


「真壁様」


「はい」


「先ほどの整理、記録に残してもよろしいでしょうか」


 美羽は一瞬だけ驚き、それからすぐに表情を整えた。


「本人確認前の内部方針としてなら」


 クローナの目が細くなる。


「記録します」


 聖夜は、そのやり取りを見て思った。


 美羽はもう、ただ巻き込まれた仲間ではない。


 この国の言葉に対抗するための、こちら側の言葉を作っている。


 参謀。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 その時、旧宮の外から低い歌声が聞こえた。


 水路を渡るような、夜の底を撫でるような旋律。


 聖夜には、ただ古い歌に聞こえた。


 けれど、ラヴィニアが顔を上げた。


 その表情が変わっている。


「この旋律」


 彼女は低く言った。


「ただの民謡ではありませんわ」



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