第004話 ここな、黒い街の靄を読む
「顔、死んでる」
ここなが、開口一番そう言った。
旧宮の離れの廊下である。
女官たちはまだ近くにいる。
クローナもいる。
ユリアも、美羽も、ラヴィニアも、イリヤーナもいる。
その状況で、聖夜の顔を見たここなの第一声がそれだった。
聖夜は反論する気力もなく、壁に手をついた。
「生きてるだけで精一杯なんだよ」
「それはそう」
ここなはあっさり頷いた。
「でも顔、ほんとに死んでる。ちょっと市場でも見て、呼吸した方がいい」
「市場って、今?」
「生活に必要な物資確認です」
クローナが横から言った。
どうやら、ただの散歩ではないらしい。
旧宮の離れで仮滞在する以上、衣類、薬、食事、日用品を確認する必要がある。
正式な視察ではない。
そう説明されたが、聖夜にはもう違いがよくわからない。
ただ、ここに閉じこもって部屋割りと正室と側室候補という言葉を反芻しているよりは、外の空気を吸った方がましだった。
黒月街の市場は、旧宮から少し下った場所にあった。
夜でも灯りが消えていない。
青紫の魔力灯が軒先に吊られ、黒い果実が籠に積まれている。
果皮は艶のある墨色で、割れ目から赤い果肉がのぞいていた。
薬草の束。
骨細工の飾り。
月紋の布。
小瓶に入った銀色の粉。
香辛料らしい黒い粒。
どれも異世界そのものなのに、並び方は生活の店だった。
値段を聞く声。
品物を包む手。
子どもを叱る母親。
店先を掃く老人。
魔の国という言葉から想像していたより、ずっと普通で、ずっと複雑だった。
聖夜たちが市場へ入ると、空気が少し止まった。
ユリアを見て、年配の店主が深く頭を下げる。
若い住民たちは距離を取る。
子どもが一人、母親の後ろから顔を出した。
ユリアを見て、固まる。
母親が慌ててその子の頭を押さえた。
「殿下に、礼を」
声が震えている。
子どもは泣きそうな顔になった。
けれど、逃げなかった。
ユリアは怒らなかった。
ただ、小さく手を振った。
子どもの目が大きくなる。
母親はさらに深く頭を下げた。
その姿を見て、聖夜の胸が少し詰まった。
歓迎されている。
でも、怖がられている。
その二つが、同じ場所にある。
「変な感じだな」
聖夜が呟くと、ここなが隣で頷いた。
「歓迎してるのに、怖がってる」
「矛盾してないか」
「してる。でも、人の気持ちってだいたい矛盾してるじゃん」
ここなは軽く言った。
けれど、声の奥は軽くなかった。
彼女は市場の奥を見ている。
住民たちの顔。
伏せられた視線。
開きかけて閉じる口。
噂になりきらない息。
それらを、肌で拾っているようだった。
「あーし、こういう場所でも全然平気っぽく見えるでしょ」
ここなはわざと明るく言った。
「いや、実際わりと平気そうに見える」
「見えるようにしてるだけ」
その言葉だけ、少し声が変わった。
外向きの「あーし」ではない。
聖夜にだけ聞かせる、低い「うち」の声だった。
「うち、こういう空気、ちょっと知ってる」
「こういう空気?」
「みんなが同じ方向見てるのに、気持ちがばらばらなやつ」
ここなは、黒い果実の店先で足を止めた。
「好きとか嫌いとかだけじゃなくて、期待とか、怖いとか、怒ってるとか、でも待ってたとか。そういうのが混ざって、靄みたいになる」
靄。
前の夜、彼女はこの街が泣いているみたいだと言った。
聖夜はその意味を、少しずつ理解し始めていた。
市場の奥から、低い噂が聞こえる。
「殿下が戻った」
「王家が動くぞ」
「三年も空いた」
「また奪われるのでは」
「人間の男がいる」
「契約者か」
「地上の者か」
言葉は断片だ。
誰が言ったのかもわからない。
だが、聖夜の耳には刺さった。
また奪われるのでは。
その一言だけが、やけに重い。
「嫌われてるだけじゃないって言ったよな」
聖夜はここなに聞いた。
ここなは頷く。
「うん。ユリアちゃんのこと、嫌いって感じじゃない」
「じゃあ」
「失ったものが戻ってきたから、また失うのが怖いんだと思う」
聖夜は市場を見る。
ユリアを見て泣きそうになる老人。
距離を取る若者。
母親の後ろで固まる子ども。
聖夜を見て目を逸らす店主。
誰も単純な敵ではない。
誰も単純な味方でもない。
ユリアが戻ったことを喜んでいる。
同時に、戻ったことで何かがまた動き出すのを恐れている。
「俺たちだけが巻き込まれたわけじゃないんだな」
口にしてから、聖夜はその重さに気づいた。
自分たちはデスゲームに巻き込まれた。
死にかけた。
だから、自分たちだけが被害者のように感じていた。
でも、この街にも三年がある。
ユリアがいなかった三年。
戻ってくるかどうかわからなかった三年。
戻ってきたら、また奪われるのではないかと怯える三年。
クローナが、少し後ろから言った。
「よく見ていますね」
ここながびくっとする。
「え、あーし?」
「はい」
クローナは、いつもの丁寧な顔をしている。
けれど、その目には評価があった。
「住民の感情を、よく拾っておられます」
「いや、そんな大層なものじゃ」
ここなは慌てて手を振った。
「なんか、刺さるだけで」
「それは、得難い感覚です」
クローナは静かに言った。
「殿下の帰還には、制度だけでなく感情も絡みます。感情を読める方は、必要です」
必要。
その言葉に、ここなの顔が少し固まった。
ここなは優しい。
包むのがうまい。
だが、優しさを役割として必要とされるのは、また別の怖さがある。
聖夜はそれを感じた。
「無理すんなよ」
小声で言うと、ここなは少し笑った。
「聖夜に言われたくない」
「それは、まあ」
言い返せない。
市場の端で、小さな音がした。
何かが石畳を転がる。
黒い木の実のようなものだった。
聖夜の足元で止まる。
投げられた。
強くはない。
当てるつもりだったのか、足元へ落とすつもりだったのかもわからない。
けれど、明らかにこちらへ向けられていた。
イリヤーナの目が細くなる。
ラヴィニアが眉を吊り上げる。
聖夜も、反射的に顔を上げた。
路地の影に、少年がいた。
十歳くらいだろうか。
怯えた顔で、でも逃げずにこちらを睨んでいる。
「人間」
少年が言った。
声は震えていた。
「また、殿下を連れていくのか」
市場が凍った。
母親らしき女が真っ青になって少年を抱き寄せる。
「申し訳ございません、殿下、どうか」
ユリアは動かなかった。
聖夜も、動けなかった。
怒りは湧いた。
人間というだけで、何を言うんだ。
ユリアを連れていくつもりなんてない。
むしろ、連れてこられたのは自分の方だ。
そう言いたかった。
だが、ここなが先に一歩出た。
「怖かったんだね」
少年が目を見開く。
ここなの声は、いつもの軽さを少しだけ残している。
でも、ふざけてはいない。
「またいなくなるの、怖いんだ」
少年の顔が歪んだ。
母親が泣きそうになる。
聖夜は、怒りを飲み込んだ。
飲み込めた。
ここなが、先に恐怖を拾ってくれたからだ。
「俺は」
聖夜はゆっくり言った。
「ユリアを連れていくつもりはない」
少年は答えない。
「でも、そう見えるのは、わかった」
その言葉を出すのは悔しかった。
だが、言わなければいけない気がした。
ユリアが、聖夜の隣に立つ。
「私は、ここにいる」
短い言葉だった。
少年は唇を噛んだ。
母親は何度も頭を下げる。
クローナは、処罰を命じなかった。
ただ、神官補佐へ視線を送る。
少年と母親は、店の奥へ下がらされた。
市場の空気は、完全には戻らない。
けれど、壊れもしなかった。
ここなが、聖夜の袖を軽くつまんだ。
「怒っていい場面だったよ」
「怒りかけた」
「うん。見えた」
「でも、あいつ怖がってた」
「うん」
ここなは頷く。
「怖がってたから、何言ってもいいわけじゃない。でも、怖がってることを見ないと、こっちも間違える」
聖夜は市場を見た。
この街は泣いている。
それは、弱いという意味ではない。
悲しいだけでもない。
失ったものを抱えたまま、帰ってきたものを見ている。
その視線の中に、自分たちは立っている。
ユリアだけを見ていればいい。
そう思いたかった。
だが、それでは足りない。
ここなは、聖夜の方を見ずに言った。
「ユリアちゃんだけ見てたら、たぶん足元すくわれる」
市場の魔力灯が、水路に揺れている。
「ユリアちゃんを待ってた人たちも、見ないと」
聖夜は頷いた。
重い。
また重くなった。
けれど今度の重さは、少しだけ輪郭があった。
美羽が、後ろで小さく息を吐いた。
そして、低く言った。
「この街、感情だけじゃない。制度そのものが、かなり危ない形をしてる」
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